だれにでもできる折伏
今回は「だれにでもできる 折伏」というお話をします。
はじめに、仏教説話をひとつ、ご紹介します。
昔、ある時、お釈迦様(釈尊)の弟子であったアッサジという名のお坊さんが、街中で托鉢(たくはつ)の修行(しゅぎよう)をしていました。彼はとても若く、子供のようにかわいらしい顔つきでしたが、托鉢する姿は、堂々として立派だったので、たまたま通りかかったひとりの青年が、その姿に、強く心を惹(ひ)かれました。
「もしこの世に、真実の聖人(しようにん)がおられるとしたら、このお坊さんは、きっと、その方の弟子に違いない。ひとつ、師匠は誰か聞いてみよう」
托鉢(たくはつ)の最中は、話しかけてはならない、との作法がありましたので、青年は、アッサジが托鉢を終えるまで、静かに後をついていきました。
やがて托鉢も終わり、宿舎へ帰ろうとするアッサジに声をかけます。
「あなたの振る舞いはとても立派で、お顔は美しく輝いています。あなたが教えを受けているお師匠様は、さぞかし素晴らしい御方なのでしょう。あなたの師匠は、どういう方ですか?」
「はい、それはそれは立派な方で、仏陀(ぶっだ)(覚者)とお呼びします」
「あなたは、その仏陀から、どんなことを学ばれたのですか」
アッサジは、はずかしそうに答えます。
「私はまだ若く、仏陀の弟子になってから日も浅いので、仏陀の教えを、要領よく、あなたにお話することはできません」
青年は続けます。
「簡単なものでも構いません。あなたの心に残る仏陀の言葉を、一つでもいいから、聞かせていただけませんか」
「私は未熟者で、立派な説法はできません。ただ、私が、ぜったいに忘れまいと、繰り返し念じている仏陀の言葉は、次のとおりです」
アッサジは、青年に向かって、丁寧(ていねい)に唱えました。
「善いこと、悪いこと、どんなことにも原因があって結果がある。仏陀は、その原因をよく知り、それを私たちに教えてくださる。また、すべての原因をよく知る仏陀は、その結果もよく知り、それを私たちに教えてくださる。私たちは、ただ、その教えを信じ、実践するのみである」
アッサジが唱えたお経は、当たり前の、とても単純なものでしたが、青年は、その言葉の奥にある、大事な教え(因果の道理)を感じ取ることができました。そしてアッサジに頼んで釈尊の元へ連れて行ってもらい、釈尊の弟子になりました。
この青年の名を「舎利弗(しゃりほつ)」といいます。のちに釈尊が、誰よりも信頼した智慧(ちえ)第一の弟子・舎利弗尊者(そんじゃ)、その人です。
数ある仏教経典のなかで、最高峰の教えが法華経です。その法華経の「方便品」は、この舎利弗らに向かって説法されたものです。方便品に、「告舎利弗(ごうしやりほつ)」という言葉が何度もでてきますが、これは「仏が、舎利弗にお告げになるには…」という意味です。
尊い法華経を説法する縁となった舎利弗尊者。そんな立派な仏弟子も、もとはといえば、アッサジという青年僧が、一生懸命、托鉢する姿に感動し、仏道に興味を持ったのでした。
托鉢(たくはつ)の修行は、相手に善根(ぜんこん)を積ませ、また自身も心を磨く大切な修行です。現在、日蓮大聖人の信仰に励む私たちにあてはめれば、托鉢行は、まさに自行化他、なかでも「折伏行」にも相通ずるものと言えます。
人には得手(えて)不得手があります。たとえば、言葉で相手を納得させるためには、時に、非常に高度な話術や深い知識、豊富な経験などが必要となる場合があります。しかし、たとえば、これに対して、自分が話し下手であることを理由に「他人に信心のことを説明することなど、私にはできません」と、端(はな)から折伏を諦(あきら)めてしまう。これはとても、勿体(もったい)ないことです。
もし、南無妙法蓮華経の信心を上手に説明できないなら、自分が一生懸命に唱題する姿、そして、他人を思いやる真心の振る舞いを通して、日蓮大聖人の教えの素晴(すば)らしさを、みんなに示していくのです。また、アッサジが舎利弗に、はずかしがりながらも、簡単な経文を一生懸命に教えたように、どんなに、やさしいことでもいいですから、御本尊様のすばらしさを伝えていくのです。こうしたことなら、すぐにでも、誰にでもできるはずです。
また、皆さんのお子さんに信心を伝える法統(ほっとう)相続(そうぞく)。これもまた身内への折伏(しゃくぶく)です。
お子さん、お孫さんに、大事な信心を伝えていくには、まず私たちが、この信心に喜びを感じていなければなりません。なぜなら、たとえば総本山大石寺へ登山参詣して、「ああ、疲れた疲れた。大変だった」と、留守(るす)を守っていた家族の前で愚痴(ぐち)をこぼしていたら、ご家族はきっと、「そんな大変なところへ、行かなきゃいいのに」と思ってしまうからです。
そうではなくて、たとえ、いつもプリプリ怒(おこ)っているお母さんも、お山へ行くと機嫌良く帰ってきて、ニコニコ笑っているな、と。「お山って、お寺って、そんなにいい所なんだろうか」と。
そういった私たちの喜びの振る舞いこそ、法統相続への取り組みを、一歩前進させる大きな力となっていくのではないでしょうか。
何はともあれ、「まず、やってみる」こと。結果はあとから必ずついてきます。
誰にでもできる折伏に、私たちも、ぜひ挑戦してみましょう。
※ 当文章は「ちくま文庫版『仏教百話』42ページ」該当部分の説話の趣旨を要約し、さらに、本宗信仰に即した形で筆者が加筆したものです。