貧女の一灯  御供養の精神

 

阿闍世王の半生
 インドのマカダ国の王舎(おうしゃ)城の阿闍世(あじゃせ)王という方は、釈尊御在世当時の方でございまして、初めは大変な悪王でありましたが、後には立派な王となられた方であります。
 この人のお父さんの頻婆舎羅(びんばしゃら)王という方は、大変に篤く仏法を信仰されておりました。その息子の阿闍世太子は仏法が大変嫌いでありました。そして、提婆達多(だいばだった)という悪い僧侶にたぼらかされて、自分のお父さんを殺し、お母さんの韋提希夫人(いだいけぶにん)を幽閉(ゆうへい)して、自ら王となった方であります。
 阿闍世王はさらに提婆達多から「釈迦を殺しなさい」と言われ、言われるまま釈尊のお命を何度も狙いました。しかし「仏は横死(おうし)せず」と申しまして、仏様は、人から殺されるということはないのであります。国王である阿闍世も、遂に釈尊を殺すことはできなかったのであります。
 阿闍世王は、自分の父親を殺したこと、母親を苦しめたこと、又、仏様を殺そうとしたことによりまして、大きな病気にかかりました。体中にできものができたのであります。医者に看せても、薬を飲んでも良くならず、段々、悪くなっていきました。
 「これはきっと、あの釈迦を殺そうとしたから、又、お父さんを殺したからに違いない。あの釈迦は『父を殺す者』『仏身より血を出す者』は無間(むけん)地獄に堕ちると説いている。自分の病は体から出たものではなく、心から出たものであろう。きっと、このまま苦しみながら自分は無間地獄に堕(お)ちて行くだろう」
と自分の犯した罪を嘆(なげ)いておりました。
 阿闍世王の家臣に、一人の仏法の信仰者がおりまして、その人が
 「王様、今こそ仏法に帰依(きえ)する時です」
と言いました。阿闍世王は、
 「わしは何度も、あの釈迦の命を狙った。何で今更、仏法に帰依できようか」
と言いました。すると家臣は
 「いいえ、釈尊は決して王様を憎(にく)んでおりません。どうか仏法に帰依してください」
 そこで初めて阿闍世王は悪心が取れて、釈尊に帰依したのであります。結果、心から出た病気は平癒いたしました。以来、阿闍世王は仏法の篤き信仰者となられまして、父親の頻婆舎羅王にも劣らない信心を貫かれたのであります。

 

阿闍世王の供養と、貧女の一灯
 後年、釈尊が『法華経』を説かれた時には、大勢の家臣・国民を引き連れて、『法華経』を拝聴することができました。
 この方は、釈尊に病気を治して頂いたことを篤く恩義に感じまして、御供養ということを欠かしたことがなかったのであります。
 今日も、釈尊や御弟子達にたくさんの食べ物を御供養しまして、その御供養が終わって部下の大臣に
 「今度は何を御供養したら良いであろうか」
と尋ねましたところ、その大臣は
 「今度は御灯明(とうみょう)を御供養されたらいかがでしょうか」
と答えました。阿闍世王は
 「よし、早速、百石(ひゃっこく)の油を用意しなさい」
と命じました。百石の油は馬車に積まれ、それをガラガラと運んでおりました。それを一人の老女が見ておりました。
 「ああ、私も仏様に御供をしたい。何百回、何千回、何億回、生まれ変っても、仏様に巡り会うことは大変難しいことである。その仏様に巡り会って、仏様に御供養させて頂くということも、又、なかなかできないことである。何か少しでも御供養申し上げたい。私も御灯明を御供養したい」
と思いました。自分の財産を見たところ、わずかしかない。そこで自らの髪の毛を切って売り、わずかの金銭を得ることができました。そして油を商(あきな)う所へ行き、
 「どうか、これで買えるだけの油をください」
と言いました。そのお金と老女を見て、油屋さんは
 「このお金では少しの油しか買えませんよ。それよりも失礼だが、あなたは貧しそうで、おなかも空いているように見受けられます。何か食べ物でも買った方がいいのではないですか」
と、このように言いました。老女は
 「私は仏様に御供養したいから油を買うのです。私は今世において、仏様に一度でも良いから御供養したいと思っておりました。今、その念願が適(かな)うところです。後日、阿闍世王が御灯明の供養会をされると聞いております。その時に私も、一つでもいいから、御灯明の御供養をしたいのです」
と言いました。油屋の主人はその言葉を聞いて大変感激いたしまして、お金の分よりも余計に油を分けてあげました。
 「これを御供養しなさい。一晩中燃えないかもしれない。途中で消えてしまうかもしれないけども、きっと、良い御供養になる」
と言って、油を渡しました。

 御灯明の供養会がいよいよ始まりました。たくさんの御灯明が釈尊や御弟子のもとに、供養としてあげられました。その日の夜、大風が吹きまして、大半の御灯明が消えてしまいました。しかし、その老女の御供養した御灯明だけは消えなかった。一晩中燃え続けていた。朝になっても、太陽が昇っても、それ以上に御灯明は明るく輝いたのであります。
 釈尊は御弟子の舎利弗(しゃりほつ)尊者・目連(もくれん)尊者・迦葉(かしょう)尊者・阿難(あなん)尊者に、その灯(ひ)を消すよう命じられました。
 それぞれの御弟子が一生懸命消そうとしましたが、消せなかった。目連尊者は、神通力をもって大風を起こして消そうとしましたが、それでも消えなかった。そこで、御弟子達がそろって、釈尊に
 「この御灯明は、我々の力では消すことができません」
と申し上げました。すると釈尊は
 「その通りである。これは仏の灯明である。お前達がいくら頑張っても、あの灯を消すことはできないのである。この灯明を供養した老女は、過去世において、たくさんの人達に仏法を説いてきた。しかしながら、残念なことに、仏に巡り会って、仏に御供養することができなかった。だから今世において、あのような貧しい姿をしているのだ。しかし、その仏に供養するという修行も、今終えて、未来世において、あの老女は仏に成ることができるのである。その時の名前は須弥灯光(しゅみとうこう)如来である」
と。
 それを聞いて皆は大変感激いたしました。その様子を見ていた阿闍世王は、大臣に
 「自分は百石の油を御供養したのに、記莂(きべつ=仏様が弟子や信徒に対して、未来の成仏を明かすこと)を与えられない。あの老女は、わずかな油の御供養で記莂を与えられた。どうして自分には記莂が与えられないのか」
と尋ねました。

 

大臣は
 「あの老女は、真心を込めて御灯明を御供養されました。国王は、真心が込もっていると言っても、真心が足りません。なぜならば、国王が御灯明を御供養されたと言っても、そのお金はどこから出ておりますか。国民の税金から出ております。油は誰が運びましたか。部下の者が運びました。油に灯を着けたのも部下です。確かに国王の御供養も尊いけれど、まだまだ真心が足りません。ですから、これから仏様に御供養される時は、真心を込めてください」
このように言いました。そこで阿闍世王は
 「では、この次は、自分で花をこしらえて、仏様に御供養しよう」
と言いまして、職人の人達を呼んで、どのようにしたら花を作ることができるかを聞いて、誰の手も借りず、自分の手で花を作り始めました。
 そして90日かけて、ようやく花ができました。その花を釈尊に御供養しようとしました。ところが、釈尊は涅槃(ねはん)に入られておりました。もう再び、この世ではお会いできなくなっておりました。
 「ああ、折角(せっかく)自分で作った花を釈尊に御供養しようと思ったのに、釈尊は涅槃に入られてしまった。誠に悲しい」
と言いながら、その花を釈尊のお体の上にお飾りしました。すると、天から釈尊のお声が聞こえてきまして、
 「よくぞ阿闍世王、真心の供養をした。汝(なんじ)はその大功徳によって、未来世において、浄其所部(じょうごしょぶ)如来という仏になるであろう。又、汝の子息の王子も、未来世において、栴檀(せんだん)如来という仏になることができるであろう」
と、このように記莂を与えられたのであります。

 

 仏道修行というのは、何でも、心という事が非常に大切であります。見せかけであってはいけないのであります。真心のこもった御本尊へのお給仕、真心のこもった御供養、真心のこもった折伏弘教、真心のこもったお題目、これが大事であります。それを忘れた修行に功徳は、当然、無いのであります。日蓮大聖人は
 「ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すは何事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つき(着)て候衣を、法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候ぞ。これは薬王のひじ(臂)をや(焼)き、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候」(『白米一俵御書』 御書1601ページ)
と仰せであります。
 私たちの真心からの御供養の功徳は、雪山童子や薬王菩薩、楽法梵志等の修行の功徳に決して劣るものではありません。

 

 ※ 当該文は、『迦陵頻伽声』(123ページ)に掲載された文章に、当ページ編者が必要と思われる漢字の読みを追加したり、一部、わかりやすいように訂正を加えたものです。

 

 《参考》

 賢愚経(貧女難陀品)によると、貧女は供養する際に誓願をおこす。

「私は今、貧窮でございますが、この小さな灯火を御供養します。願わくはこの功徳をもって、わたしは未来の世には智慧の照らしを得て、一切衆生の汚れや暗黒を滅し除くことができますように」と。
 釈尊はこの誓願を「貧女が供養した灯火は四大海の水をもってしても、嵐をもってしても消すことはできない。なぜなら多くの人を救おうという大心を発した人が供養したものであるから」とたたえたという。
 この説話は、貧しくとも人々を救おうという心、誓願を趨こすことの大切さを教えている。(中村元選集「原始仏教の杜会思想」)

 

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info