①物語上に登場する神様
はじめに、神についていいますと、キリスト教などで説かれる天地創造の神、ゴッドは、預言者・キリストの言葉(教典)に出てくる登場人物で、現実に、地上に姿を現わしたことはありません。
②人間や動物などを、人間の都合によって神様に祭り上げたもの
天理教の「天理王命(てんりおうのみこと)」や金光教の「天地金乃神」などの「神」と称される存在も、教祖がある日、思いついたように突然言い出した架空上の存在であり、これらの神々もまた、現実にこの世に出現したことはなく、とうてい信じがたいものがあります。
神社のなかには、天満宮や明治神宮、豊国神社などのように、菅原道真や天皇、豊臣秀吉などの歴史上の人物を祭ったり、あるいはキツネ(稲荷)やワニ(金比羅宮)などの動物を「神」として祀(まつ)っているところもあります。
しかしこれらは、偉人を敬慕(けいぼ)する感情や時の政治的な思惑、あるいは動物の不思議な力を利用しようとしたり、死者の祟(たた)りを鎮(しず)めようとするため、人間の考えや都合によって、いわば勝手に「神」として祭りあげたものにすぎません。
そもそも、偉業をなしとげて多くの人から慕われ、亡くなったからといって、その人がただちに「神」になったり、人々を救う尊い存在になることなど、あり得ませんし、もしも、それが可能ならば、世の中には、神様があちこちに存在することになり、我々は誰に向かって「神」として拝んでいけばよいというのでしょうか。また、たとえ死んでしまったからといって、生前、対立し闘い合った人同士が、ともに神という存在になったとして、どちらの神様の側について祈願すれば、私たちの願いが叶っていくというのでしょうか?
③「神」という存在
本来「神」とは、自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然作用には、それぞれ神秘的な生命、すなわち神(たましい)が宿っているという思想に端を発しています。
したがって、発生当初考えられた神という存在は、一つの人格や個性を指し示すものではありませんでしたし、神社などに招聘(しょうへい)して祀(まつ)られて拝む対象となるものではなかったのです。
たとえば日本で崇められる神の一つとして「天照太神」があります。日本の皇祖神(伊勢神宮)とされていますが、簡単に言えば太陽です。
太陽は、その大きな力で地球を暖め、生きとし生けるものの生命を育む源となっています。その太陽からの大きな恵み、あるいは大自然の恵対して、私たちは感謝し、その恵みを大切に使っていくことが大事なことですが、その太陽自体を拝むことによって、太陽に人格的な不思議な作用が具わったり、太陽が何らかの奇跡を起こすことはありません。
あくまでも、太陽(天照太神)の恵みは、感謝の対象である、ということです。
このような自然界の作用の恵み(自然界の作用)が強ければ、人々は平和で豊かに暮らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、諸天善神が正法(南無妙法蓮華経)を味わう、つまり自然界が法華経の功徳によって潤うとき、(これを法味(ほうみ)といい)仏の威光と妙法の力を得て、善神として人間生活を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。
④「仏」という存在
次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近なところでは、念仏宗(浄土宗・浄土真宗・時宗など)で拝む阿弥陀如来や、真言宗で拝む大日如来などの仏はみな、インドに出現された釈尊(=お釈迦様)が説いた教えの物語の中に登場したキャスト(登場人物)であり、実在したことはありません。
それでは、どうして釈尊は、その説法の中で多くの架空の仏や菩薩について語ったのでしょうか。
釈尊は、宇宙法界の真理の姿と生命の起源を説き明かすため、自身の生命に具わる働きや徳を具象的(ぐしょうてき)・擬人的にわかりやすく示そうとしました。
たとえば、仏としての智慧の働きを象徴するものとして「文殊(もんじゅ)菩薩」という菩薩の姿を語り、慈悲の働きの象徴は「弥勒(みろく)菩薩」として、病を防いだり癒す力を「薬師(やくし)如来」や「薬王(やくおう)菩薩」などの物語として語った、などです。これらはすべて、釈尊の生命に具わる様々な力や徳を示すため、経典の中に描かれたに過ぎないのです。
よって、釈尊以外の仏はみな、釈尊が人々を導くために語った架空のもの、あるいは釈尊自身が持っている力を示したもの、であることを知らなければなりません。
(阿弥陀も、大日如来なども、信仰の対象ではないということです)
これに対して、釈尊は、歴史上実際に出現し、人々の苦しみに接してみずから大慈悲心を発こして出家し、長い間の修行を経て悟りを開き、人々を救う教えを示されました。ですから、仏教を信ずる人は、いろんな仏様に心を奪われるのではなく、あくまでも「釈尊が説いた教え=お経」を基本とすべきなのです。
この大前提を押さえたうえで、次に大切なことは、釈尊は一生の布教活動の総仕上げとして、究極の教えである「法華経」を説いたということです。この法華経こそ、釈尊の言葉によれば、「真実であり最高の教え」なのです。
その法華経には、末法という時代に出現する本仏(末法の仏)の出現を予証しました。つまり釈尊は、
①釈尊と同時代に生きた人々と、釈尊滅後の2000年間に生を受ける人々はみな、釈尊の徳と力によって救われていくが、2000年以降の「末法(まっぽう)時代」には、自分(釈尊)の教えだけでは救うことができないこと。
②末法には、真実の仏が出現して、法華経の根底に秘められた根源の法(南無妙法蓮華経)を説いて、一切の人々を根源から救われること。
こうしたことを、釈尊は預言しています。
この言葉どおりに末法に出現し、釈尊でさえも救うことができないとされた末法の衆生を、法華経の南無妙法蓮華経によって導き、未来永劫の人々の成仏のために御本尊を顕わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。
日蓮大聖人は一人の人間としての人格のうえに、仏の境界を現実に示されました。このことは、私たち一切衆生でさえも、日蓮大聖人に倣(なら)って南無妙法蓮華経を自行化他(じぎょうけた)に亘って唱えていけば、かならず一生のうちに仏のような尊い境界を開くことができると教えられているのです。
もし、あなたが、映画やドラマに出てくるような神様を想像したり、金ピカの仏像や大仏を連想し、「そんな仏や神など、実在しないし、信じられない」というならば、それは、あまりにも「仏」や「諸天善神」という存在について、誤解を持っていると言えるのではないでしょうか。
~余談~
神と仏の違いとは…?
神様の信仰をたもつ人はよく、「仏より神の方が上だから、神を大切にする」と言います。しかし本来、神と仏とは、どちらが上とか下とかいうレベルのものではありません。簡単に言えば、「神と仏とは役割が違う」ということです。
神と、仏の役割の違いを、大まかに言えば、「神様は人を遠くから守るもの」「仏様は人を導くもの」と分類できます。
たとえば、大月天王(月)は、人々が夜道で転んだりしないように、明るく足下を照らしてくれます。しかし、その人が、標識とは違う間違った道を進み、谷底から落ちてしまうような危険からは、月の光は守ってくれません。そこで、「その道は危険だ。正しい道は、こちらである」と進むべき道を指し示してくれる存在が必要となります。
それこそ仏の役目なのです。
仏という存在は、人間として生きていくべき正しい道を教え、導いてくれる存在です。よって、我々が幸せな人生の道を歩んでいくために信ずべきものは、神様への信仰ではなく、仏法(とくに末法においては法華経)である、といえるのです。
信じるものが変われば 価値観が変わる
価値観が変われば 人生が変わる
さあ、私たちと最高の信仰をしてみませんか!