法難を乗り越える信心  ~日蓮大聖人御書『聖人御難事』を拝して

                        総本山第66世日達上人ご指南

 

 『聖人御難事』は、日蓮大聖人様が身延において、弘安2年10月1日に、あの熱原の法難の事件が発生したことによって、鎌倉の四条金吾殿を通じ、ご門下の人々に下された御書でございます。

 

 本抄は、そのご述作の動機はもちろん、熱原の法難でございますが、熱原の法難と申しますと、二祖日興上人が、富士の下方、いまの富士駅から岩本、加島、熱原、吉原の北の方、あの辺一帯にかけて、早くからご布教せられていたのでございます。
 ことに、日蓮大聖人様が身延にご入山せられた後、建治年間よりますます折伏を盛んにせられ、熱原に、その当時、滝泉寺というお寺がございまして、そのお寺におった下野房日秀、あるいは越後房日弁、少輔房日禅というこれらの人々を、日興上人折伏教化して転宗せしめたのでございます。この滝泉寺は、その後ずっと熱原の法難事件の後、絶えてしまって、さっぱりその所もはっきりわからなかったのでございますが、今回、その地を発見いたしまして、いま本山において、滝泉寺を造っている最中でございます。これができますれば、あの熱原の法難の遺跡の寺として、みなさまに参詣していただきたいと思います。それはちょうど、富士駅から本市場という駅がござじます。その次の駅、そのちょうど真ん中あたり、いま電車で見ると、右側にお寺を造っておりますから、ご覧になるとすぐわかります。この日秀・日弁・日禅の滝泉寺におられた方々が折伏されて、お題目を唱えるようになったのでございますから、この滝泉寺の院主代行智という人が非常に怒って、これらの人を追放したのでございます。
 この少輔房日禅という人が、すぐ出てしまって、日蓮大聖人様のいらっしゃる身延に入ってしまいましたが、あとの日秀・日弁という人は、その付近に根拠を構えて、盛んに折伏布教に従事せられたのでございます。それゆえに、熱原、あの辺の農民である神四郎、弥五郎、弥六郎、あるいは弥四郎、これらの人々を中心とし、多くの農民の信者を得たのでございます。

 

 これを行智は怨んで弘安2年4月、その付近の浅間神社のお祭りを利用して、この法華経の信者の四郎坊という人に傷を負わせたのでございます。よく謗法の人は、お祭りを利用して、日蓮正宗の人に怪我させたり、いろいろな邪魔をするのは、むかしからあるのでございまして、熱原の法難の根本も、そこにあったのでございます。
 また、その年の8月には、弥四郎という人の首を斬って殺してしまった。日蓮正宗の信者の弥四郎という人は、その騒ぎに殺される。その外、あるいはまた、田圃(でんぱた)の稲を苅って盗んで、みな日蓮大聖人様の弟子たちがやったのだという、偽りのことを宣伝したのでございます。それゆえに、日秀だとか日弁だとかいう人々は、この行智を鎌倉へ訴えようとした。そうすると、それよりさきに、この行智という人は、鎌倉とも、いくらか親戚筋にあたるものでございますから、有名な平(へいの)左衛門尉(さえもんのじょう)頼綱、あるいは秋田城之介、これらの人と結託して偽御教書を申し下して、神四郎ほか20名を召し捕って、鎌倉に護送してしまったのでございます。それが熱原の法難でございます。
 そのことは、さっそく日興上人から、弘安2年10月15日のお手紙で日蓮大聖人様へ差し上げ、そして日蓮大聖人様から、すぐこれに17日に、また御書を下されております。これによって大聖人様は、前に、この法難をお聞きになって、この10月1日に、この聖人御難事という御書を門下一同に賜って、これは鎌倉の四条金吾様に宛てられ、その四条様が法門触(ふ)れ頭(がしら)といって、いまでいう幹部でございましたから、そこへお手紙をくださって、みな門下一同に、これを見るようにとお遣わしになったのでございます。
 法難というものは、つねに覚悟せねばならない、そしてますます信心を強盛にすべきことを戒められているのでございます。

 

 本抄の大意は、釈尊や天台、伝教の本懐をまず示され、日蓮大聖人様のご本懐は建長5年4月28日の立宗より、27年目にあたる弘安2年である。すなわち、この時、本門戒壇の大御本尊様の建立をもって、日蓮大聖人様のご本懐とせられたということを、お示しになるのでございます。それまでの大難を説かれ、この大難を経て、初めて本懐が遂げられるということを教えられているのでございます。
 日蓮大聖人様のご本懐は27年と申され、弘安2年10月12日、日蓮大聖人様のご本懐、本門戒壇の大御本尊様となりたもうたのでございます。われわれは、また、日蓮大聖人様の正法を信心することによって、現世に大難にあうとも、後生はかならずこの御本尊のご利益によって、成仏することをご教示なされているのでございます。

 東条の郷というのは、源頼朝が、寿永3年5月3日に建立した天照太神の御厨(みくりや)があるのであります。この御厨というのは、よくおわかりにならないと思うのでございますが、この御厨の厨というのは、とかくお寺でよくある庫裡、あるいは炊事場というように考えている人がございますが、そうではなくて、御厨というのは厨子(ずし)のことなのです。この神様や仏様をお祀りするところの厨子、たとえば、ここに御本尊様をお祀りしてある中の厨子、あれを御厨と申すのでございます。ここでは神社の、もしくは神宮の意味であると、おとりになってよろしいと思います。
 伊勢の大神宮は皇室で建てたのでありますから、日本第一の神宮、この安房の国の御厨z神宮は、鎌倉将軍が建てたものでありますから、日本第二の神宮ということになります。しかし、日蓮大聖人様の頃におきましては、その前に承久の乱がございますから、皇室は非常に衰えていた。それゆえに、(伊勢神宮が第一ではなくなって、時の権力者・源頼朝が作った安房の国の御厨のことを)この御書において「今は日本第一なり」と申されておるのでございます。
 このように、安房国、東条の郡が当時の中心霊地だったから、日蓮大聖人様は、ここにおいて、末法の衆生救済の大白法、南無妙法蓮華経を宣布し、立宗せられたのでござじます。そういう、やはり因縁をもって、立宗せられているのでございます。もちろん、ご自分の誕生の地であり、自分が出家せられたところでもあります。また、宗教の中心である。ここにおいて立宗をせられたのでございます。

 

 釈尊が衆生済度のために、出世の本懐を遂げられたのはご存じのとおり、四十余年を経て法華経を説かれ、初めて出世の本懐を遂げられた。天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年、これは日蓮大聖人様がお書きになったのでございます。
 天台大師は、中国の梁の大同4年に生まれ、18歳で出家をせられております。57歳で摩訶止観を講ぜられて、その前に法華文句と法華玄義の三大部を講ぜられ、最後に摩訶止観を講ぜられて出世の本懐となされた。くわしく数えれば38年か39年になるか、それを日蓮大聖人様は三十余年と申されておるのであります。
 また伝教大師は、二十余年、すなわち伝教大師は称徳天皇の神護景雲元年に生まれ、14歳で出家をせられておりますから、36歳の時、延暦21年1月19日、勅令によって高雄山神護寺において、奈良六宗の碩学を集めて公論、これを論破して日本中、みな伝教大師の弟子となったと日蓮大聖人様は仰せであるとおりに、伝教大師がこの時に出世の本懐を遂げられた。いわゆる法華経迹門をもって、日本国中、その迹門を立てられた。それがちょうど、二十余年にあたる。これをもって伝教大師は二十余年出世の本懐を遂げられたと、お書きになっているのでございます。
 釈尊や天台、伝教、おのおのの本懐を遂げられるまでは、長い間の大難は非常なものであります。このことを日蓮大聖人様は以前、御書において、何遍も申されたごとくであります。ところが日蓮大聖人様は、御みずから今に二十七年、弘安2年出世の本懐を遂げられるのである。「余は二十七年なり」と仰せられているのでございます。
 この聖人御難事は10月1日の御書でございますから、いま、出世の本懐の時を発表せられ、その月の12日に久遠元初自受用報身如来のご当体、十界本有常住の一念三千・人法一箇の本門戒壇の大御本尊をご建立あそばされ、日蓮大聖人様のご心魂もさらに、この御本尊と顕われて、出世の本懐を遂げられることになるのでございます。もちろん、それまでの二十七年間の大難は申すばかりもなく、大難四カ度、小難数知れずと申されているほどでございます。
 日蓮大聖人様の二十七年間の大難をあげてみますと、弘長元年5月12日、伊豆の国・伊東へ流罪せられた伊豆のご流罪の法難、また文永元年11月11日には小松原の法難、頭に三寸の傷を受けられたあの小松原の法難、あるいは文永8年9月12日、まさに首を斬られんとするところの竜の口の法難、続いて佐渡の国へご流罪になった法難等があるのでございます。
 そのほかに、弟子たちの中には、鏡忍房のごとく殺されたもの、四条金吾殿のごとく所領を召し上げられ、追放されたもの等、非常にたくさんあるのでございます。それらは、釈尊の大難に比べて決して劣りはしません。それ以上であると仰せになっているのでございます。もちろん、竜樹・天親・天台・伝教等は、日蓮大聖人様の法難にはおよびもつかないのでございます。それゆえ、日蓮大聖人様が末法に出現しなかったならば、このお経がむなしくなる。それを説かれた釈尊は、大虚妄の人となり、それを真実と証明せられたところの多宝仏・十方の諸仏もみな、大虚妄の人となるのでございます。そこで、仏滅後二千二百二十(三十)余年が間にこの世界において、釈尊の説法を真実ならしめた人は、じつに日蓮大聖人様ご一人となるのでございます。このように、経文を身をもって実験せられたのは日蓮大聖人様ご一人で、日蓮大聖人様が末法における法華経の行者であります。

 

 この末法の行者を軽蔑したり、卑しんだり、軽んじたりする人々は、たとえ王様であろうが一般の人であろうが、初めは何事もないようでありますが、ついには罰をこうむる、そして滅亡してしまうと、これは事実であります。
 この熱原法難の時に、その日蓮大聖人様の弟子檀那に妨害した人はみな、即座に罰をこうむっている。太田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱、あるいは大進房等をはじめ、これらの人々は日蓮大聖人様の信者であったけれども、後にいろいろ法難があるたびに退転して、かえって日蓮大聖人様に敵対したのである。そして、熱原の法難の時には、滝泉寺院主代行智に組して、日蓮大聖人s魔の弟子檀那達に、乱暴、ろうぜきをし、あるいは弥四郎を殺し等の乱暴をしたのであります。
 しかし、その現罰として、そこで、これらの人々は落馬して死んでしまっている。これは事実である。これこそ、法華経の罰のあらわれというべきであると、日蓮大聖人様は仰せられているのでございます。

 元来、罰には総罰・別罰・顕罰・冥罰の四つがあげられている。
 総罰とは、一般に相対的に受ける罰、たとえば天下が謗法である。日本国が、みな謗法であるから、たとえ少しの日蓮正宗の信者がいても、いろいろな罰をこうむる。与同罪とも申しますが、そういう大きな総罰を受ける。また、別罰がある。個人的に受けるところの罰、個人的な不幸がある。これは別罰である。顕罰、直接に顕われてくる罰、あるいは冥罰、間接的に分からない冥々の中に受ける罰。これらの四つが分類されているのでございます。熱原の法難におけるところん、大進房等が落馬して死んだということは現罰で、明らかなることでございます。
 これらの現罰によって、謗法の人々も内心は怖じ恐れている。だから謗法の人々が、たとえたち騒いで正法の信者に乱暴おしようとしても、決して正法の者は、それに対抗して対決しようなどという事は、決してしてはいけない。どこまでも、自分の信心を立てて、信心に励んでいかなえればならないことは、日蓮大聖人様がこの聖人御難事におきまして、四条金吾を代表としてご一門に諫められたのでございます。
 この御書も、ご覧になって、今日の我々の信心にあてはめて、十分、よく味わってご信心を励まれんことをお願いする次第でございます。

 

            (昭和36年11月7日 東京墨田区・妙縁寺でのご説法より)

 

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