最高の宝を子や孫に 法統相続の大事 『信心の原点 上』より
法統(ほっとう)相続(そうぞく)とは、日蓮正宗の信仰を子孫に正しく受け継がせていくことを言います。法統相続は、私たち自身の成仏はもとより、子供に幸せな人生を歩ませ一家の幸福と繁栄を確立するため、また令法久住(りょうぼうくじゅう)・広宣流布(こうせんるふ)のためにも、たいへん重要なことです。
親子となる深い因縁
世間では毎日のように、家庭内で起きた痛ましい事件の報道がなされています。邪(よこしま)な宗教が蔓延(まんえん)する末法(末法)の世の中には、家庭を大切にできない人が増えているようです。日蓮大聖人が
「父母となり其の子となるも必ず宿習(しゅくじゅう)なり」(御書1393㌻)
と仰せのように、私たちは偶然(ぐうぜん)に親子・家族となるのではなく、過去世(前世)からの深い因縁によって親子となり、家族となるのです。この家族同士が、お互いの深い因縁を感じて、思いやり、支え合うことができなければ、幸せな生活を送ることはできません。
もしも、子供が御本尊に対する絶対の信仰心を持つ人に成長できたならば、家族同士の深い因縁を忘れず、必ずや四恩(しおん 父母の恩・一切衆生の恩・国主の恩・三宝の恩)に対して報恩(ほうおん)を尽くす孝養(こうよう)の人となることでしょう。よって、子供と一緒に信心修行に取り組み、法統相続に努(つと)めることが、子供に親子・家族の深いつながりを理解させ、広宣流布に寄与(きよ)する人材に育てる最善の方法なのです。
法統相続は子供への慈悲
時折(ときおり)、
「日蓮正宗の信心をするかどうかは、子供が成人したら自分で判断させる」
「子供嫁ぎ先には、別の宗教があるから、強(し)いて信心をさせようとは思わない」
などと言う人がいますが、このような考えは誤(あやま)りです。
たとえば、あなたが親となり、自身の子供がまだ幼い年頃であると考えてみましょう。
もしもあなたのお子さんが、友人と無邪気に遊ぶ中で、つい他の子が遊んでいるオモチャを取り上げたり、興奮して他の子の頭を叩いたりした場合、あなたはどうするでしょうか。「うちの子はまだ幼い。成人して判断できるようになってから、良いことと悪いことを教えればいい。だから今は何も言わない」となるでしょうか。
そんなことはありませんね。他人の所有物を一方的に取り上げてはいけない、相手の気持ちを尊重することが大事であるといった、人間としてのあるべき振る舞いを教えるため、「そういうことは、してはいけないよ」とお子さんに言い諭すはずです。これは「親の価値観を、子供に強制すること」ではなく、「正しいこと、良いことを素直に教える」ことになります。
さてそこで、私たちは、日蓮大聖人の信心について、けっしていい加減なものではなく、立派な、正しい信仰だと知って、日々に御本尊様に手を合わせています。譬(たと)えは卑近(ひきん)ですが、「ほうれん草やトマトが健康に良い」と知っているからこそ、赤ちゃんの離乳食にもさかんに使用するように、良いものは良いものとして、素直に子供たちに与え、教えていくことは、親のエゴの押しつけではありません。人生で最高にすばらしいことを子供に躾けていく、それが法統相続なのです。
日蓮大聖人が説き顕(あらわ)された南無妙法蓮華経は、あらゆる功徳の源であり、どんな財宝にも代えることのできない無上(むじょう)の財(たから)です。
日蓮大聖人がに
「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧(ごらん)あらんよりは、心の財をつませ給(たも)ふべし」(御書1173㌻)
と仰(おお)せのように、子供が幸福な人生を歩むためには、資産(蔵の財)を残すよりも、日蓮正宗の信心(心の財)を受け継がせることのほうが重要なのです。
なぜなら、物質として資産や財産は永遠に子供たちを守るものでもなければ、必ずしも子供たちを幸せに導く糧となるとは限りません。しかし、正しい信仰は、たとえ親の庇護(ひご)が無くなった遠い未来に、子供たちがあらゆる困難に直面したとしても、一切を乗り越えて力強く生きていく支えとなり、勇気となり、智慧(ちえ)ともなって、子供たちの永遠に守り続けてくれる基となるものです。
したがって、どんな理由にせよ、法統相続を早々に諦めてしまうのは、最高の財を子供に与えない、子供が誤った信仰によって不幸になってもかまわない、と言い切ることと同じであり、これほど無慈悲(むじひ)な行為はありません。
総本山第九世日有(にちう)上人は
「謗法(ほうぼう)の妻子(さいし)眷属(けんぞく)を連連(れんれん)教化すべし(中略)折伏せざる時は同罪たる条分明(ふんみょう)なり」(日蓮正宗聖典982㌻)
と示され、また、
「二親(ふたおや)は法華宗なれども、子は法華宗に成るべからずと云う者あり、其の時は子に中を違(たが)うなり」(日蓮正宗聖典976㌻)
と仰せられて、未入信の家族を折伏しなければ与同罪(よどうざい)となること、また子供が信心を受け継がない場合、極端に言えば「信心ができなければ親子の縁を切るくらいの決意と気迫をもって、しっかり折伏するように」とまで、厳しく誡(いまし)められています。
自分の身近に一人でも不幸な人がいると、悲しい気持ちになるものです。ましてや大切な子供が、誤った信仰によって不幸な人生を歩むことを望む人はいないでしょう。子供達の幸せを願うならば、なんとしても、正しい信心を受け継がせるよう努めていかねばならないのです。
法統相続の功徳
法統相続は、一家の幸せのため、子孫の繁栄(はんえい)のためであると同時に、自らの成仏のためにも大きな意味を持っています。
日蓮大聖人がに
「経王御前を儲(もう)けさせ給ひて候へば、現世には跡をつぐべき孝子なり。後生(ごしょう)には又導かれて仏にならせ給ふべし」(御書635㌻)
と仰せのように、信心をしっかりと受け継いだ子供は、親の追善供養を行なって成仏に導いてくれるのです。法統相続がなされず、日蓮正宗の信仰が途絶(とだ)えてしまった家では、子孫に正しい回向(えこう)を望むことはできません。
私たちは御書のの
「されば先(ま)づ臨終(りんじゅう)の事を習ふて後に他事を習ふべし」(御書1482㌻)
との御金言を拝し、また総本山第六十六世日達上人の
「我々が一生懸命に信心しておって法統相続させ、子供たちも共にこの信心をさせたならば、我々は死ねば勿論(もちろん)、常寂光の世界であるが、そのお骨は必ず子供が、この御本尊様のもとへ届けてくれるのである。だから、どうしても、信心を子供に継がせて、家もだんだんと法統相続させていかなければならない」(大日蓮 昭和41年12月号16㌻)
との御指南を拝して、自らの人生を憂(うれ)いなく歩むためにも、常に日蓮正宗の信心の大切さを子供に教えていきましょう。
幼い時から一緒に信心を
子供は、幼児期には常に親のそばにあって、親の姿から様々なことを学びます。諺(ことわざ)にも「三つ子の魂(たましい)百まで」と言われるように、幼い時に身につけた習慣は、生涯変わることはありません。
これは日蓮正宗の信心においても同様であり、法統相続するためには、何よりも、まず親が強い信心をもって模範(もはん)を示すことが大切です。子供は、そこからおのずと正しい信心の在り方を学び、日々の修行を習慣として身につけることができるのです。
具体的には、子供が幼い時は親の膝(ひざ)に乗せて勤行をし、成長するに従って横に座らせるようにすることもよいでしょう。子供が言葉を話せるようになったら一緒に勤行を行ない、少しづつ勤行の仕方を覚えさせましょう。「うちの子はまだ小さいから、もう少し大きくなってからにしよう」などと思っていると、いつの間にか時期を逃(のが)してしまうものです。早い時期から毎日、勤行・唱題を共にしていくことによって、子供はその大切さと、御本尊様の偉大(いだい)な功徳を感じていくのです。
また、お供え物は樒(しきみ)の水の交換など、御本尊様のお給仕(きゅうじ)を一緒にするように心掛け、御本尊様(うやま)う心を教えましょう。寺院参詣(さんけい)や総本山への登山にも子供を連れていき、家族そろって信心を根本とした生活を送ることが大事です。
子供が成長してから信心を始めた家庭でも、できるだけ朝夕の勤行を家族そろって行ない、勤行後に元気よく挨拶を交わして、大聖人様の御書をみんなで拝読するようにしたいものです。
総本山第六十八世御法主日如上人が法統相続について、
「何よりも、この御本尊をしっかりと信じていく。朝夕の勤行を一緒にして、一緒に親子が題目を唱え、そしてお寺に通い、少年部の活動等に参加させて、しっかりやっていくと、自然にいわゆる菩提(ぼだい)の心、仏道を求めるこころ、幸せを求める心、悟りを求める心が生まれてくるのです」(功徳要文 11㌻)
と御指南されているように、子供と一緒に信心修行を実践していくことこそ法統相続の要諦(ようてい)であると心得て、家族そろって信心に励んでまいりましょう。
一家和楽の信心を
法統相続のためには、家族で信心の話を積極的にすることも大切です。折に触れて、御本尊様の功徳や信心即生活ということについて、また「御法主上人の御指南や御住職の御指導を受けて、今度、どのようにしていくべきか」「未入信の親戚の方を、どのようにして折伏していくか」ということなど、信心の大切な事柄について家族で話し合ってみましょう。家族同士がお互いの考えを確認していくことによって、次第に信心に対する考えや認識が一つになり、協力して修行に取り組むことができる一家和楽の信心と、子供への法統相続がかなっていくのです。
※ 『信心の原点 上』(日蓮正宗宗務院版)の当該文章に、編集者が一部、手を加えさせていただきました。