平成二十七年九月十五日 総本山法話
『勇気ある折伏で、順逆二縁 ともに救っていこう』

                               妙通寺 細井道迅

  みなさん、こんにちは。
 本日は、総本山への登山、誠にご苦労様です。命により少々、お話を申し上げます。どうぞ足を楽になさってください。

 ご案内のとおり私ども日蓮正宗僧俗は今、日蓮大聖人ご聖誕八百年の佳節に向かい、法華講員八十万人体勢構築をとの御法主日如上人より賜ったご命題達成のため、全国、全世界で日夜、折伏行に挺身しております。
 御法主上人はその意義について、近年の社会不安、異常気象などを例に取り、依正不二、すなわち社会の主体者たる衆生の身命が濁れば、おのずと国土世間や社会環境もすさんだものとなることを明かされ、そのうえで
  「我々がおかしくなれば、やはりそれが世間のどこかしらに必ず様々な変化をもたらしてくるわけです」              (大白法 平成二十七年九月一日号四面)
  「日蓮大聖人御聖誕八百年に向かって(中略)妙法蓮華経の功徳を、一人ひとりが多くの方々に伝えていかなければならない、非常に大事な時を迎えているのだと思います」(同前)
と、唯一の正法である大聖人の仏法を信ずる我々こそが、その功徳をもって混乱した世の中を正し、人々の汚れ乾いた心を清らかに、潤していくため、今こそ折伏に立ち上がるべき旨を説かれています。
 そこで本日は、ともに折伏実践の覚悟を固め、日蓮大聖人の御宝前に一層の精進をお誓いしていくために、今一度、大聖人が貫かれた忍難弘通の尊いお姿を拝し、我々が果たすべき折伏の意義について、その一旦を少々、申し述べたいと思います。


《日蓮大聖人の忍難弘通》
 さて、申すまでもなく、日蓮大聖人の御一生は、建長五年に南無妙法蓮華経の仏法を建立されて以来、ご入滅に至るまでの間、一時の安らぎもない、法難の連続でした。
  『立正安国論』を幕府に献上された直後には、草庵を焼き払われた上に、御命を狙われた松葉ケ谷の法難が起こり、翌年には罪人として伊豆・伊東に流されました。二年後に赦免になりますと、その翌年には、念仏者・東条景信の陰謀による小松原の法難が起(お)こり、大聖人は額に傷を受けられ、弟子・鏡忍房と信徒・工藤吉隆が討ち死にするという悲しい難に遇われています。ところが、こうした度重なる迫害に大聖人は、折伏の手を緩めるどころか、一層、勢いを増して為政者や人々に対し、謗法破折を加えられ続けたのです。
  そして、とうとう文永八年九月十二日、竜の口法難が起こりました。この法難では、時の国家権力総出で、何の罪もない大聖人を闇から闇へと抹殺せんとの策謀が図られましたが、この時も大聖人は諸天の加護を得られ、一命を取り留められました。しかるにその後、日興上人とともに佐渡へと流されます。
  佐渡・塚原三昧堂での厳しい生活。雪の吹きすさぶ中、御堂の中には凍える手を暖める術なく、壁の隙間からは容赦なく雪が吹き込んで来ます。わびしいお腹を満たす食べ物にも事欠き、あまりのひもじさに一歩外へ出れば、大聖人の御命を奪おうと念仏者らが虎視眈々と狙っています。大聖人は日興上人とともに、御堂の中で蓑をかぶり、幾日もの眠れぬ夜を過ごされたに違いありません。
 このように、日蓮大聖人の御一生は、日本国中のありとあらゆる人々より、冷たい迫害にさらされたものでした。
  どうして、ただひたすらに、人々の幸せと国家平安のため、南無妙法蓮華経の法を弘められる大聖人が、これほどひどい仕打ちに遭わねばならないのか。もしも本当に、タイムマシン等があり、大聖人の元へと駆けつけることができるならば、なんとしてでもお助けしたい。せめて温かい食べ物でも、思い存分召し上がっていただきたいと心から願うのは、私だけではないと思います。
 ところが大聖人ご自身は、むしろ、これらの迫害を当然の事として、
  「釈尊は法華経の御為に今度九横の大難に値ひ給ふ。(中略)此等の仏・菩薩・大聖は法華経の行者として而も大難にあひ給へり」(御書六七〇)
とお示しになり、過去のあらゆる仏や菩薩は皆、最高の教えである法華経を弘めるため、必ず迫害に遭うとされる。これは、経文に説かれているのだから致し方ない。これらの迫害は、法華経を信じ、成仏を目指す以上、必ず避けては通れない試練の道であると説かれておりまして、なかでも、不軽菩薩の故事は有名であり、皆さんもよくご存じの事と思います。


《不軽菩薩の故事》
 はるか遠い昔、威音王仏という仏が人々を救われた時代がありました。この仏の滅後・像法時代に、一人の菩薩が出現します。この菩薩は、道で出会うすべての人に向かって
 「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経五〇〇)
と語りかけ、「いかなる人にも命の奥底には仏性が具わり、やがて菩薩道を行じて、誰でもが仏になるのだ」として、出会う人すべてに向かって合掌・礼拝して歩いたのです。このように「人を軽んじない」という意味から「不軽菩薩」と呼ばれました。
 ところが当時、社会に蔓延していた増上慢の人々からしてみますと、いきなり、見ず知らずの僧侶が近寄って来て、「あなたは仏になる人だ」と唱えながら自分を拝むものですから、てっきり馬鹿にされたと勘違いしてしまうのです。そこで不軽菩薩に対して怨嫉や瞋りの心を生じ、杖でその体を打ちつけたり、石を投げつけたりと迫害を加えました。ところが不軽菩薩は、そうした理不尽な仕打ちを受けながらも、けっしてその人々を憎むことなく、ただ一心に人々の仏性を崇め、礼拝行を貫くのであります。
 その修行の結果、不軽菩薩は臨終に際して虚空の中で威音王仏が説いた法華経を聞き、よくこれを受持し、六根清浄の功徳とさらなる寿命を得ることができました。そして仏に準ずる尊い境界から法華経を説き、人々を折伏していったのです。すると、かつて不軽菩薩に迫害を加えた増上慢の四衆も、ついに不軽菩薩のもと信伏随従するに至りました。
 こうして不軽菩薩は法華の折伏行を満たし、終に妙覚果満の仏となって、以後、生まれ変わる度に釈尊の如き仏として出現し、人々を法華経により教化していったと言われています。
 一方、当初は不軽菩薩を迫害した人々。後に改心し、不軽菩薩に随ったとはいえ、自ら行なった罪を無かったことにする訳にはいきません。先の誹謗罪の果報により、以後二百億劫もの長い間、三宝の名すら聞くことができない。つまり気の遠くなるような長い年月の間、何度生まれ変わっても、仏法に出会うことができなかったというのです。しかも、死んでから最初の千劫という長時の間、阿鼻地獄に堕落して大苦悩を受けることとなりました。それだけ誹謗正法、つまり謗法というのは恐ろしいものとされるのでありまして、今の創価学会の人のように、総本山や血脈付法の御法主上人、御隠尊上人に対し奉り、執拗に誹謗悪口の限りを尽くす罪の恐ろしさたるや、計り知れないものがあります。
 話を元に戻しまして、不軽菩薩を誹謗した罪障により、長い間、地獄の苦悩を受けた人々も、法華経の功徳は偉大にして不可思議なもので、たった一度でも、不軽菩薩に出会い法華経の話を聞いた。法華経に接した、そうしたことが仏縁となり、生まれ生まれて、ついに再び法華経の折伏に巡り会うことができました。そのように、遠回りをしてようやく法華経に信を取ることができた人々こそ、今から三千年前、インドに出現した釈尊が法華経を説いた、その場に立ち会い、法華経を素直に信じて、不退位という位に至った菩薩たちであったということです。
 以上のお話が、不軽菩薩の故事の概略であります。


《一向折伏こそ、大聖人の正意》
 大聖人は『法華初心成仏抄』に、
  「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」               (御書一三一六)
と仰せです。
 今、末法時代の凡夫は、みな、本未有善の衆生、すなわち過去に一度たりとも妙法を聞いたことがなく、法華経との縁を持たない衆生ばかりです。ですから、先の不軽菩薩による礼拝行に準じて、強いてでも一番根本の仏種・南無妙法蓮華経を説き聞かせていくことが何よりも大事なのです。万一、妙法の折伏を信ずることができず、反発するような人。あるいは今の学会員のように、ひとたびは大御本尊様に縁を持っても悪縁にたぼらかされて、退転してしまったような人であっても、御書に
  「先づ、必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成って成仏すべし」

                                 (御書六三六」)
とあるように、その不信謗法の罪により、一度は地獄の境界で苦悩を受けなければなりませんが、ご本仏日蓮大聖人との深い仏縁によって、かならず大聖人の仏法に再び出会い、成仏を遂げることができるとされるのです。
 よって、相手を選ばず、すべての人に向かって、南無妙法蓮華経の仏法を説き示していくことが、一切の出発点となるわけでありまして、こうした意義から大聖人は、あらゆる諸難を受けても、それらに屈せず、ただ一途に妙法の折伏行に邁進せられたわけでございます。


《勧持品二十行の偈》
 さてそこで、日蓮大聖人の仏法を信じ、大聖人と心を合わせて成仏を願う我々は、いかなる修行をすべきか、ということです。
 『四菩薩造立抄』には、
  「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書一三七〇)
との御文があります。「日蓮の弟子として法華経を修行する人は、私が行なった通りに、振る舞っていきなさい」ということでありまして、諸難を耐え忍び、自行化他に邁進する。それこそ、大聖人の仏法を信じ成仏を目指す我々の、あるべき姿であると示されているわけであります。
 法華経の『勧持品』には、次のような経文があります。
  「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん、悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん。我等仏を敬信して、当に忍辱の鎧を著るべし、是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん、我身命を愛せず、但無上道を惜む」(法華経三七七)
 有名な「勧持品 二十行の偈」と呼ばれる経文です。
  末法において、この法華経を弘める人は、必ず三類の強敵による難を受けるであろうとの釈尊の予証であります。その予証のすべてを身に当てて読み尽くし、過去のあらゆる仏、菩薩が受けたものとは比較にならないほどの大難を受けられたのが、日蓮大聖人であります。そしてまた、大聖人の振る舞いを見習って折伏する私たちにも、大なり小なりの邪魔が入るのは必定であると。しかし、それを乗り越えてこそ我々自身の功徳も生じ、一生成仏の徳も顕われると教えられているのです。
 私たちがこの大聖人の仏法によって成仏していくためには、まず第一に御本尊を信じ、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることが根本の修行となります。その大切な勤行・唱題の途中には、たとえば睡魔が襲い、唱題が長くできない。実際、テレビは何時間でも見ていられるのに、唱題しようとすると、不思議と数分で眠くなるなどの経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。しかし、この程度のことならまだ、冷たい水で顔を洗えば、なんとかなるわけです。
  しかし、さらに信心が進み、いよいよその時の満つるを感じ、勇気を振り絞って折伏をしてみる。震える声で
 「一緒に信心してみませんか?」
と友人に話をしてみる。すると、ずっと親しくしてきた友人に嫌われてしまった。あるいは親戚の叔父さんに、
 「一緒に信心して、先祖の人達に、本当の供養をしてあげまし ょう」
と折伏した途端、親類の人々から疎まれるようになり、苦い経験をしたという方もおられるでしょう。
  ところが、それでも大聖人は、
  「法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひなし」(御書六七三)
とし、大聖人の弟子・信徒であるならば、多少のことがあっても気にせず、堂々と声高らかに折伏を貫くべきと奨励されているのです。


《自他ともに成仏を目指すため 今こそ折伏の実践を》
 我が国は世界でも、もっとも平和な国家であるとは言いましても、人心がますます濁っていく姿や最近の政治の動き、世相の混乱を見る限り、これから先の国の行く末は不透明窮まり無いと言えます。
 かつては、私たち日蓮正宗僧俗と心を合わせ、大聖人の正しい信仰を広めているものと信じて疑わなかった創価学会は、もはや『ニセ本尊』を販売し、本門戒壇の大御本尊への信仰すら放棄してしまいました。さらに昨今、ついに末法のご本仏・日蓮大聖人への尊崇の念を捨てるための新たな教義を確立しつつあるやに聞き及んでいます。まさに現在の創価学会こそ、日本で最も力をもった大謗法の団体なのであり、彼らの活動が続く限り、広く社会の隅々に謗法の害毒が浸透し、ますます世情も混迷の度を深めることになりましょう。
 ですからもし、私たちが我が国の、全世界の未来にわたる恒久平和を心から願うならば、たとえ学会の人たちから多少の嫌がらせを受けようとも、学会員を含むあらゆる人々を、唯一の正法である本門戒壇の大御本尊の元へと導いて行かなければなりません。
 重ねて申しますが、先ほどの不軽菩薩の話にしましても、迫害した人々は一旦は地獄の境界へと堕落してしまうのです。ところが、誹謗正法というその悪因が不思議にも仏縁となり、その結果、法華経の功徳に浴することができたのです。
  これを毒鼓の縁といいますが、まさに我々はいかなる困難に遭おうとも、大聖人の正法を正しく語り続けていかなければなりません。私たちの周囲にも、なかなか素直に話を聞いてくれない家族。あるいは学会員がいて、そういう方々に対して一生懸命に話をしても、悲しくなるほど私たちの真心を分かってくれない。むしろ、かなりの反発や誹謗の言葉が返ってくる事の方が多いでしょう。しかしそれでも、私たちは正しい折伏を敢行し、大御本尊との仏縁を結び続けていく。そうすれば、今世では間に合わなかったとしても、たとえあの池田創価学会名誉会長であっても、遠い未来世において必ずいつかは改心し、大御本尊のもとに戻って妙法の大功徳により救われていくのです。そういう時が必ずやってくるのでありまして、そうした大御本尊と世界中の人々との尊い仏縁を、きちんと作っていくのが、今の私たちの折伏なのです。そのように信じて、自行化他に邁進しゆくことこそ肝要であります。
 たとえ、すぐに成果とならなくても、不軽菩薩が迫害に耐え抜きながらも折伏に徹した結果、自身が法華経の功徳により仏としての尊い境界を得て、自受法楽という最高の功徳を何度生まれ変わっても確立することができたように、折伏を貫く人は、過去世よりの深い罪業をことごとく消滅することができる。私たちは折伏をやり抜いてこそ、人間としてこの世に生まれてきた最高の歓喜を体得し、地涌の菩薩の眷属として立派にその責任を果たすことができると信ずるものです。
 どうか、まずはお一人おひとりの、今年の信心の目標をきちんと達成するため、
 「大難来りなば強盛の信心弥々悦びをなすべし」          (御書一五五五)
との御金言を胸に、強盛な信心を奮い起こしていただきたい。尊い御仏意を信じて、日蓮正宗の歴史に燦然と輝くであろう、この平成時代の「大折伏の輪」に、かならず皆さんも加わって、ともに前進していただきたいと念願し、本日の法話といたします。
  御静聴、ありがとうございました。

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info