一、業とはなにか?
一般に、物事が思うようにはかどらず、イライラするときに「業(ごう)を煮(に)やす」といいます。このほかにも「業火(ごうか)」「業病(ごうびょう)」など、「業」のつく日常語がたくさんありますが、それらは必ずしも「業」の本来の意味を正しく伝えていないようです。
私たちは、仏法を実践する上で、「業」の考え方を正しく理解することが大切です。
「業」は、梵語(ぼんご)で「カルマ」といい、「行為」を意味します。
また、その人の行ないと、その影響力を含めて「業」という場合があります。
例えば、他人を傷つけた場合、その行為自体は一瞬ですが、傷つけられた人の痛みや傷跡、またその行為に伴う後悔や悪感情などが残り、後に必ず苦しみます。このように「業」とは行為のことですが、その行為は後々まで影響を及ぼすのです。
業の原因となる業因(ごういん)、その報いである業果(ごうか)・業報(ごうほう)も、業因感果、つまり善因善果・悪因悪果の厳然たる因果の道理に基づくものです。
二、業(カルマ)の種類
(ア) 身口意(しんくい)の三業
業には、因の面と果報の面との両面がありますが、業因となる行為は次の、
①身業(身体による行為)、②口業(言語による行為)、③意業(心の用き、思念)
の三業に分けられます。
この身口意の三業にわたる行為の中に、人間の善悪のすべての業が含まれるのです。
次に、業を果報の面から捉えたものとして、共業(ぐうごう)、不共業(ふぐうごう)、定業(じょうごう)、不定業(ふじょうごう)があげられます。
(イ) 共業と不共業
「共業(ぐうごう)」とは、人間が共通して背負う「カルマ」のことです。
例えば社会全体を襲う災害や社会の発展などのように、誰もが共通して受ける因果のことを共業といいます。
これに対して、「不共業(ふぐごう)」とは個人的な業のことです。
例えば子供が病気で苦しむのを母親が代わってやることはできません。個人的な快楽や苦痛などは不共業なのです。このように、業は個人的なものでありながら、同時に社会的、歴史的な用(はたら)きも持っています。
(ウ) 定業と不定業
大聖人の『可延定業御書』には
「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す、何に況んや不定業をや」(御書七六〇)
と説かれています。この定業(じょうごう)とは、過去世の業によって定まっている今世の善悪の業報をいい、不定業とは、それが定まっていないことをいいます。
また、善悪・苦楽の区別がつかないものを無記業といいます。
三、業(カルマ)の性質
人間は、過去・現在・未来と三世に亘り、業を積み重ねて生きているのであり、それぞれ善悪の業因と、その果報の上に人生があります。この業の性質について見てみると、「自業自得」と「業因業果」とがあげられます。
(ア) 自業自得
自業自得とは、自ら為した行為の果報は、自らが受けるということです。
仏典『スッタ・ニパータ』には
「何者の業も滅びることはない。それは必ず戻ってきて、(業を為した)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあっては、その身に苦を感じる」
『法句経』には
「自ら悪を為して自ら汚れ、自ら悪を為さずして自ら浄し、人はそれぞれ自ら浄となり自ら不浄となる」
とあります。
つまり、自分の行為(業因)の結果は必ず自分に返ってくる(業果)のですから、自分の行為は、最後まで自分で責任をとらなければならないということです。
たとえそれが、他人の行為の影響を受けたものであったとしても、他人の行為によって自分の将来が決定されるということではありません。「カルマ」の考え方は、自分の行為(業因)に対する自らの責任が根底となっているのです。
(イ)業因業果
三世の因果の中では、善悪の行為が業因となって、必ず善悪・苦楽の果報を生じますが、業の因果の相として二通りあります。
ひとつは、因と果とが同性質の場合です。これは貪(むさぼり)の行為によって、さらに慳(もの惜しみ)や無慚(恥知らず)の心が強くなるような場合であり、これを等流(とうる)の因果といいます。もうひとつは因と果とが異なる場合です。これは善因を行なえば楽果があり、悪因を行なえば苦果があるというような場合であり、これを異熟(いじゅく)の因果といいます。
このように業因は必ず果報を生ずるのですが、その業果を受ける時期は、その業因の在り方によってまちまちであり、これについて
①順現受業(現世で、すぐに報いを受ける場合)
②順次受業(次の来世で報いを受ける場合)
③順後受業(第三世以降の来世で果報を受ける場合)
という「三時業」が説かれています。
四、カルマと宿命のちがい
仏教以外の教えでは、人生観として
第一は、神が人間の運命を支配するという見解、
第二は人間の運命は偶然によって決まるという見解、
第三は人間の一生は運命的に永遠の過去から既に決められているという見解
の三つに大別できます。
しかし仏教から見ると、これはいずれも浅薄で偏った考えです。仏教では、現実的な因果の理法に立脚して、人生の苦楽はすべて、自らの為した業によって決まると説きます。
私たちは、自分の母国や親を決定したり、選定したりすることはできません。また、生まれながらに個人の能力や容姿なども、それぞれ異なっています。この差別相(さべつそう)は何に起因するかといえば、過去世からの「カルマ」によるものであり、これを宿業と呼びます。
この宿業の考えは、「運命論」とは違います。なぜなら宿業は自らの業因によってその報いを受けるものだからです。さらにこのことは、私たちは、今の自分の努力によって、現在の業因を変革していくことで、未来の人生を、いかようにも変化させられるのですから、神などの絶対者によって人生が決定づけられたり、人生は単なる偶然であると説く「運命論」とは全く異なるものです。
五、幸福な人生への道
過去世からの宿業によって、現在の私たちは様々に拘束されていますが、仏法では、その業報の中にあっても、未来の果報を自らの意志と行動、すなわち身口意の三業によって決定できると説いています。大聖人は『佐渡御書』に
「宿業はかりがたし(中略)偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して、後生(ごしょう)の三悪を脱れんずるなるべし」(新編御書580)
と、先業の重罪も消滅できると説かれています。
私たちは大御本尊を受持する功徳によって、過去世の罪業を消滅し、現在と未来に幸福な人生を構築できるのです。
(大白法 909号5面掲載)
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