第1回 妙通寺仏教セミナーより

 

 

妙通寺仏教セミナー 住職のお話          令和元年9月1日

 

 みなさん、こんにちは。このお寺、妙通寺と申しますが、住職の細井といいます。今日はおいでいただきまして、大変にありがとうございます。
 さて、今日は仏教セミナーとしまして、皆さんに少しお話をさせていただきます。
 このお寺は、日蓮大聖人の教え、南無妙法蓮華経のお題目を唱えるお寺です。そして、唱えるお経は法華経といいまして、インドのお釈迦様が説法した、数多くのお経のなかの一つです。
 お経は、「八万四千の法蔵」と言われるように、たくさんあります。そして、そのお経によって、内容がまったく違ったものとなっています。お釈迦様という一人の仏様の教えなのに、どうしてお経によって言うことがぜんぜん違うのか。みなさん、どうしてだと思いますか?
 それは、そもそもお経とは、死んだ人を供養するためだけに説かれたものではない、からです。
 お釈迦様、尊敬の意味を込めて釈尊と申しますが、釈尊は悟りを開いたのち、弟子を連れて今のインドやネパールなどを旅しながら、出会う人に色々な教えを説かれました。あるときには、小さな子供の遺骸を抱いて、嘆き悲しむお母さんを励まそうと教えを説いたり、あるときは、乱暴者の大男に、暴力をやめさせるために教えを説いたりしたこともありましょう。。

 

 そもそもお経の「経」という漢字の意味は、「時代を貫(つらぬ)く不(ふ)変(へん)の道理」というものです。ですから、釈尊が「どのように生きたら、幸せになれるか」、正しく生きていく術(すべ)を人々に教えたもの。それが後世に、弟子たちによって、順序だててまとめられたものが「お経」として残っているのです。
 私たちの周りでも、「お寺は葬式か法事で行くところ」とか、「お経を毎日唱えているなんて、誰か死んだのですか?」と言われる方がいます。もちろん亡(な)くなった先祖を供養することは、大事なことですが、仏教とは本来、生きている人、「自分がこれから、どうしていけばよいかわからない」と迷う人に、「あなたにとって、人生の道はこのように歩いて行けばいいんだよ」と教えてくれる、人生の指南書こそが、お経本来の意義であると言えます。

 

 なかでも、このお寺は「法華経」を唱えます。釈尊は80歳で亡くなっておりますが、最後の遺言として説かれた教えが法華経です。
 日蓮大聖人は、お若い頃の修行時代、全国のお寺を訪れながら、いろんなお経を学ばれました。そして、念仏のお経とか真言宗のお経とか、それらのお経は、部分的には良い事が説かれるものの、先程言いましたように、悲しみにくれるお母さんを励ますために説かれた教えは、そういう人には役に立ちますが、そうでない人、たとえば子供を持たない独身男性が聞いても、「自分にはあまり関係ない」。むしろ、「今、自分は、会社でいじめられていて、もう、どうしていいかわからない、そういう悩みをかかえている」と。このような人に、子供を失った母親を励ます教えを聞かせても、まったく心に響かないのです。
 このように、お経によって、それぞれ意味がある人と、ない人がいる。また、お経の中においても、真実のものと、方便の仮の教えという違いもあるのです。しかし、そんなことを言っていたら、自分に適したお経を見つけるまでに時間がかかりますし、そもそも見つけらるかどうかもわかりません。
 そこで釈尊は、ご自分の人生の最後の時期にさしかかった時、遺言として法華経を説かれました。この法華経は、すべての人を対象として説いたものです。しかも人間だけではありません。動物や植物など、ありとあらゆる存在に対して、それぞれが、ありのままの姿において、もっとも適した存在意義を見い出す方法が説かれているもの。男女の差別や善人悪人の区別を超越し、徹底した平等観に立って成仏が示された教えこそが法華経であると、日蓮大聖人は悟られたのです。
 そして、日蓮大聖人は、法華経の一番大事なところ、エッセンスを凝縮して、南無妙法蓮華経の曼荼羅を顕わされました。法華経と一言で言っても非常に長く、全部を読もうと思ったら一日がかりとなります。それでは、寝る時間や働く時間がありません。ですから、法華経の一番大事な部分、それを一言でいえるように「南無妙法蓮華経」と仕立てられて、この題目を唱え、つらいこともあろうが、がんばって仕事にいってきなさい。嫌なことがあっても、そんなことに負けないで、勇気を出して学校で勉強しておいでと。そうした努力と精進の積み重ねが、自分の心を強く、美しく磨いていく修行になるんだと。自分の悪いところ、弱い命を少しでも浄化し、強化して、あなたにとっての最高の幸せを見つけるための修行、それが南無妙法蓮華経の信仰であると教えられました。
 幸せは他人からもらうものではなく、自分で見つけものです。今、大変な病気に苦しむ方なら、その病気と闘いつつも、その人生の中に、絶望ではなく生きがいをみつけていく。家族のことで悩んでいる人も、日々、葛藤しながら、その人生に感謝し、喜びを見い出していくのです。それが本当の意味の「成仏なんだよ」と。「あなたにとって、ありのままの、背伸びをしない幸せの姿なんだよ」と、日蓮大聖人は教えられたのです。(下に続く)

 

 

 さて、少しお話を変えまして、皆さんの目の前、この本堂のお飾り等について、説明させていただきます。

 

 まず一番の中心に、仏像ではなく、南無妙法蓮華経と書かれた板曼荼羅御本尊が祀ってあります。なぜ仏像を祀らないのかと申しますと、日蓮大聖人の教えは、先程から申しておりますように、「法華経」というお経を中心に捉えます。よって、法華経の功徳が凝縮して顕わされている御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱えれば、法華経すべてを読まなくても、すべてを読み尽くした功徳があると説かれました。つまりこの御本尊を拝むということは、法華経そのものを御本尊として崇める姿を表わしています。
 世の中には、法華経を唱えるお寺がたくさんありますが、そうしたお寺でも、ほとんどの所は釈尊やその他の仏、有名なところでは鬼子母神等の像を祀っています。でもそれは、本来のあり方ではありません。
 なぜなら、まず第一に、たとえば釈尊を祀っているならば、「南無釈迦牟尼仏」と唱えるべきであり、釈尊の像に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、あたかも、斉藤さんに向かって、「鈴木さん、鈴木さん」と呼びかけていることになるのです。これはおかしな、間違ったことであることは、誰にでもわかると思います。ですから「南無妙法蓮華経」と唱える宗旨ならば、少なくとも、拝む対象の本尊は、「妙法蓮華経」という法華経でなければならないのです。私たちの日蓮正宗では、全世界すべてのお寺において、その基本を護り、仏像ではなく法華経の曼荼羅御本尊を拝んでいるわけでございます。

 

 また、仏像を祀らない第二の理由は、法華経に、法華経を信じ、唱える人の、日頃のお参りの姿について、次のように書かれていることがあげられます。
 「此の経巻に於て 敬(きよう)視(し)すること仏の如くにして 種々に華(け)香(こう) 瓔(よう)珞(らく) 抹香 塗(ず)香 焼香、繒蓋(ぞうがい)、憧幡(どうばん)、衣(え)服(ぶく)、伎(ぎ)楽(がく)を供養し、乃至合掌恭(く)敬(ぎよう)せん」とあります。
 つまり、最初、「此の経巻において敬視すること仏の如く」というのは、此の経巻は法華経でありますから、この南無妙法蓮華経の御本尊を中央に置いて、それを生きている仏様のように思い、心から尊敬の念を表わしなさい、ということです。
 そして次に、「種々に華香」をお供えするとあります。ここのお寺では御本尊を祀る場所には「シキミ」という葉っぱをお供えしています。このシキミは、日本古来の香木でありまして、その香りは邪気を払い、場所を清めるという効力があるとされます。バラや菊、蘭などの色花は大変に美しく、私は色も香りも大好きですが、それらの色花は、その場所をきれいに飾ることがあっても、邪気、悪いものを浄化する力はありません。ですから強力な力で邪気を払うシキミをお供えして仏前を清め、日々に線香を焚いて尊い香りを御本尊に供養しています。
 次の瓔珞というのは、仏具のあちこちに施されている美しい飾りのことです。抹香とは、香木、美しい香りがする木を細かく刻んだもので、皆さんの場所からは見えませんが、御本尊の前に、毎日、新しい水と一緒に、刻んだ香木、抹香をお供えしています。次の塗(ず)香(こう)といいうのは、最近はあまり使用しませんが、昔、僧侶等が御本尊にお参りする際に、体に塗って身を清め、仏様に失礼のないようにしていました。あるいは少し口にも含んで、口のにおいを清める役目もあったと言われています。次の焼香はお焼香です。

 そして繒蓋(ぞうがい)とありますが、これは私の頭上にある大きな傘(かさ)のことです。天蓋ともいいます。インドは大変に日差しが強く、釈尊が道を歩かれる時、弟子たちがいつも日傘を差しかけてお供をする伝統がありました。そうした伝統等を基として、「あなた方がお参りするこの本堂には、いつでも仏がおられるのですよ」ということを示しています。

 そして憧幡(どうばん)は、「これから仏という尊い方が、ここを通ります」と、昔は偉い人が道を行くとき、行列の先頭に旗を立てて、どういう人なのかということを示しながら歩いたのです。日本の時代劇を見ても、戦いのシーン等で、徳川家だ、豊臣側だと、それぞれの大名の紋章が書かれた旗を足軽が持ったり、馬に結びつけるなどして、行軍していくシーンがありますが、あれと同じような意味であろうと思います。ここは法華経のお寺ですから、本堂の憧幡の一番には、総本山の御法主上人の御手による南無妙法蓮華経の御文字が一番上に書かれておりまして、「ここには南無妙法蓮華経の仏がおられますよ」「あなた方を救うため、いつでも、どこにでも、南無妙法蓮華経の仏は出向かれますよ」と。実際に今、つけられている仏具は、かなりゴージャスになっておりまして、旗には見えないかもしれませんが、そのような意味があります。
 そして衣(え)服(ぶく)を整える。我々僧侶は、御本尊にお参りする際には、個人的であっても、公であっても、どんな時も必ず袈裟と衣を着用してお参りします。信徒の皆さんも、袈裟をかけることはしませんが、身なりをきちんと整えて、お数珠(じゆず)を手にかけ、御本尊に合掌礼拝することが大事です。それがまた、仏に対する供養になるんだということです。次の伎楽は、ここのお寺では法要の際、お題目を唱えるときに太鼓をたたきます。声を合わせるという意味と、もうひとつは、音を御本尊にお供えする。妙音を捧げるという意義があります。
 以上のようなことを、きちんと整え、心を落ち着けて御本尊に集中し合掌する。まさにこの法華経の言葉を、そのまま形に顕わしているのが、この本堂の形式といえます。

 

 以上、妙通寺の仏教セミナーとして、最初に法華経というお経について、次に、お寺の本堂の形式について、ともに法華経の教えを元にお話をさせていただきました。
 このお寺はまだ創立されて50年ですが、日蓮正宗という宗旨はもともと、鎌倉時代から続くものであります。日蓮大聖人より直接に伝えられた南無妙法蓮華経の教えが、800年近くにわたり、途中で途切れることなく、確かに伝えられています。
 皆さんには、そうした伝統の教えに、少しでも接して戴き、何かを感じていただければ幸いです。
 以上、私のお話とさせていただきます。ありがとうございました。

 

 

体験発表          N.F
 「信仰のきっかけ どうして私が日蓮正宗の信仰を真剣に行うようになったのか」

 

 皆様こんにちは。只今ご紹介いただきましたFと申します。
 本日のテーマ「信仰のきっかけ」について、拙い体験ではございますが、お聞き下さい。
 私の家はもともと「南無阿弥陀仏」の念仏宗でしたが、私が1歳の時、両親とともに日蓮正宗に入信しました。
 子供の頃から親に連れられてお寺に行くのが当り前という生活で、日々の勤行、唱題もしておりましたが、大学に入学し、親元から離れると、お寺からも離れ、日々の勤行、唱題からも離れていってしまいました。
 仲間と楽しく過ごしてはいるものの、信仰という本当に大切なものを後回しにしていたことから、自然と、学業や将来のことを後回しにしてしまうような生活を送っていました。「このままではいけない」「何とかしなければ…」と思ってはいても、自力ではなかなか抜け出すことのできない状態まで、残念ながら堕落していました。

 

 そんな折に、信心の先輩が名古屋から広島に遊びに来てくれました。私の部屋にご安置させていただいていた仏壇の樒が“ドライフラワー”のように枯れてしまっているのを見た先輩は、「これは、大変だ」と心配してくださったのでしょう。「総本山任務を始めてみないか?」と誘ってくれました。
 総本山任務とは、日蓮正宗の総本山である大石寺へ行って、総本山を外護(外から護り)、法要がつづがなく行なわれるよう警備をしたり、参詣される方の安全を護ったりと、いろいろお手伝いをさせていただく役目をいいます。私は、このときの先輩の誘いによって総本山任務を20歳の時から現在まで続けております。おかげさまで、寺院参詣もきちんと行なえるようになり、日々の勤行、唱題も、家族そろってできるようになりました。

 

 日蓮正宗の南無妙法蓮華経の功徳は、本当にたくさんありますが、「自分を成長させてくれる人に恵まれる」というものがあると思います。
 皆さんも、「朱に交われば赤くなる」という諺を聞いたことがあると思います。私たちは時に、付き合う友達からいろいろと影響を受けることがあります。しかし、そうした友達よりも、先生や上司、師匠から学ぶことの方がさらに人生に与える影響は強いものです。まして、南無妙法蓮華経の御本尊様は、帰依、すなわち私たちの命の底から崇拝する尊い対象ですから、我々自身の人生への影響力は非常に大きなものになります。私たちは、いつでも最高の仏縁である南無妙法蓮華経の御本尊様に親近していくことによって、自分の命に福徳が具わり、その福徳によって自然と周りの人にも恵まれ、他人からも厚く信頼されるような人間に成長できるということです。

 

 私は、世の中のため、他人のためになる仕事がしたいと考え、大学では土木を学びました。当時は現在の職種とは全く違う、研究メインの会社を志望していました。しかし、大学の就職担当の先生~この先生は非常に強烈なキャラの方で、「これからの時代は●●会社か●●会社の時代だ。これまで本学からひとりも内定者がでていないから、F君が突破口を開いてくれ」と言われ、自分なりに調べ、最先端技術に深く携われる現在の職場を志望しました。

 当時はまだ「総合職」という枠組みでしか大卒の採用がありませんでした。募集枠もわずか13名の超難関でしたが、無事内定をいただき現在に至ります。色々あって修士も含め7年間大学に通いましたが、自分が就職活動をするタイミングで、そうした強烈なキャラの就職担当に出会えたこと。その方の強い勧めにより、それまで思いもしなかったような職種を選べたこと、現在までそれが、本当に天職として勤めさせて戴いていること、こうした不思議な御縁も信仰の功徳だと感じています。

 

 今年の7月からは、大阪の現場長として仕事をしています。現場では統率力だけではなく、部下社員と関係会社の作業員を含めた数百人を導いていくための「人間力」が必要になります。40歳そこそこの私が今回、現場長へ就任させていただいたことは、この人間力を会社が認めてくれたということになります。これも信仰の功徳の結果だと感じています。
 私は「知恩報恩」ということを大切にしています。恩を感じて、恩返しをすることですが、自分に余裕の無い人はこれができません。仕事、家庭、収入、健康等、人生の悩みの種はたくさんあると思いますが、この南無妙法蓮華経の信仰をしていると、自然と環境が整ってきて不安がない状態になり、自分以外の他人のために考え、動ける人生を送ることができるようになります。
 私も含め、とくに男性は、感覚よりも理屈で納得しないと物事を始められない方が多いかとも思いますが、本日初めて妙通寺に参詣された方は、一緒に連れてきてくれた方の想いに耳を傾け、まず、一緒に信心を始めてみていただければと思います。
ご清聴ありがとうございました。

 

 

体験発表       壮年部長 T.S

 皆さんこんにちは。
 私は妙通寺支部で壮年部長を仰せつかっておりますSと申します。
 本日は私が何故、日蓮正宗の信心をしているのかについてお話させて頂きたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。

 

 まず、私の現在の生活環境をお話させて頂きます。私は現在、愛知県稲沢市に住まいがあります。そして、東京都内で不動産関係の仕事をしており、ひと月に1回か2回、愛知県の自宅に帰といった単身赴任の生活を、ここ数年の間続けております。
 東京という特殊な社会環境の影響もありますが、一歩外へ出てみますと、非常に厳しい日本の経済環境を階間見る毎日です。経済格差も激しく、普通の会社員はなかなか給料が上がらず、将来の先行きにみな、大変な不安を感じておりますし、勝ち組、負け組と言われる様な社会構造が常態化しており、富める者はますます富み、貧しい者は一層貧しくなるというのが、現在の日本社会の姿です。

 

 とくに私が日頃活動している東京都内には、外国資本の流入も激しく、グローバル化という名の下に日本文化が破壊され、行き過ぎた「成果第一主義」、「お金を稼ぐ事が一番という風潮」のもと、「資本」を持つ者がすべての支配権を持っています。大手企業や、その株主は裕福ですが、それ以外の世間には資金が供給されず、不景気が続く社会構造ですし、まだまだこれからも、そうした厳しい状況が続きそうです。
 また、私の周りを見てみますと、毎日真面目に仕事しているのだけれども、本人の努力とは裏腹に、やってもやっても上手くいかず、ストレスばかりが溜まると、愚痴をこぼすひとが大勢います。また一見、仕事が順調に進んでいる様に見える人も、どこかで必ず何かを失敗し続けている人も見受けられます。しかし、その一人一人は決して悪い人ではないですし、厳しい環境の中で必死に働いている訳ですが、何故か上手くいかない。そして、いつも不平不満ばかり口から出てしまっている。そういう人が多いのです。

 

 社会では、金融資本主義がはびこり、「お金が全て」、「自分の利益が全て」、「他人の事は後回しで自分が良ければそれでいい」。平気で他人を裏切る事が日常茶飯事、そんなことが平然と行われています。このような時代の中で毎日毎日、日夜ビジネスを行っている訳ですから、多大なストレスが重なり、他人も信用出来ず神経をすり減らしながら生きている人が多いというのが、正直な私の感想です。
 このように言いましても、私自身も生活していかなくてはなりませんし、稼がなければ家族も生活できません。ですから、その様な不本意な環境の中で、日々思い悩む事も多くありました。周りが、どうしても、そのような人ばかりですので、いつしか自分も、その環境の中に入って、周りの環境に流され、ついうっかりすると、目先の利益に走りがちになってしまいます。

 

 この信心をしていない人であれば、「世の中が悪いのだから、仕方がない、いいわいいわ」で終わらせると思います。「右へ倣え」で周囲の人々の悪環境と同じ境涯に落ちてしまう事でしょう。
 しかし、この信心していると、そうした葛藤の時、心の中で大きく自問自答が起こってきます。日蓮大聖人様の仏法に照らして、何が正しくて何が間違っているのか?自分はどちらの道に進めばよいのか?と、私はいつも悩みます。しかし、どんなに悩んでみても、自分の努力と智慧だけでは、結論を出せるはずもありません。そんな時、私はどうするのかと申しますと、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えます。忙しい時間の合間に題目を2時間3時間と唱題を唱えます。それを1日、2日、3日と続けていきます。そうすると自然と自分の心が落ち着き、唱題中に仕事の先行きに対する光明が不思議と見えてくるのです。
 唱題をしていると、なにも感じない日もありますが、本当に、ここぞというとき、心の底から悩みながらでも題目を唱えていくと、不思議とその場に応じた解決策が、ふっと頭の中に浮かぶのです。それと同時に日々の仕事関係の中でも、不思議と取引先の方々から私に対する仕事の依頼が自然と増えてきます。向こうから仕事がやってくるのです。
 もちろん、その全てが成就する訳ではありませんが、結果的に仕事に恵まれ、人に恵まれ、事業の成果が上がり、振り返ってみますと、本当に充実した生活を送らさせて頂いている現実に、この御本尊はすごいと思いますし、この御本尊様に守られている事をヒシヒシと感じております。私は、日蓮正宗の信心なしに、絶対に幸せはつかめない事を身をもって確信しております。

 

 今の世の中、末法の我々衆生は知ると知らざるとに関わらず、元品の無明と呼ばれる煩悩によって命が濁っているとされます。しかし、日々に地道に唱題を続けますと、薄皮を剥がすように、我々一人一人が持って生まれた仏性を少しずつ顕わし、また濁った心、煩悩に覆われた命を磨いていく事が大事だと思います。そうした意味から、毎日の唱題が絶対に必要です。
 私が大好きな日蓮大聖人様の御金言の一つに「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を有べきか」とあります。これはこのお言葉の通りに、空が晴れれば、太陽の光によって地面が明るく照らされ、我々が進むべき道が見えてくる様に、「南無妙法蓮華経」の題目を中心に生活する者は、信仰心を基として生活や仕事、家族関係に対する私たちの思い、願いを間違いなく正しく成就していくことができると、教えくださっているのです。
これは非常に力強く、自分自身の生きる上での自信になるお言葉です。またこの日蓮大聖人は「信力・行力・仏力・法力」ということを教えられています。「南無妙法蓮華経」の御本尊には、我々を救い導かれる仏の力と、南無妙法蓮華経という教えの力、法の力が具わっています。この妙法の御本尊の御力は宇宙万物絶対のものですです。その絶対の仏法。仏力法力があるのだから願いは必ず叶うのです。
 ではどうすれば叶うのか?私達自身の願いを享受出来るのは私たちの信力・行力以外にはないのです。ですから私達の信力・行力、つまり私達の信仰に対する気持ちや行動が深まれば深まる程、必然的に仏様の仏力・法力が厳然として我々の日々の生活の目の前に実証として現れ、具体的な生活の問題点の解決や自分の境涯に対する不安も消え去り、将来に向かって希望的観測を感じられる人生になっていきます。こんな素晴らしい仏法は他にはありません。
 人は皆、生まれた場所も違えば、生まれ持った境涯も違いますので人それぞれ信心での結果の出方や私生活への表れ方も違いますので、一概には言えない事もあるかもしれませんが、この日蓮正宗の仏法は「絶対妙」の仏法ですので、私達が絶対の確信を持って信心に望めばやればやるだけ結果もこの生活の中に厳然として現れてきます。

 

 こんな私も、以前は仕事も無く本当に困った時もありました。その時は時間もありましたので、お寺で1日5時間の唱題を3ヶ月、4ヶ月と続けた時もあります。題目を唱えても唱えてもすぐには何の結果も出なくて、ずっと我慢の時期を続けた時もありました。それでも最後の最後、「もうこれ以上はダメだ」と身をもって覚悟した時に、仕事が舞い込んできて何とか困難な環境を切り抜けたという思い出もございます。ですから、この「南無妙法蓮華経」の仏法は「絶対妙」の仏法ですから「桜梅桃李」一人一人にそれぞれの素晴らしい人生生活を勝ち取る事が出来るのです。

 今日この場所には何十年と信心を続けていらっしゃる信者さん、また入信間もない信者さんもいらっしゃると思いますが、本日の私のつたないお話や体験が少しでも何かのお役に立つ事が出来ましたならば大変嬉しく思います。また、まだ入信さていらっしゃらない方は、紹介者の方からしっかりとこの日蓮正宗の仏法のお話を聞いて頂いて、一日も早く日蓮正宗に入信され、これからのご自身やご家族縁者の方々と共にこれからの人生を益益謳歌して頂ければ有り難く願う所存で御座います。

 

 簡単なお話では御座いましたが皆様のこれからの人生の参考にして頂ける事がございましたら嬉しく思います。これにてお話を終了致します。ご静聴有り難う御座いました。

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info