「一水四見」とは?
そもそも仏教では、人間としての幸せは成仏することにある、と教えています。ここで「成仏」とは、読んで字の如く、私たち自身が「仏に成る」ということです。
仏には本来、法身・般若・解脱の三徳が具わるとされています。この三徳とは、第一に清らかな汚れなき生命、第二に物事を正しく判断する深い智慧、そして第三に、どんな悩みや苦しみをも克服する勇気や力、ということです。
よって、「成仏」ということは、死んだ後に、良い境界に生まれ変わること。確かにこれも「成仏」ではありますが、むしろ、生きている今こそ、私たち自身が仏様のような理想的な人格を形成し、何事にも動じない安穏な境地にいたること。これこそが、本当の成仏の姿であるとされるのが、日蓮大聖人の仏法です。
私たちは、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることにより、自分では知らないうちに、物事を正しく理解する智慧を頂くことができます。さらに、一歩進んで、大聖人様にならい、勇気を出して折伏に挑戦していけば、どんな苦しいことも乗り越えられる勇気と力を、養っていくことができるのです。
これこそ私たちが目指している一生成仏の功徳と言えるのであります。
現在、全国、全世界の法華講は、御法主日如上人猊下様のご指南のもと、ご命題達成に向かって、日夜、折伏一色に、精進しております。
折伏の実践に欠かせないことは、「破邪顕正」の精神です。破邪顕正とは、謗法を破折して、真実の仏法を信じさせるということです。
なぜ謗法がいけないのか、その理由はいくつか挙げられますが、その一つに、「謗法」は「仏様の心に背く」ことになるからです。もしも、仏様の御心に背く悪心をもっていれば、私たちの命は、煩悩という垢が、どんどんたまって濁ってしまいます。すると、曇った鏡をのぞき込んでも、何も見えないように、私たちは、物事を正しく判断できなくなってしまうのです。
そんな悪心・迷いの命をもった衆生が、世の中に充満していけば、争いが絶えず、騙しあい、傷つけあい、多くの人が、みずから不幸になる原因を作り、次から次へと苦悩していかなければなりませんし、そんな衆生が住む国土が、平和で安らかな、美しい世界となるはずはないのです。
日蓮大聖人は、謗法によって汚された世の中を、少しでも浄化し、平和な社会を築くため、私たちが行なうべきこととして、
「法華経を修行せん人々は、日蓮が如くにし候へ」(平成新編御書 1370)
と教えられています。
人々の心の闇を取り除き、明るい社会へと変えていくには、自行化他の実践、とくに、折伏が必要であると教えられているのでありまして、まさに御法主上人の御心も、この処にましますものと拝するものであります。
ところで数年前の話ですが、私のお寺のSさんという壮年が、突然、心筋梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれました。ちょうど、奥さんがお寺で、行事の準備を手伝っていただいていた時のことです。連絡を受けた奥さんの顔が、みるみるうちに青ざめていったことを、今でも鮮明に覚えています。
実は、このSさんご夫妻は、長年の信心姿勢を、いま一度反省し、
「よし、今こそ、すべての事に優先して信心に励み、とくに折伏と法統相続を第一に考えていこう」
と決意した、その矢先の出来事でした。
緊急入院の報を受け、私も本当に驚きまして、奥さんはもちろん、支部の皆さんとともに、心からご主人の回復を御祈念しました。しかし、何度も何度も処置をするたびに、次次に血管がつまり、心臓が停まってしまうのです。電気ショックも有効に効かず、
「これでもダメなら、あきらめよう」
と行なわれた最後の強いショックで、ようやく意識が戻る。一晩、二晩と、そんなことの繰り返しです。そのうちに、手術することすら出来ない程、体力も弱り、体はボロボロになってしまいました。担当の医師からは、
「一番、強い薬を使っているが、それがうまく効いていない」
との説明がありまして、要するに、覚悟してください、ということだったのです。
かすかに残る意識と、胸をしめつける苦しみの中で、Sさんは、
「どうして、こんなことになったんだろう。何か罰が当たるようなことを、したんだろ うか」
と歎き、悲しみました。しかし、必死の思いで看病する奥さんは、ご主人を枕元で励まします。
「『魔競はずば正法と知るべからず』(平成新編御書 九八六)でしょ。今こそ御本尊を信じきって乗り越えていこうよ」
と。そして、御法主日如上人猊下の御指南を二人で読みました。その御指南とは、次のとおりです。
「我々が魔と対決するときには、絶対に恐れを抱いてはいけないのです。あらゆる難や魔に対抗するためには、私達は大御本尊様を信じているという確信を持つことが大切です。なぜならば、魔は絶対に仏様に勝てないからです。仏様に勝てる者はないのです。その確信があれば、どんな魔にも負けません」 (大白法 751号 三面)
と、この御指南を何度も何度も声を出して読み返し、唱題に励みました。
そして、Sさんは御秘符をいただき、また、信心の同志たちの力強い励ましを受けて、
「なんとしても、この障魔を乗り越えて御本尊様のために尽くしていこう」
と決意しました。すると、本当に不思議なことに、決意した瞬間から、みるみるうちに体力が回復し、無事に手術を受けることができたのです。
その結果、倒れてから丁度一ヶ月後、お寺の御本尊様にお礼の報告をするため参詣することができました。そして、倒れて二ヶ月後には、登山するまでに至ったのです。今では、あれほどの大病が嘘のように元気に活動し、定年後の現在でも、求められて仕事にも通われています。まさに
「三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり」
(平成新編御書 一一八四)
との仰せのごとく、Sさん夫妻は、御本尊様への絶対の確信により、一歩も退かなかった結果、魔の正体を見抜き、一切を見事に降伏して、大きな試練を乗り越えることができたわけであります。
さて、仏教用語に「一水四見」との言葉があります。「一つの水を、四つに見る」と書きまして、簡単に言いますと、同じものを見ていても、人それぞれ境界の違いによって、見える姿はマチマチである、ということです。これについて御書には
「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏な り。然れども我等は肉眼なれば文字と見る なり。例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は 水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれ ども果報に随って別々なり。」(平成新編御書 794)
とあります。すなわち、法華経の文字は、一つひとつが皆、仏様である。しかし我々凡夫の肉眼には単に文字としてしか映らない。たとえば餓鬼道に堕ちた者は、ガンジス川の水を、我が身を焼き尽くす苦しみの炎と見るし、人間は普通の水と見る。天人は、ガンジス河の水を、尊い生命を養う甘露と見る。同じ水であっても、見る人の果報によって、それぞれ違う、ということです。
私たちは一閻浮提第一の尊い御本尊様を信じています。しかし、それでも病気になる時もあれば、本当に辛く悲しい時もある。そんな中で、私たちが直面する色々な困難なこと。特に仏道修行の上で経験する辛いこと。そういった障害、一つ一つを、魔の所為と見抜いて、さらに唱題に力を入れていく事ができるか。はたまた、
「信心なんてやっていても、何にも良いこと、ないじゃないか」
と、途中であきらめてしまうのか。もしも、
「どんな辛い事も、自分を成長させてくれる大切な試練だ」
と捉え、いよいよ御本尊の功徳を確信する事ができれば、私たちは必ず大事なものを学び、大きく自分自身を成長させて、仏のような尊い境界に、一歩近づくことができる。
御義口伝に
「功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得 意可きなり」
とあります。これは、信心の功徳によって、私たちの六根、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの生命作用としての六根が清浄な生命へと転換し、物事を正しく見る。感じる。理解する。正しく一切を判断していくことができる。この信心を通して私たちは、仏様の正しい六根を持つことができるわけでありまして、大聖人様は、このことがまず、成仏する。功徳をいただく、その第一歩なんだということを示されているのです。
しかし、なかには
「そうはいっても、なかなか仏様のような勇気や智慧なんて、持つことはできません」
という方もいるかもしれません。あるいは
「どんなに祈っても、折伏ができない」
という人もいるでしょう。
そんな時、是非とも考えていただきたいことの一つとして、申し上げたいことは、私たちは、「世間の常識」という、大きな落とし穴に落ちてはいないかどうか、とうことです。
もちろん常識を持つことは大切です。どんなにまじめに信心をしていても、常識のない生活をしていては、何にもなりません。
しかし一方で私たちは、たとえば、「折伏ができない」とか、「思うようにお寺へ行けない」。その理由として「常識」という言葉を悪用してはいないでしょうか。
「常識から言って、こんな不況の時代は折伏なんてやっている暇がない。仕事が第一だ」
と考えてしまう。あるいは、
「世間の常識から見て登山なんて、せいぜい四~五年に一度くらいでいいんじゃないか」
と、「常識」という言葉を曲解したり、悪用したりして、信心の責任から逃れようとしている所はないでしょうか。
実は「世間の常識」。これが果たして、すべて正しいのかどうかといえば、必ずしも、そうとは言えません。とくにに最近の日本の常識。あらゆることに自由が保障される。それはそれで結構なことですが、最近の日本人の考えは、「自由」という事と「ワガママ」ということを、はき違えている人が多いように思うのです。こうした考えから、
「自分さえよければいい。それが自由というものだ」
といった根性が生まれ、他人を傷つけたり、人に迷惑をかけても何とも思わない振る舞いをする。果たして、そんな姿が「常識を基とした守られるべき自由」と言えるのかどうか。
皆さんもよくご存じの言葉に、「世法即仏法」というものがあります。世間の法軌と仏法の道理とはまったく一体である、ということです。
この世法即仏法の意義は、「仏法は体であり、世法は影」であるということであって、あくまでも、この妙法蓮華経の教えを基としなければなりません。仏法を基として、一切の物事を判断する時、私たちは世法上においても、ぜったいに間違った道を歩むことなく、世間の人々からも尊敬を受け、衣食住に満足した安穏な人生を歩んでいくことができるのであり、それを教えるものが、まさに世法即仏法の道理であります。
前御法主日顕上人上人猊下は
「しっかりと御題目を唱えることにより、大聖人様の功徳、妙法の功徳が身に当ててはっきりと判るのです。そして、本当の充実した命をもって、悩みがあろうとなかろうと、悩みなどは一切妙法の中に入れてしまって、悠々堂々と真に有意義な生活をしておる方、また折伏を行じておる方は、これは本当に生きながらの仏界であり、成仏しているのです」
〔大白法H16/10・1号‐3面〕
と仰せです。
私たちは、一切を御本尊の御仏智にお任せして、みずからなすべきことを着実に行なっていく。その姿は、真に生きた成仏。私たちは、いつでも、どこででも、御本尊様の功徳をいただいて、成仏の境界を築くとともに、一回りも二回りも大きく成長していくことができると教えられているのであります。
皆さんも、大白法を読まれると、本当に色々と尊い立派な体験が掲載されています。あの貴重な体験をされた皆さんは、まさに、この事に気がついたんだと思うのです。
一つの物の見方。信心を基として一切の世法上の事を見渡していくならば、自分がどうすべきかということが、よく分かる。まさに、同じ娑婆世界に生きていながら、信心をしていない人と、御本尊様への絶対の確信を持てる人。確かに同じ世界には住んでいるものの、物事の見方、感じ方、接し方が大きく違ってくるんだということ。先のSさんが、一つ、大きく物の見方が変わった途端に、みるみるうちに元気を取り戻していった。まさにそれが、現実生活に即する御本尊様の大功徳。成仏の功徳の姿形なのではないかと思います。
私たちが、今までとは異なり、自分の殻を打ち破って、もっともっと自行化他、ことに折伏を実践していくとき、喜びや功徳も多い分、これまで思いもしなかったような所から、障魔が起こってくるかもしれません。
しかし今、日蓮大聖人の御心は、本門戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主上人猊下の元にあって、私たちの信心を見守ってくださっています。ですから私たちは、何も心配はいりません。今だからこそ、やるべき使命を、堂々と果たし、一生成仏の大功徳をともどもに積み上げ、まずは、今日の折伏に前身を傾けて取り組んでまいりましょう。
(総本山での担当法話より)