自我偈の現代語意訳  

 

 ※ 日達上人御述の「通釈法華経」(和党編集室 229ページ)を基に、難解な部分については。当ホームページ編者がわずかに変更・加筆させていただいたものです。

 

 

 私は、本有(ほんぬ)無作の三身(法身・応身・報身)が相即(そうそく)した古仏で、すでに無量百千万億阿僧祇(あそうぎ)という遠い昔に覚(さと)った仏であります。無始無終の古仏を自得(じとく)して以来、これまで無数億という数え切れないほどの人々を導いてから、また無量の年数が経ちました。

 私は、すべての人々を救うため、仮の手段を用いて、私自身が滅する姿(臨終の相)を示しました。しかしそれは、非滅(ひめつ)の滅を示したのであって、実際、私の仏としての生命は死んで消えてしまった訳ではありません。山谷(さんごく)であれ、曠野であれ、いつでもこの娑婆世界に住し、南無妙法蓮華経の教えを説法しているのです。

 私は常に、この国土に住し、人々を成仏へ導くため妙法蓮華経の説法をしていますが、邪見(じゃけん)や謗法(ほうぼう)に染まった人々に対して、私は神通力(じんつうりき)を用いて、常に此処(ここ)に住しながら滅度を現わし、謗法の人々には、常住なる私の生命を見せないようにしています。

 人々は私が滅する姿を見て、皆、「仏に会いたい」という恋慕(れんぼ)の思いを懐き、仏を渇仰(かつごう)する信心を起こして、大いに仏舎利(ぶっしゃり)を供養しました。

 人々が、仏の教えに信伏し、正直であって素直な信心を持ち、「仏に、なんとしてもお会いしたい」と一心に思って、身命を惜しまない真剣な修行ができるようになれば、その時私は、菩薩(ぼさつ)や二乗、六道の衆生とともに霊山寂光(じゃっこう)浄土に列出(れっしゅつ)します。

 

 寂光浄土に出現する時、私は人々に言います。私は、常にこの霊山にいて、けっして死んで消え去ることはありません。ただ人々を救うため、神通力を使って滅不滅の相、すなわち仏身にも生滅の相があるように示しているだけなのです。もし、よその国において、人々が私を恭敬し信敬することがあれば、私は、その国に出現して、人々に対し、妙法蓮華経を説きます。あなた方は私の説法を信をもって聞くことができないから、ただ私は死んでしまって、いなくなってしまったものと思っているに過ぎないのです。

 私が多くの人々の姿を見渡すと、人々はみな謗法の罪障(ざいしょう)が深重によって、生死の苦しみの海に深く沈んでしまっています。ですから私は、あえて臨終の相を示し、謗法不信の彼等に「仏は会いがたいのだから、今こそ真剣な修行をしよう」との渇仰の念を生ぜしめ、心に恋慕の思いを起こさせるため、世に出現して妙法蓮華経を説くのです。

 仏が神通力をつかって滅不滅の相を示すことは、この様な理由によりますが、実は私は常に霊鷲山及び余の諸の住処に住しており、謗法の人々が、世界の劫数(こうすう)が尽き、壊劫(えごう)の時がやってきて、大火に焼き尽されるのを見る時、即ち謗法の人々が煩悩(ぼんのう)の大火に焼き尽され、苦しんでいる姿を見る時、一方の仏の常寂光土の国土は、つねに安らかで、天人が常に充満して、法界ことごとく一つの道場となり、森林や種々の建物は、あらゆる宝石によって美しく荘厳され、宝樹には立派な花が咲き、木には果実がたわわに実ります。(仏の境界とはこのように)すべての人々が遊行(ゆぎょう)歓楽する処となるのです。仏国土はさらに、諸天善神は天の鼓(つづみ)を撃(う)ち、常に種々の舞伎、音楽を作し、天からは曼荼羅華(まんだらけ)というすばらしい花を雨(ふ)らせて、寂光浄土の仏や、仏の教えを信じ実践する弟子たちの上に散華(さんげ)します。

 

 このように、久遠本仏の住む寂光浄土は金剛不壊(ふえ)であるにもかかわらず、謗法不信の人々は過去世に積んだ福徳も尽きて、劫末(ごうまつ)の劫火(ごうか)によって焼尽し、修羅(しゅら)、餓鬼(がき)といった苦しみが世の中に充満し、阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)の内に堕(お)ちているのです。これらの罰(ばつ)せられた人々は、謗法不信であるため、無数劫の永い間を過ぎても、仏・法・僧の三宝の御名(みな)すら聞くことができません。まして久遠の仏に出会うことなど、出来ないのです。

 

 

 

 

 

 いろんな善根を修行し、心が柔和で忍耐強く、質実ともに正直となれた人は、皆、久遠の仏様が常に霊鷲山(りょうじゅせん)におられて、妙法蓮華経の寿量品の説法をされているのを、あたかも目の当たりにするように身近に感ずることができます。

 以上のように、私は、正しく信ずる人々のためには、仏の寿命は常住不変であると説きます。また、五濁(ごじょく)悪世の謗法不信の人々で、長い間の仮の修行によって功徳を積み、ようやく仏に遇うことができた人には、仏にはいつでも会える訳ではなく、億劫という途方もない年月を経ても、なかなか値えないものと説きます。

 久遠の覚りは、この様に常住不変で、その仏としての智慧の働きは、十界世界を照らし尽くし、仏としての尊い寿命は無量無終です。この久遠の覚りも無終の寿命も、久遠に一心三観の南無妙法蓮華経を修行し、即座開悟したのです。

 あなた方のような智慧(信心)ある人々は、久遠実成の私の仏身に対して疑いを生じてはいけません。当に疑網(ぎもう)を永久に断じなさい。仏の御言は悉(ことごと)く真実で、仏が衆生を救済する利益には、ウソや偽りはありません。

 

 譬(たと)えば、良医(ろうい)があって善巧(ぜんぎょう)方便を用いて狂子(おうじ)の病を癒すため、本当は死んだ訳ではないのに、方便を用い、遣いの人に「父上は外国で亡くなりました」と言わせ、これによって子供たちに良薬を飲ませたことに対し、この良医を指して「ウソつき者」と誹る者がないのと同様です。

 私も、その良医のように、すべての人々を慈しむ父として、すべての人々を無間地獄の苦しみから救う唯一の者です。ですから、すべての人を救う手段として、真理を顚倒(てんどう)して見る邪見の人に対しては、本当は仏としての生命は常住であるのに、死んでいなくなったように思わせます。それは、謗法邪見の人々にとって、いつでも眼前に仏がいると知らせれば、かえって憍慢(きょうまん)・自恣の念を生む結果となり、凡身五欲の煩悩に、ますます貪欲になって謗法を犯し、その結果、阿鼻地獄に堕ちることは疑いないからです。

 私は、常に妙法蓮華経を信ずる人と、謗法の人の両者を見て、信ずる人々のために開近顕遠して遠本寿長を説き、謗法の人々のために開三顕一して近迹寿短を説きます。

 こうして久遠本仏は、三世に渡り、本有無作の南無妙法蓮華経を、あらゆる手段を用いて人々に教え、すべての人を寿量品の無作三身の仏に成らせること、すなわち、本有不改の成仏を得させようと、常に思いや考えをめぐらせているのです。

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info