本門戒壇の大御本尊はニセモノ?
信じ得ぬ人々へ
創価学会など、日蓮正宗から追放された亜流団体は、本門戒壇の大御本尊への信仰を捨ててしまう傾向にあります。たとえば
(顕正会)
最近、浅井会長の指導から、「本門戒壇の大御本尊への信仰を根本とする」との文言が、極端に減ってきました。大御本尊から会員の心を引き離そうとしているのでしょうか。
(正信会)
正信会では、寺ごと、僧侶ごとに主張する教義が異なりますから一様には言えませんが、かつて正信会の僧侶は「本門戒壇の大御本尊といえども、ダイナマイトで爆破すれば吹っ飛ぶ。そんなものが根源の法体であるはずはない」等として、大御本尊への信仰自体を否定しています。いまだに総本山大石寺に戻ろうとしない方々は、恐らく大御本尊への渇仰恋慕の心を失い、「もう、どうでもいい。自分だけ題目を唱え、先祖供養さえしていれば、それでいい」等と、広宣流布への情熱を失い、むしろ厭世的な信仰へと形を変えてしまったように思えます。残念です。
(創価学会)
会則から「本門戒壇の大御本尊への信」を削除し、創価学会本部は「大御本尊を受持の対象とはしない」と発表しました。
こうした発表にこそ、学会のごまかしがあります。
「本門戒壇の大御本尊は、受持の対象としない」
という、わかったようなわからないような、あやふやな表現。要するに、
「牧口・戸田両会長が創価学会(創価教育学会)を設立した当初から、信仰のすべての根源と仰いできた本門戒壇の大御本尊への信仰。世界民衆の生命の故郷として慕ってきた本門戒壇の大御本尊はもう要らなくなった。これから創価学会は、信仰の父母を捨てて、独自の教義を新設し、新興宗教として独自路線でやっていく」
ということなのです。
それを真に受けたのでしょうか? 最近の学会幹部は、法華講員が
「本門戒壇の大御本尊への信心が根本でしょ?」
と破折すると、
「御書には、本門戒壇の大御本尊を根本とするとの言葉はない」
だとか
「本門戒壇の大御本尊? ああ、弘安二年の本尊のことね~」
などと、「本門戒壇の大御本尊」との名称さえ否定するようになりました。
また、過去の池田名誉会長らの発言に「本門戒壇の大御本尊こそ信仰の根源」との表現が多数存在することがマズイと考えているのでしょう。池田名誉会長等の発言を話題にすることすら嫌がり、「依法不依人なんだから、初代会長・二代会長・三代会長の過去の発言には触れないで、御書だけで話しをしよう」
などと、法論を行なうにしても、変な条件までつけるようになりました。
正法から離れる人は、かならず大御本尊と血脈を否定する
日蓮大聖人の正統門下である日蓮正宗の正しい信仰から離れていく人は
まず最初に 「唯授一人の血脈相承」を否定して、御法主上人の御指南に従わなくなります。
続いて少し時間を置き「本門戒壇の大御本尊」への絶対信をあやふやにし、
「特定の場所、特定の御本尊に参詣しなければ成仏できないなどという教えは、大聖人の仏法には無い」
等として、総本山大石寺への登山参詣の意義を否定するようになるのです。
師敵対謗法の本家・五老僧と同じ轍を踏む創価学会・顕正会・正信会
日蓮大聖人ご入滅後、本門戒壇の大御本尊を根源とする日蓮大聖人の正法のすべてを所持された日興上人。その日興上人に背いた五老僧~彼らの具体的な謗法・間違いは「五人所破抄」に明らかですが、その背景にあったものは、
①血脈付法の日興上人だけに、大聖人の正法が伝持されていることへの嫉妬。「自分たちは、こんなに大聖人に尽くしたのに、なぜ日興がそれほど重用されるのだ?」という嫉妬心や憤慨心から、日興上人に従えなくなった
②日興上人に従う意思がない以上、日興上人の寺となった身延山久遠寺には、たとえ大聖人の正墓が存在していたとしても、参詣したくなくなった。
「大御本尊に参詣せず、また大聖人の墓参りをせずとも、各地で布教に励むことこそ、大聖人が喜ばれることになる」
とでも言い分けにしていたに違いありません。
さて、本項では以下に「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」(抜粋)を掲載させていただきます。
これは、かつて身延派僧侶(安永弁哲氏)が
「大石寺に祀られている本門戒壇の大御本尊は大聖人が建立されたものではなく、後の時代の偽作である」
と誹謗中傷を行なった際、それに対する反論として、日蓮正宗布教会から出された文章です。また、参考として、文末に日達上人ならびに日如上人の御言葉と、創価学会第二代会長・戸田城聖氏の言葉を掲載させていただきます。
日蓮大聖人の仏法は本門戒壇の大御本尊を根本とし、その大御本尊を護り、大聖人の仏法を正しく伝持される時の御法主上人猊下の御指南に信順してはじめて正しく信心することができます。この信仰の大原則は、未来永劫、変わることはありません。なぜなら、この姿こそ師弟相対の筋道にのっとった正しい信仰の姿だからです。
私達はこれからも、身延や創価学会などの亜流団体が、いかなる策を弄して大御本尊の正義を攻撃してきたとしても、一歩も退くこと無く一切の邪説(言いがかり)を破折し、大御本尊のご威光を、どこまでもお護りし、弘めていくことを忘れてはならないと思います。
編者拝
日蓮正宗布教会編
「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」 (抜粋)
昭和三十一年九月三十日 発行
編著並発行者 日蓮正宗布教会 代表 細井精道
(一) まえがき
最近、単称日蓮宗(身延門流)の安永弁哲君が、「板本尊偽作論」なる一書を刊行して、世上に流しているが、その書を一読するに終始、毒言を以て日蓮正宗を誹謗(ひぼう)し、歴代管長の人身攻撃をなし、尚、板御本尊を九代日有上人の偽作するところと妄断して、その本尊を信ずるが故に此の悪現証があるのだと言っている。
吾人は此の書に対して敢えて反駁(はんばく)するを潔(いさぎよ)しとしない。その故は、本書が既に公明なる求道心から出発したものではなく、全くの感情的な悪意によるものであるからである。かかる悪言は、修羅界の徒(やから)の致すところであって、真摯(しんし)なる仏教者の口にすべからざるところであるからである。
凡(およ)そ、宗門間の論争は飽迄(あくまで)も清浄なる道念に立脚して教義の邪正を決し、仏教界の進展に寄与せしむるものでなくてはならない。
今や世相は全く険悪なる様相を呈し、人はおのおの拠り処を失ってをり、しかも宗教否定の声は益々熾(さか)んになりつつある。此の時に於て仏教者は真に正しい仏教~それは一切の人の信仰を喚起し、確立することの出来得るもの~を以て世に宣布し、世上を浄化してゆかなければならない。しかるに唯単に宗派的感情に捉(とら)はれ、或は信徒の増減のみを気にし、悪口を言って攻撃し合うが如きは仏教の権威を失墜する以外のなにものでもない、即ち失う以外に毫(ごう)も得るところがないのである。
現在の日本の仏教界を歴史的段階から見れば、終戦後、宗教法人法が規定せられ、画期的な脱皮をなすべき時に立ち到って居る。
現在の日本仏教界は徳川時代迄の封建制の下に於て形成せられたものであって、言はば封建時代の申し子である。而(しか)してその後、明治・大正時代今日に至る迄、其の形態は固守せられて来たままである。今や日本は政治経済教育等各方面に於て民主主義に徹せんとしている、此の時に於て独り仏教だけが封建的な、そのままでよいのであろうか?
新興宗教、在家仏教の勃興は何を意味するか。
此れこそ既成宗教を見放した民衆が真剣に信仰を確立せんとするモガキに他ならないのである。今日、仏教界の各自が立てつつある本尊が、民衆の信仰を確立できるであろうか。仏教者は今ぞ、本尊の問題を真剣に討議しなくてはならない。然るに討議に当たって、その言に窮(きゅう)して讒誣(ざんぶ)中傷の言辞を弄(ろう)して人身攻撃を敢て為(な)すが如きは、仏教界の為に実に悲しむべきことである。
(三)「板本尊偽作論」を破す
第三遍板本尊偽作論なるものを見るに、此は全く箸にも棒にもかからぬ無茶苦茶な議論である。その論旨を挙げて見れば、
板本尊の信仰者には仏罰がある、此は畢竟、板本尊が偽作されたものだからである、その偽作者日有上人で、その為に有師は悪病を発生して死亡した
といい、その偽作たる理由は、
板本尊の願主・弥四郎という人物は非実在の人であり、若し在ったとしても非業の最後を遂げた人である。而して偽作たる証拠は、日有師以前に板本尊が存在したその証拠が無い、それは文献にないのみならず史実に反している。又御本尊の書体からいって御真筆でないことは明らかである
と言って、此の論断を昔の説の拠りどころとして雑然と述べている。
二、偽作説は憶説なり
此の編の第一項は前編の要領を繰り返して板本尊を信仰した者は不幸になったということを述べているに過ぎないから、茲に取り挙げない。
第二項に於て、
大石寺では板本尊を、ヒタ隠しにして誰にも見せないが、此は偽作であるから見せないのである。又御本尊の下部に図顕讃文には面白い研究が山積してをると言って、如何にも思わせぶりの書き方をして、此れだけでも偽作たるは明らかである
といっている。而してさらに
三大秘法抄には、最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものかと仰せ給いて、猶未だ戒壇の建立はなかったのであり、戒壇建立は勅宣御教書の宣下によるから、願主は其の時に決定する筈である。しかるに弥四郎国重が願主になってをるのは滑稽である。しかも此の弥四郎は百姓ではないか、其の様な軽輩が、願主とはとんでもないことだ
と言っている。
第一の、
大石寺ではヒタ隠しにしている
というが、此れは理屈にもならない議論で、大石寺に於ては信徒の願出があれば御開扉申し上げている。少しもヒタ隠しにしていない。恐らく此れは、安永君の頭では通りがかりの人でも何でも見せたらよかろうという考えであろうが、信仰のない者に拝ませる必要が何処にあるか。そういうことはお賽銭(さいせん)稼ぎの他に意義はない。安永君は自分の門流(身延派日蓮宗)でお賽銭稼ぎに御開帳をやっている、その頭で律するから、そういふ説を立てるのであって、それ自体堕落してをることを物語るものである。又
他山(他の日蓮宗寺院)では、進んで写真に出して宣伝しているのに大石寺ではしない
という。此れも写真に出して何の効があるか。安永君は熊田葦城氏の「日蓮上人」の初版に掲載されているというが、此れは某信徒が葦城氏と相談して写真を出したならば世間に知らしめて非常に効果があると考えて大石寺に願ってやったことである。しかるに効果どころか、甚だ面白くない結果となったので、その掲載を禁止したのである。その悪い結果とは、此の写真を複写して本尊に売買する者があらわれ、或は偽作するものがあるとかいう事であった。恐らく安永君の門流の者の行為ではないか?
元来、安永君の宗旨では、偽作はお手の物である。今日、世上に大聖人の御真筆と称して横行している本尊は数限りもない多数と思われるが、その大部分が君の宗旨方面で偽作されたものである。
熊田葦城氏は「日蓮上人」の著書を以て落陽の紙価を高からしめた人である。此の人が大聖人御伝記を調べて行くうちに、大石寺の伝うるところこそ真実なり、ということを見出し、更に戒壇の御本尊こそ大聖人御一代究竟の御本尊なりとせられて、茲に身延側の抗議を一蹴して、その著作に後記を付加され、大石寺に帰依せられたのは隠れもない事実である。安永君は「日蓮上人」の何処(どこ)を読んでをるのか。
次に安永君は
板御本尊の下方の部に、仏滅後二千二百二十余年未曾有大曼荼羅の御文が入れてある
というが、よくも斯様な出鱈目(でたらめ)が言えたものと唯あきれる許りである。一度も拝せずして世上の与太議論の書を半囓(はんかじ)りして論ずるから、根もないことを誠しやかに論ずることになる。茲には御本尊の御文は、かくかくだということは言はぬ。それは何の利益もないからである。一宗をかけての邪正の論議決定の時であるならば、明細に教えるのは意義がある、その時までは言はないことにする。
兎に角一事が万事、安永君の理言は皆此の通りである。
更に
三秘抄によって大聖人の御時、戒壇は建立せられないのに、その願主があるのは奇っ怪である
という。此れも又実に間の抜けた議論である。戒壇の建立と其処に安置し奉る御本尊とは自ずから別個の問題である。三秘抄に「勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」と仰せ給うたのは戒壇の建立のことであって、御本尊のことではない。而してその戒壇に就いては、何と仰せられてあるか。富木殿御返事に
「伝教大師の御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之れを弘め、円戒は死後に之を顕はす。事相たる故に一重の大難之れ有る歟(や)」
と仰せ給い、而して観心本尊抄には伝教大師が東方の鵝王(がおう)を本尊に建立せられたことを仰せられている。本尊と戒壇とは別個である。その戒壇の願主とは戒壇の御本尊の発願主として弥四郎殿の名を挙げ給いしことである。弥四郎国重殿を
百姓であるから、願主とせられる筈がない
との言に到っては、吾人はその頭の程を疑はざるを得ない。此れは恐らく安永君が徳川の封建時代の論議書を口真似しているから、かような言を吐くのである。時代は全く変わっている民主主義下の今日、寝言も休み休み言わなくてはいけない。若しそれならば、「日蓮は旋陀羅(せんだら)が子なり」と仰せられてあるが、その旋陀羅の子を宗祖と仰ぐのは、恥ずかしいということになる(此の議論も封建時代には真剣に云為されたものである)が此れはどうか。
三大秘法抄に就いては、安永君の宗旨では昔は偽書だといっておったし、猶今日でも偽書呼ばわりをして居る者があるが、一体、君の宗旨ではどちらを立てるのか。恐らく此の文章からいえば安永君は真書説をとっておると見える。若しそうであるならば、身延霊山説も影が薄くなるし、君等の宗旨の教義の土台骨がガタガタになってくるが、それでよろしいのか。御書をその場その場で勝手な解釈をしてをれば、その場は一往通用するかもしれないが、若し全体の視野に於てその解釈を見ると、矛盾(むじゅん)撞着(どうちゃく)だらけで収拾することの出来ない事になる。
君等の宗旨では三秘抄を偽書にして置かぬと宗門が教義上自殺することにある。その用意があって真書説をとっておるのか。邪見者流には斯様な議論は到底解せないかもしれない。三秘抄を偽書扱いにする宗旨に居るべき安永君が「三秘抄を知らないものが御本尊を偽作した」というのは、頭の調子が狂っておりはしないか。
三、弥四郎殿に対する痴説を破す
第三項に於いては、
御本尊の願主・弥四郎は不明の人物で、一歩譲っても闇討横死の人である
と言って、その証明としては
弥四郎なる人物の史的証拠がない
と言って、
だから、日蓮正宗では、此の弥四郎は、熱原の神四郎と共に暴徒と戦い、闇討ちに遭って死亡したものといっている。而して、此の弥四郎が願主となって御本尊を戴いて、三日の後に神四郎等は禁獄されて、その後翌年に斬首せられたと言っているが、いま一歩譲って此の説が事実とすれば、此れは横難横死の人物である。それ故にこそ、此の悪因縁がつきまとっておるのであり、此の本尊を信ずると悪現証があるのだ
と言っておる。更に安永君は、日蓮正宗の史実を誌す家中抄(日精上人著)の中に『弥四郎国重が日道を大石寺に移した云々』というのを取り上げて弥四郎殿と日道上人との時代の相違を以て、如何にも弥四郎殿が架空の人物なるが如く億断して、日蓮正宗が弥四郎殿を如何に実在の人たらしめるかに苦心しているが如く言って、その例証として居る。
以上に就いて先づ第一に安永君に聞きたいのは、君は弥四郎殿が暴徒と戦って死亡したということ、神四郎殿が斬首せられたということを横難横死の悪現証だと強言して居ることである。君の論法に従えば、君等の宗旨の先祖中、法難にあった者は皆悪現証だということになるがどうか。而してまたそれは本尊の悪因縁だということになるが、それはどうか。
其の論法で行けば、小松原の法難の鏡忍坊や工藤吉隆殿も横難横死の悪現証の手本になるがこれはどうか。余りに身勝手な議論をするものではない。識者から冷笑されようではないか。
一体、安永君は、板本尊は日有上人の偽作だと言う。それならば、それ以前に御本尊はなかった筈ではないか。こちらではない、あちらであると、その場その場に相違するのは、一貫した定見がない証拠で、只声を大にして悪口をつけばよいという、全く以て論ずるに足らぬところで、俗間の無智者と何等選ぶところがないと言うべきである。
安永君も立正大学の先生をやったこともある位であるから、公論場に於て是非を論じ様とするならば、今日に於ては宗学上の古文書も殆ど出尽くしているから、その材料によって、堂々と論陣を張るべきである。
日蓮門下に於ける最も古い歴史である日道上人の御伝草案によれば、大聖人は熱原の法難に御感あって日興上人と共に御本尊を建立し給いしことを記しておられる。而してこの法難の出来事が弘安2年の10月であることは御書によって証明せられるところである。此の御本尊こそ後年、日興跡条々事に日興上人が「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」と仰せ給いし御本尊であらせられることは毛頭疑いの余地はないのである。
若し此の御本尊以外に、そういう御本尊がありとするならば、そういう御本尊が大石寺になくてはならない。しかるに大石寺には此に該当する御本尊は他にはないのである。それならば中世に於て紛失せしものかということになるが、かかる史実は全く無いのである。斯様な筋に沿って研究をするのが学問的である筈である。金鉱を得るには鉱道を掘るのを誤ってはならない。
安永君等の様に後世の悪口書を土台として研究するのは学問にはならない。(日興跡条々事の御書き付け偽書だというが、此の論は問題にならない。現に本書が大石寺に存在し、日興上人の御真筆なることは歴然たるものである。また反対者は、その御真書中、本門寺に懸け奉るべしとは、後人の故意に加筆したものだと言うが、加筆せられたのは日興上人御自身であらせられることは御文字によって明了である。)
日興上人の御記録と、その当時の門流一切の記録を拝すれば、大聖人の御本尊は文字曼荼羅にあらせられ、尚、本門寺建立が重要なる課題であらせられたことは明らかである。
寧(むし)ろ一切の文献が此の事に集中されていると言ってもよいのである。此等のことは下に至って安永君の論難の箇所に於て一々反駁(はんばく)することにしよう。
此に一言、言うべきことは家中抄の中に「弥四郎国重の事、日道を大石寺に移す」の御文を、安永君は
弥四郎国重が日道を大石寺に移した
と読んで、
弥四郎と日道上人とは時代が違っているから、斯様な関係は無い
として如何にも弥四郎国重を不審しているが、君には文書を読む知識が欠けているのである。弥四郎国重の事とは、上の「日番の本尊には年号ありて授与書なし」の御文に続くのであって、日目上人が日道上人への付属の御本尊について御説明なされたことを挙げられたのである。其の下の「日道を大石寺に移す」は、目録の列名の前の「日道に示す」の下に続くのである。即ち日目上人が、日道上人を大石寺に移したというのである。弥四郎国重が日道を大石寺に移したと読むに至っては、いやはや開いた口が塞がらない。頭の程度がしれるではないか。
日蓮大聖人が、弘安2年10月、熱原法難に御感あって御本尊を建立遊ばされた限り、その対告衆(たいごうしゅう)として熱原の殉教者を御思召されてをられし事は言う迄もない。茲に其の対告衆・弥四郎国重殿を熱原に求めれば、当時の信徒中、弥四郎の名は幾人かあったことは記録によって明らかであるが、最も此の場合、該当せられるのは神四郎兄弟であって、むしろ神四郎が弥四郎であったと断定するのが至当である。(これは茲に科学的考証を掲げる必要があるが、今は省略しておく)
此の弥四郎殿に就いては古来、大石寺に於て種々説かれて来てをるが、普通には史実上の熱原の弥四郎殿であるが、此れを大聖人の御境地に於て拝察すれば、深遠なる御意義を含ませ給うことを拝承することが出来る。此の事が散説されているのである。乃ち因縁、約教、本迹、観心等の釈である。安永君の如き俗物には仏法上の本道の話は到底理解することは出来ないであろう。自分の短見を棚に上げてその解釈を指して、
日蓮正宗の者は大変苦しんでこんな憶説を出すのであるが、全く笑うに笑えぬ気の毒な話である
と言うに到っては、其の幼稚さ加減は底が知れない。
四、有師偽作説を破す
第四項に於て、
板本尊は、大石寺九世日有が彫刻したことは、諸文書に於て明らかであるが、日有は其の為に癩病なって死亡したので、此れを隠すために日法が彫刻をしたという様になったのである
と言っている。
安永君は、板本尊は日有上人が彫刻せられたものといって、その依り所を宝冊や祖師伝や大石寺誑惑(おうわく)顕本書に置いているが、此等が如何なる種類の書であるか。之れ等は大石寺に対する悪口書であり、その源は重須(北山本門寺)日浄の悪言にあるのである。
此の日浄は、付近の百姓が日有上人は癩病になったといっているのを聞いたというのである。かような不確実きわまる論定による、その受け売りは何んの権威もない事である。前述する通り、中世の諸文書を受け売りすることなく、古文書の原本に於て、材料を取って研究して説をなすことが、今日の教学界のなすべき態度である。この軌道をはずれて悪口書の受け売りは学者の為すべき処ではない。
先づ安永君は、日有上人が彫刻せられたというならば、少なくとも、日有上人已前に御本尊が存在したという事を肯定したことになるがどうか。勿論、安永君が肯定し様がしまいが、前項に於て御本尊が存在せられた事は確実で有るから、此れに対しては何んとも言うことは出来まい。
そこで従前より存在した御本尊を、日有上人が彫刻せられたか、日法上人が彫刻せられたかという問題になるが、安永君によれば日有上人が彫刻をして癩病になったと、その土地の人が噂をしているから明瞭だというのである。
若し、かかる説が正当として許されるならば、何も学問は必要ではない。徳川時代ならば一往通用するかもしれないが、今日科学的な時代に於ては一笑すべき痴説(ちせつ)である。元来、日有上人彫刻説は、大石寺に対抗して悪口を以て堕さんと企図しての悪説であることは論を俟たない処である。
斯様な議論をするより、日有上人以前に板本尊が存在せられていたかどうかと言う事を文献によって決定することが大切である。
勿論、安永君も以下の各項で
日興上人は板御本尊を厳禁している。三祖四祖の文献にも板本尊のことがない
と言って存在しなかった事を証明し様としている。しかし此等の議論を見ると、安永君は文献資料の扱いが、まるっきりなっていない。資料の取り扱いが無茶苦茶であるならば、其の研究の結果はまた無茶苦茶になって了(しま)う。
例えば、下の第八項で、
日興は板御本尊を厳禁して居る
と言って、「富士一跡門徒存知の事」の一文を挙げている。即ち「一、御筆の御本尊を以て形木に刻み、不信の輩に授与して軽賤(きょうせん)する由、諸方に其の聞へあり、所謂日向、日頂、日春等なり」の御文によって、日興上人が厳禁し給いし証明としている。然るに此の御文を拝すれば、むしろ厳禁せられたのは御本尊を不信の輩に授与し、そのため軽賤する、それを責め給いしは御文に於て明らかである。
それはそれとして、此に日向、日頂、日春等が、御本尊を形木に彫ったという事実こそ、重要なる文献である。此等の人は既に御本尊を形木に刻んだのであるが、此れは此の人々が各自に発案し考えついた事であるか、それとも他より暗示を受けてか、或は模倣(もほう)したか、ということに此の資料の重要なる意義がある。
兎に角、日有上人以前二祖日興上人の当時、形木に刻んだ御本尊があったという事を、此の御文が物語っている。而して日向は、身延系流では始祖としてをり、日頂師は富士系流であり、日春は日法上人の系流である。此の一連の人達が、各自の発案によって形木に刻んだか(安永君の門流の始祖と仰ぐ日向師が大曼荼羅を形木に刻んでいる、安永流に言えば日向師もまた癩病を患った筈であるが、それとも御真筆を刻んだのだから、癩病にはならぬとでもいうか)それとも他を模倣したかということが問題になる。吾人は、模倣したものと推定する。
此等一連の人々は大聖人の身延御時代、その後日興上人の富士に於かせられるや一番近間にあった人々で、其れ故に其の行儀を模倣することが最も多かったと推察されるのである。然らば何を模倣されたか、それは既に板御本尊が存在してそれを模倣したと言わなくてはならない。尚、日法上人の系流に於ては昔から大石寺の板御本尊は日法上人が彫刻をして、其の墨を彫り取ったから、大聖人の御魂は、その墨にあるから已に御本尊には魂はないと悪口をいって居るが、その魂の有無は別問題として、日法上人の彫刻は認めている処である。
兎に角、安永君の資料の取り扱いは無茶苦茶であることは、此等を以て明らかになったであろう。
五、曲説を難ず
第五項は、ノタレ死、癩病、中風、気狂の歴代管長というのである。此の項に於て日目は垂井で野垂死(のたれじ)をしたから血脈は断絶しているといい、日道も癩病になって河内の杉山へ隠居し、日有もその癩病になって同じく杉山に隠居したと言っている。而して此れは、祖師伝にあるところで明白だという。吾人は真面目に此等を反駁する気になれない。唯、言うことは宗派的感情による悪口書を受け入れて、それが実際はどうであるかも検討しないで、悪言することは止めよと言うのみである。
少なくとも安永君が、立正大学の先生であったという限り、立正大学の教学を汚泥に堕し、世間の物笑いの種になる様なことをするなと言うのみである。大学は科学的研究の場所である筈である。
六、御難事抄の曲解を誡む
第六項は、「聖人御難事」は板本尊とは無関係也との見出しで、
日蓮正宗では此の御抄の「余は二十七年なり」の御文を板本尊建立に結びつけ様としているが、此の二十七年は何等板本尊に関係がない
と言っている。
吾人は此れを読んで、此の事は今迄に幾度も繰り返して論ぜられているにかかわらず、此人達には少しも解って居ないのであって、全くこの幼稚な頭には、モドカシサを感ずるばかりである。
先づ安永君よ。『汝、目をふさぎ心をしづめて道理を思え』の御文によって虚心坦懐、聖文を拝せ。「余は二十七年也」の御文は、正しく本懐を達したことを御明かしなされたのであって、即ち二十七年にして本懐を達したとの御事である。此事は如何に頭が悪くとも了解出来るであろう。然らば本懐とは何を仰せられたか。それは御文に於て大聖人の教を蒙りし信徒が、大聖人の仏法である妙法蓮華経の命を懸けて信じ通す、その信心の確立の処に、大聖人の仏法の確立があらせられるからである。信仰の確立する処、大聖人の御一期の化導の究竟たる大御本尊を顕発遊ばされることが出来る。(釈尊の像造を本尊と考えている様では、到底了解は出来ないであろう)信仰の確立、御本尊の顕発、此れは表裏であらせられる。此の故に余は二十七年にして本懐を達すと、釈尊、天台に比して仰せ給うたのである。此れに就いて安永君は何を血迷っているのか、
此の御書は四条金吾の下に保管せよと仰せられて日興上人宛ではなく、日付も十月一日で、十二日の御本尊顕発とは十一日も以前のことである。だから全く御本尊とは無関係だ
と言っている。吾人は斯様な頭の持ち主と論議をすることは無駄だとつくづく思うのである。然し一言すれば、御難事抄が日興上人宛で無いから御本尊に関係がないと言うのはどういう理屈であるか。察する処、此れは御抄の宛先は四条金吾殿等であり、御本尊は日興上人へ御授与であるというから(日蓮正宗に於て)それと此れとは無関係だという意味であろう。しかし此れは錯覚ではないか、御難事抄が誰人に宛て給うたものであっても、本懐を達すとの御思召しは動かぬところであって、日興上人への御授与の如何は別である。又、日蓮正宗に於ても此の御抄の御文が日興上人への御授与を証明するとは毛頭いってはいないし、考えてもいないところである。
尚また、御抄は一日付であり御本尊は十二日付であって、其の間に十一日のひらきがあるから本懐を達したということは御本尊のことではないという。此のことは前にも述べた通り、信仰の確立、此れが本懐と仰せられる表面であらせられ、信仰の確立する所御本尊の顕発があらせられるのは裏である。一日に御本懐を達すと仰せ給い、徐ろに御用意の上、十二日の日を撰んで御本尊を顕発遊ばされたと拝するならば、最も自然の事ではないか。此れが一日に御本尊を顕発遊ばされ、十二日に鎌倉より通知を受け給いて、本懐を達すると仰せられたならば、その間に関係があるとはいえないことである。それならば君等の非難は当てはまることになるが、此処では逆である。
此れについては、法華経の宝塔品を見ると多宝仏等が皆是真実と証明をせられている。天台大師は此の経文を証前起後の宝塔と分けて解釈せられているが、前の迹門宝塔品に於いて後の本門寿量品の興起せられることを証明しているのである。今此の如く聖者のおとりになる所作振舞には凡夫の其れと違って、誠に用意周到であらせられる、時に当たってあたふたと駈け回る様なことはしない。卑近な例を挙げれば、囲碁将棋の名人戦になると素人とは違い最後まで打たずに幾手かの手前で先を見とおして石、或は駒を置く。之れは既に双方の筋を読み尽くして、最後の石駒を置いたと同様であるからである。
大聖人に於かせられては、かねがね熱原法難の成り行きと、其の信仰の確立とを重視して居られたが、鎌倉からの注進によって壮烈なる最後の程をお知りになり、此処に御感あそばされて、弥々我が本懐、茲に達する時来れりと此等の人々を対告発願の主と見定められ、御本尊をお顕しになったのである。法華取要抄に多宝の証明地涌の出現を、末法の為也と仰せられているが、証明の点からすれば、此れ程長年月のものはなかろう。要は証明の実があらせられるか否かに依って御文書が生きてくるのである。
亦、安永君は
二十七年に本懐は達せられないが、将来必ず達せられるであろうとの御意である
というが、それはどの御文からいうのか。「余は二十七年なり」と断定遊ばされておるではないか。
尚之れに就いては大聖人の御一期の究竟は戒壇建立とその御本尊の建立にあらせられるという事が理解されていなければ問題にならない。此れは教義全体の上に決定せられる問題である。安永君も三秘抄は立てて居るから事壇建立に異議はあるまい。然らば其の戒壇に安置する御本尊はどういうことになると考えておるか。恐らく此の問題に就いては建立の時、仏像を造立すると云う説をとるであろうが、それは論拠のない妄説である。
此れについて古来、順師の心底抄の一文を引くが、それは順師の文の読み違いから起こる僻見である。兎も角、御本尊に就いて定説を持たない安永君の宗旨では遠く及ばないところである。
見よ、現在に於ても大聖人の御本尊は、どうするのが正しいかという事で論議しているではないか。幾百年の間、御本尊に定説がなくて今日迄やって来たというのは全く一大醜態ではないか。昔はそれで結構、宗門が成り立ったのである。しかし時代は進歩した現在、最早その様な宗門に騙されるものは無くなって来たのである。安永君よ、信徒の減少を歎くならば、他の誹謗をするより自分の宗旨の本尊を確立して、世間の人の信仰を喚起することが先決問題である。
七、「日興が身に宛て給はる」との御文に就いての僻論を破す
第七項では、日興の身に宛て給はる本尊は一幅もないという議論である。其の理由とするところは、
現存御本尊百余幅のうち、日興への授与書きのあるものは一幅もない。大石寺の板本尊は弥四郎宛のものであって、日興宛ではない
というのである。而して
大石寺に於て其の拠り処とする日興跡条々事は、玉野日志の志霑問答にある通り後世の偽作である
という。
此れ亦事実を無視した頭の悪い議論である。日興跡条々事は大石寺に現存するは歴然たる事実ではないか。玉野日志の僻論(びゃくろん)を踏襲することを止めてその事は肯定しなければいけない。そうして其の上に立論しなければいけない。若し正本が世に一般に肯定された時には安永君の千万の議論は皆架空のものになって、一切が抹殺されて了うことになるからである。(宗学全書に校合本として正本及堀日亨上人の臨写本とを挙げている。此れは安永君も信用出来るであろう。併し此れは都合が悪いから信用せぬというならば、また何をか言はん哉である)
御状の中の「日興が身に宛て給はる」とは、日興上人へ授与書をして授与遊ばされた御本尊だということを仰せられたのではない。そう言う御本尊があるとか無いとかの詮議はいらぬ事である。此れは弥四郎国重殿等を対告衆として建立遊ばされた御本尊を日興上人に後継の大導師として給はったので、この事を「日興が身に宛て給はった」と仰せられたのである。
日興上人は此の御本尊を日目に相伝すと仰せられたからには、また日目上人を大導師として、上人の身に宛て給はったので授与書があるとかないとかは別問題である。日興上人の御用意の周到なること、唯々感激申上げる他はない。大聖人の御時からそののちのことが、はっきりとわかるのは日興上人の御記録があらせられるからである。若し此等の御記録がなかったとしたならば、今日どうであろうか、身延門流の多数を頼んでの暴力議論が横行して、大聖人の教義は跡片もなく消え失せたであろう、思うだに恐ろきことである。
八、「形木に彫刻するを厳禁せり」との曲論を破す
第八項は、
日興は板本尊を作ることを厳禁している
という議論であるが、その理由とする処は
日興上人の門徒存知事に「日向日頂日春が大曼荼羅を形木に彫って不信の輩に授与し軽賤している」とあるから、此れは形木に彫ることを厳禁したものである。従って板本尊はその意に背いたものである
と言うのである。
此に就いては前項に既に述べた通りである。繰り返して言えば、此の御文は不信の輩に授与するということに重点がある。尤も下に「忝くも、書写し奉り之れを授与する者なり」とあるから、此れは「形木に彫み」に相対する御言葉である。といって形木に彫んで授与することと、御本尊を彫刻して尊崇することとは自ら別個である。こういうところを大まかに解して自己の都合の好い方に取ることは間違いのもとになる。
一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立て…仍て聖人御 筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又堂舎の廊に之を捨て置く。
日興云く、聖人御立の法門に於ては、全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず。 唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し、御自筆の本尊是也。
この存事抄の本尊四ヶ条の第一の御文を拝しても、安永君の先輩が如何に御本尊を軽視しているかがわかるであろう。釈尊像を主体として、大聖人の御正意の御本尊を如何におそまつに取り扱ったか、仏像の後面に懸けたり、堂舎の廊下に捨て置いたのではないか。此の様な先輩を仰ぐ安永君が今更、聖意の本懐は何であったとか、云々する事が既に逸脱した議論ではあるまいか。
一、上の如く一同に此の本尊を忽緒(ゆるがせ)にし奉るの間、或は曼荼羅也と云て死 人を覆て葬する輩も有り、或は又沽却(てんきゃく)する族も有り、此の如く軽賤する間、多分は以て失ひ畢んぬ。
とあって、之れまた彼らの人々が、如何に御本尊に対して不敬をなしているかがはっきりする。
一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有 り。所謂日向日頂日春等也。日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放(はな)たれて一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者也。
此の御文節の前後をよくよく拝して見るとよい。如何に彼の先輩が御筆の本尊を軽視粗忽にしたか。それに対して日興上人はいかに御本尊を信奉尊崇あそばされ、しかも其の弟子信徒の御本尊授与に於ても厳格であらせられたかが窺い知られるのである。
安永君は、形木云々の文を以て鬼の頸(くび)でも取った様に言ってをるが、之れこそ却って彼等同門に対して報いられる加責の御文である。藪をつついて蛇を出すというのは蓋し此の事である。
更にそれよりも此の「形木に彫み」の文が重要視せられねばならぬのは日向等が形木に刻んだという事柄である。此の事柄を吟味すれば、身延門流の従来の説を徹底的に覆(くつがえ)すものではないか。此れに気が付けば少なくとも大石寺の板本尊を攻撃する議論を根本から立て直さなくてはなるまい。安永君、以て如何となす。
安永君は、
日興上人は五老僧の釈迦中心の造像主義にも反対で、題目中心の曼荼羅を本尊とする異端者であった
と言っているが、なる程、五老僧から見れば異端者と見えるかも知れないが、大聖人からご覧になれば五老僧が異端者であったのである。一体、五老僧には大聖人の教義がわかっていたのか。若しわかていたと言うならば、文書を挙げて説明してみたらどうか。恐らく三大秘法のことも四菩薩の事も御存知なかったのではないか。だから大聖人御所持の釈尊像を見て真似をしていたに過ぎないのである。邪法を破して正法を立てることが過激分子だと言うならば、宗祖大聖人こそ過激分子であると言わねばなるまい。安永君は御書を読んだことがあるのか。君の宗旨でも一天四海皆帰妙法と言い、四箇の格言を口にするであろう。それはどういう事を意味するのか。少しは物を真剣に考えたことがあるのか。
九、「初期記録に本尊の名が出ていない」という妄見を破す
第九項は、三祖四祖の諸文献にも、板本尊は全くないと言う議論である。安永君に言わせると、
三祖四祖の諸文献を探しても板本尊ということはない、それが宗祖滅後二百年以後に居た本尊ということが出ているのは道理に合わない。此れこそ中世の偽作たる証拠だ
という。
物の化に憑かれた安永君の議論が此処に遺憾なく発揮されて居る。大石寺に於ては大御本尊は御板なると紙幅なると区別はしないのであって、一様に大御本尊と称し奉るのである。唯明細誌等には御板と紙幅と丈け巾等を記すのである。此のことは勿論、宗祖已来当然のことである。故に三祖にも四祖にも板本尊の御文字はないのである。それが後世、他門の者が此の御本尊の存在を知って一言に板本尊と称したのである。であるから宗祖滅後二百年頃から盛んに言われたのである。何も不思議はないことである。他門に於て板本尊と呼んだからといって大石寺に於ては板本尊と呼んだことはないのである。自分の影を見て自分が驚くとは正に此のことである。
尚安永君は「板本尊」という固有名詞があるが如く考えている様だが、若しその様に考えるならば迂愚(うぐ)の骨頂である。
若しまた板本尊とは、弘安二年の本尊と言うことであると言うならば、宗祖を初め二祖三祖其後の御講書にあるから、一つよく調べて見ることである。但しそれがあるのは皆偽書だというならば、また何をか言わん哉である。
大体、安永君等との論争は第一歩の御文書の真偽論から初めなければ無理であろう。序(つい)でに言うが、本項次下に日興跡条々の事は御書全集にも載せられていない怪しい文献だといっているが、御書全集の収録は軽重によって取捨したものかどうか、それは編者に聞いて見た上にしなければ当て推量は話しにならない。しかも「存知の事」をすてて「条々の事」の方をとる訳けにはゆくまいという。此の言葉から言えば、両書がどこかに食い違いでもあって、両書を載せる訳けにはいかなかったという様な口吻であるか、そいういうことは毛頭ないではないか。
十、「日興の直弟子等も板本尊反対であった」という曲説を破す
第十項は「日興直弟子等も板本尊反対」というのである。日代日尊日順等の記文を取りあげて
日興の直弟子からヒイ孫弟子に至るまで、いずれも像仏主義である
と云うのである。
この事は既に前項に於て述べる通り、日興上人の御正意は門徒存知事抄、跡条々之事によって大御本尊正意であらせられたことが明らかである。而して日代日尊日順等の諸師は日興上人の弟子である。此の本師日興上人の御義に背く義を立てたとするならば、既に師敵対の行為である。しかし之れはその様なことではなく、五人所破抄にもある様に「執者は尚強て帰依を致さんと欲せば須く四菩薩を加うべし、敢て一仏を用ゆること勿れ」の如く、容預誘引の為の記文である。即ち日代、日順の諸師は広布に事よせて、又尊師の実録の記文は三類の強敵に事よせて仏像造立の義を止められているのである。しかるに此等の記文の一節を取りあげて、恰(あたか)も代、順、尊等の各師が倶に像仏造立主義であったと主張する安永君の頭の具合はいよいよ疑われる。
今甚だ贅言になるが、此等各師の方々が大曼荼羅即大御本尊中心であった事をそれぞれの記文を引証して述べて置こう。
先ず代師(興師新六の一人 西山本門寺の開祖)に就て言えば、宰相阿御返事(要法寺系日印に送る状)に
仏像造立の事 本門寺建立の時なり。未だ勅裁無し。国主御帰依の時三ヶの大事一度に成就せしめ給うべきの由御本意なり。
御本尊図は其れが為なり。只今仏像造立過無くんば私に戒壇又建立せらるべく候か。(乃至)
一、池上御入滅の時、御遺告に云く一巻四人の判 六人継目在判 仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置くべし云々。
(乃至)一体の仏大聖の御本意ならば、墓所の傍に棄て置かれんや。又造立過(とが)無くんば、何ぞ大聖の時、此の仏に四菩薩十大弟子を造り副へられざらんや。御円寂の時、件の曼荼羅を尋ね出され懸け奉る事顕然なり勿論なり。云々
此の記文によって見れば、代師の説として、仏像造立は国主御帰依の時であるとされて、安永君が抜き書的に挙げてをる文であるが、これを以っても直ちに代師が造立主義をとられたものではなく、即ち造立は未来によせて現在の造像を制止している御文である。しかも其の下の文よりして、大聖人並びに日興上人の当時に於て、全く仏像をお立ていなられていない事が明らかではないか。
次に日順師に就いて言うならば、表白文に
善と知て同ぜざる者は仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅所在の(乃至)別して本尊総体の日蓮聖人の御罰を蒙る云々
と記されてをる。即ち之れ日蓮大聖人こそ本尊総体の本仏本尊であり、日蓮当身の大曼荼羅こそ御正意の御本尊であること、しかも善と知って之れに随はざる者はと誡められているのである。又心底抄に
仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり。朝には低頭合掌し、夕には端座思惟す。謹で末法弘通の大御本尊の功徳を勘うるに…
又摧邪立正抄に
法華は諸経中の第一、富士は諸山の第一なり。故に日興上人独り彼山を卜して居り、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大曼荼羅を安置し奉って當に南無妙法蓮華経と唱うべし。公家武家に奏聞を捧げ、道俗男女に教訓せしむ。是即ち大聖の本懐御抄分明なり云々。
此れ等の文によって見れば、安永君の言う様に仏像正意でなかった事がはっきりするではないか。次に尹師(尊師の弟子にして、尊師の嘱を受けて京都六角上行院の法燈を継ぐ)が日代師に遣はされた状をあげて見よう。
粗(ほぼ)聞こしめされ候覧。当院仏像造立の事、故上人の御時誡め候の由、師匠にて候人仰せられ候ひ畢ぬ。
「故上人」というのは日興上人である。此の文に依っても御開山上人は像仏を造立することを誡められていたことが明らかである。
今は造立せられ候の間、不審千万に候。此の仏像の事は去る歴応四年に有る仁より安置候へとて寄進せしめ申す候ひ畢ぬ。教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候。仍て大聖人の御立義に相違候間、疑ひ少なからず候。
この文によって察すれば、ここに造立せられた仏像は暦応四年(暦応四年は聖滅後六十年目、尹師が此の状(康元三年)を書かれた時より四年前)に或る人から寄進されたが、之れは異式の仏像であって、大聖人の御正意に相違するものであるから、誠に不審千万のことであると云う意味の文である。
爰に富士御門流ども出家在家の人来って難じて云く、凡そ聖人の御代も自ら道場に仏像造立の義無し。又故上人(日興)上野上人(日目)の御時も造立無きをや。随て本尊問答抄に云く(略)之を以て思うに形像を本尊に立て置くべからずと見へたり如何。
此の文によれば、富士門流に於ては出家在家共に形像を立つることは絶対に反対なるを主張されている。のみならずそのことは大聖人始め、興師目師の御時にも形像を立てられたことのないことを証明しているではないか。
安永君、以って如何んとする哉。
「東に迷う者は対当の西に迷い、東西に迷う故に十方に迷うなるべし」、御聖訓の通り今安永君も、聖祖の御本意がいづれにあるか此の点が不明であるから、そこから開かれる種々なる教義に対しても妄想が出て定まる処をしらないのである。世間に於ても其の根本の位取りがあやまれば、一切の事柄に迷う如く、彼も又、その根本が混迷なるによって一切の事相にあやまりを生ずるのである。
十一、有師偽作説は誑説なるを明す
第十一項は板本尊出現と、日有癩病説というのである。その理由とするところは、
大石寺系統の左京阿日教が延徳元年に書いた破立抄私記には、板本尊のことがあるが、其の四年後の明応二年には重須の六世日浄が日有の偽作説を出している。次いで其の六十七年後に要法寺日辰が(永禄三年)日有癩病説を出している。故に有師の偽作は確実だ
というのである。而して
爾来今日迄、幾多の問答が繰り返されてをるが常に本尊を中心とする論争である。此の問答が繰り返されたという事実は本尊の偽作なることを証明するものだ
という。
此の議論を見ると全く理屈にもならない処の議論である。重須日浄の言葉が唯一つの手がかりで、あとは日辰だが此れは信憑性に乏しい、余りに年代が後れて居る。尚問答が繰り返されたという事は愈々問題にならない。
そこで重須日浄の言葉であるが、此に就いては志霑問答に於て日霑上人が明快に答えて日浄の言葉の誤りを矯されてをる。安永君も此の日浄の言葉を借る限りは、此の霑尊の解答に対して何んとか論議しなければならない筈である。
然るに其のことをしないで日浄の悪口だけを取って受け売りしているのは、安永君の頭が四百年この方、一歩も進歩していない証拠である。日有上人の板本尊彫刻説が荒唐無稽なることは既に然りで、また有師癩病説も全く悪口に過ぎないことを日霑上人がハッキリと教えてをられる。誠に上人が仰せられる様に有師が癩病であらせられたなら、あの大杉山近隣一円の人々があれ程に帰依し、信仰せられる筈がないのである。上人の如何に帰依の多かったかは、その地方の伝説でも知れるところである。
一方、その癩病説の出処は、大石寺近在の村人が語っていたというに過ぎないのである。此等は大石寺の声望を嫉視した日浄の悪言であることは明らかではないか。古来他門の徒輩は、大石寺に対すると即座に鬼畜の本性をむき出しにして諂曲(てんごく)と讒言(ざんげん)と悪口を逞(たくま)しくするが、此れは正法の鏡には、その本性がマザマザと映ずるということを実証するものである。
次に安永君は、
大石寺に於ては板本尊の秘密が外部に漏れるのを怖れるが故に信徒に授与する本尊は板本尊ではなく、必ず管長等の書いたものを授与するの止むなきに至るのである
と妄論をしている。此れも安永君の猜疑心の如何に強いかを物語るものである。見よ「富士一跡門徒存知事」を。御文に云く
日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り、若は又在所を追放れて一分信心ある輩に忝くも書写し奉り之れを授与する者なり
富士門に於ては六百五十余年蓮祖興尊の御跡を踏襲して、毫末も変えるところがないのである。よろしく邪熱を払って静視すべきである。
十二、有師偽作の原因についての稚説を破す
第十二項は、日有板本尊偽作の原因という見出しで、
日有師が板本尊を偽作したのは、有師が、北山重須は日興上人の隠居所であって、大石寺が根本道場であると主張したのに対して、重須の日浄が反対をしたので、日有師が板本尊を持ち出して其の説を有利ならしめ様としたのである
と言っている。而して後は又、有師癩病説を繰り返している。此等の事に就いては先に論じた処に於て明らかであるから再論する必要はあるまい。
十三、「松野殿御書が大石寺の偽作なり」とは見当違いなるを明す
第十三項は、楠は亜熱帯樹で七面山上には生育せずとの見出しで、
大石寺に於ては板本尊の日法彫刻説を裏付けるために松野殿御書を謀作し、その書中「日法が七面の明神に祈念し、浮木を得て弘安二年板本尊を彫刻した」といってをるが、楠は黒潮本流の洗う太平洋沿岸の地方にのみ繁茂するもので、高知、和歌山、静岡、千葉、石川、福井等の各県に育成されているに過ぎない。此れは黒潮が洗う関係によるものである。此を以って見れば、七面山には楠はない筈である。それが七面山から得たというのは明らかに虚構である。此れによって考えれば、沼津の光長寺に板本尊彫刻のカンナクズがあるといい、伊豆には楠が繁茂しており、大石寺は沼津に近いし、又板本尊に似ている曼荼羅が沼津の妙海寺にある。此れ等一連の事実から判断して、板本尊は沼津の近くで彫刻したものと察せられる
と言うのである。
此の楠が亜熱帯樹であるから七面山には存在しないということは、よくよく悪口に窮した挙げ句、智恵を絞って考え出した論法であろう。がしかし、七面山は静岡県の北に連なる山である。静岡県に楠が繁茂すると云う限り、七面山は楠が存在しないという議論は辻褄が合わないではないか。現に身延辺には楠が在るではないか。読者の中には七面山は長野県の北部にでもあると考える人もあろうから、其の人々はナル程と感心するかも知れない。安永君の論議は悉く素人騙しの香具師の言説である。
安永君は日因上人が有師物語抄に松野殿御書を記録されたのを指して、此れ大石寺の謀作なりと言っているが、これは日因上人が世間何れかに伝うるものを見て珍しき御書として記載されたものである。即ち「世間希ナル間今具ニ此レヲ書クナリ」と仰せられているが、此れは珍しい御書であるから書き留めて置くという意味で、何にも大石寺に在って他所にはないというのではない。日因上人が他所に伝わるものを御覧なされて珍しく感じられた事を述べられたのは文に依って明らかである。従って大石寺に於て偽作したなどとはとんでもない曲説である。尚又、従って其の御書の中にある七面山に祈念して浮木を得たとか、日法上人が御影を彫刻したとかいう事を此れに依って証拠立て様というのでも無く、また其の説をとるというのでもない。但大石寺に於て伝える歴史は確実であるが、此れに就いて此の書は参考になるものであると言うのである。
十四、日法上人の本尊彫刻は、史伝に於て明かなり
第十四項は、身延の庵で日法は本尊や御影を彫刻していないとの議論である。その理由とするところは、
宗祖が身延山の庵を建て給うた史実により、弘安二年には庵の大きさは四間或は十間四面位のものであったろうから、此の狭い庵中で板本尊や御影を彫刻して居れば何人かの目に付く筈である。若し目に付けば何人かが書き誌す筈である。しかるに一言も此れ等に関することを言って居ないのは、その様な事実のなかった証拠である
という。
一往、此の議論を聞くと辻褄の合った理の通った説の様に聞こえるが、少し考えて見れば此の馬鹿々々しい議論にあきれるのである。一体、宗祖御在世の身延山の模様が細大洩らさず記録されているのか。今日御書及び日興上人の御記録は他は僅かしかないではないか。しかも其の記録も読まないで記録にないと言うのは馬鹿気が議論ではないか。
現に日法上人の彫刻された御影が現存し世間はそれを認め、また門下、各宗に於て認めているところである。恐らく認めないのは安永君一人位ではないか。此れこそドンキホーテと評すべきであろう。此の僅かな記録から当時の模様を拝察することが肝心である。
安永君よ、君は身延山の正面の御本尊は如何なる御本尊であったか、考えた事があるか。先づ冷静に考えて見ることが必要であり。斯く言うとそれは釈尊の一体像だというであろう。そうすると御遷化記録には墓所の傍らに置けとの御遺言であらせられるから、身延山の堂の中には御本尊がなくなって了う理屈になり、あとは仏様の無い堂舎になるが、そいういう事が考えられるか(実際には日朗師が此の仏像を持ち去ったのである)此の観点から諸記録を詮索して見るがよい。そうすると板御本尊のことが髣髴(ほうふつ)として浮かんでくる(一々の文を引いて此に論証はしない。するとなれば大変な紙数を要することになるからである。ここには安永君に勉強のヒントを与えて置くにとどめる)前にも言う通り、金鉱を得るには鉱道を誤ってはならないと言うのである。
日興上人の身延御離山は、従来波木井の四箇の謗法によるということであるが、此れは波木井の謗法行為と一般に考えられているが、実際を見れば身延山の本尊問題が第一の原因である。是れを考察すれば、身延山本堂の本尊が最も根本である。釈尊の造像に執する波木井は大曼荼羅本尊を正本尊と考えず、日朗師の持ち去りし釈尊像の代りの像を造ろうとしたのである。此の衝突が身延離山の第一原因であったのである。然らば身延山の本尊は大曼荼羅であらせられた事がわかろう。そしてその大曼荼羅とはどういう御本尊であらせられたか、それが御板御本尊であらせられたことを文献によって拝することが出来よう。
安永君よ、もう一度教学の上では出直す必要がある。そうすると大聖人より日興上人の御身に宛て給はった(此の御文字は此の点に於ても極めて重要である)御板御本尊を、百貫坊に背負わせて粛々と身延の山を御去りになった有様が如実に拝される。而してその後に釈尊像が身延山にかざられたのである。しかし日興上人は身延の山を離れるに就いても尚且つどうしても釈尊像を祀るなら止むを得ない、せめて四菩薩を造り添えよとの最後の御手紙を波木井に送られたのである。従って後年四菩薩は造り添えられたのである。
此の筋で拝すれば記録は充分に存在する。安永君の様な見方では記録は少しもなくなって了う。
斯様な事を安永君に聞かせるのは勿体ないが、一言だけ教えて置く。念を入れて言っておくが、記録の有無は学者の識見による、識見のない者には記録は見つからないし、又死んで了うのである。
十五、重ねて松野殿御書の偽作について言及す
第十五項は、偽書偽造は御手のものとい見出しで、
大石寺で板本尊を偽作し、その証明の為に松野殿御書を偽造したのであるが、偽造はしたものの此れがあってはかえって其の信仰上まづいので、偽書と言わざるを得ない羽目に堕入っている。此れを以ても大石寺は偽作偽造には手段を選ばずやってのけるということがわかる
と言うのである。此の議論を見ると、いよいよ安永君は他人の尻馬に乗って勝手な熱をあげる軽薄才子だということがわかる。自分には何んの定見も無く、只他人の言うことを聞いて、それが筋が通る通らぬは問題ではなく、さもわかった様な口振りで少し許(ばか)り付け加えて自分の説として振回すのである。斯様な人物が、得てして世の中を騒がす天才である。
安永君、まづ聞くがよろしい。松野殿御書にはどういう事が書かれているか。言う迄もなく御影彫刻のことを挙げてあるが、此れが主意でなく、日法師を称歎し給うのが主意である。此れを見れば日法上人の系統に伝わった御書であることは明らかではないか。即ち岡の宮光長寺辺りに伝わったのではないか。直接板御本尊に関係なく唯御影に関係がある許りであるところの、この御書を大石寺に於て偽作する理由がどこにあるか。日因上人が物語抄の注に記入せられたのは「此書世間ニ希ナル間今具ニ之レヲ書クナリ」と仰せられてある通り、此書を披見せられて、かような事柄を記した御書は他にないから記してをくと仰せられたのである。而して目をひかれたのは日法上人の彫刻の記事があるからである。日蓮正宗に伝わったものならば、斯様な念書はなさらぬ筈である。今此には真偽の論は差し置いて、大石寺の偽作でないことを証明しておく。わかりましたか。安永君の言葉を借りると火の無い処に煙はたたないのであるから、かような御書をずっと調べると尊い史実が浮かび上がってくるものである。粗略に扱ってはならないのである。
十六、板本尊の出鱈目(でたらめ)な複刻を笑う
第十六項以下第二十二項迄は、板御本尊に就いて文字の批判によって偽作論を振り回している。その大綱は現存の御一代の御本尊の写真版によって、御文字を年代的に変遷があるとして、華押、筆跡(書体)、座配等から押して板御本尊の弘安二年代の御本尊は斯様な文字ではないと断じている。
板本尊の花押を見ると、その筆線の肉付は弘安二年のものには無い
と云う議論である。それは
板本尊の花押を見ると、ms型である。大聖人の花押にはns型と二様があるが、同じ弘安二年の御本尊が十二幅あるうちで、此のms型は板本尊と妙海寺と立本寺の所蔵のものの三幅しかない、此の三幅を比較すると他の二幅に対して板本尊は肉付が良すぎる。此の肉付の良いのは弘安三年の御本尊でなければならない。しかるに此れは弘安二年だという。此は明らかに偽作なるが故である
というのである。
先づ此の項以下の安永君の愚説を論駁するに当って、予め論評を加えて置かなければならないことは、安永君の愚説の根底となるものは熊田葦城氏の「日蓮上人」の中に掲載されてある板本尊の写真版を複写したものである。(此れは偽作論の巻頭に掲げてある)その複写が原版の加減で不鮮明極まるものである。それを見て勝手に想像して、花押と中柱題目の経の字とを復刻して、それを材料としてをるのである。実にいかがはしいこと極まりなしで、その復刻たるや全くの出鱈目で大笑いである。良心も何も持ち合わせぬ徒輩のやることである。
元来、安永君の宗旨では、元祖以来大曼荼羅を無用視してをるから一向無関心であったのが、大石寺を攻撃する必要上、俄(にわか)に皆が写真版を並べて所謂研究を初めたのである。だから大曼荼羅の拝し方も全くわからない。其れを俄か造りで一かど通ぶって論議をするから、丁度髷(まげ)を結ってシルクハットを被った様なものが出来上るのである。
安永君の議論では、板本尊の花押が他の本尊より肉付がよいから弘安三年四月以降でなければならないと言う。此れは安永君が複写の写真版を見ていると云う事を少しも予算に入れていない。浅はかな議論である。写真版では筆線がボケているのは何人も看取できる所である。
御戒壇の御本尊の肉付きを兎に角言う前に、御文字の肉付が弘安二年と弘安三年との間に裁然(さいぜん)たる相違があると断定するのは如何なる理由によるか。安永君に依れば弘安二年にはなく弘安三年四月以降の御本尊に拝されるからという。此れは弘安二年の他の二幅の御本尊は肉付が細いと云う理由だけである。それでは此の場合の一方は、宗祖の御一代究竟の大御本尊であらせられ、一方は一機一縁に授与し給う御本尊であるから筆勢上異なり給うところがあらせられると言うことを否定出来る理由ではない。殊に其れが弘安三年の五月に殆ど同じ様な御本尊が在らせられるとするならば一層そうではないか。此の間は僅か半歳程の期間である。若し安永君の言うが如く妙海寺の本尊が戒壇本尊によく似て居って他にはないと云うならば、妙海寺の本尊は他の本尊に似ていないから此れも偽作であるという理屈になるが、之れはどうか。安永君の御本尊の論証は全く勝手千万なものである。
十七、中柱題目に就いての妄見を破す
第十七項は弘安二年のものに板本尊の如き大きな題目はないというのである。それは
同年の御本尊十二幅中他の御本尊の題目は全紙の丈けの半分位の長さになっている。然るに板本尊の題目は六分の五に達している。斯様に長いのは弘安三年三月からで、其の以前にはない
と云う議論である。
此の議論は前項と同じ轍で前項は花押に就いて言い、此の項は題目に就いて論じたに過ぎないのである。従って再論する必要はあるまい。
十八、経字に就いての妄説を破す
第十八項は御本尊の中柱題目「経」の字を取り挙げての議論であって、即ち「経」の書体上よりみたる板本尊偽作の証拠という見出しである。此の項に於て安永君は六節に分けて経の字を分析して論じている。而して其の前提として
「経」の字の書体は時代によって変遷してをって、此の変遷によって年代がわかる
と山中喜八氏の説を引いている。此の説に依って以下の議論を立てているのである。
そこで先づ第一に、此の説の当否を吟味して見る必要がある。此の説の根底となる者は安国会刊行の現存御真筆御本尊集の百二十三幅によって種々の面から山中氏が分類して、「経」の字の変遷を四期に分けたものに重点を置いて此の説を為しているのである。
此処に其の変遷と時代に於て、第三期として弘安元年三月~弘安三年三月の時代は「経」の字の旁(つくり)が一筆で御書き遊ばされてある時代として、弘安元年三月から弘安三年三月の間を区切って居り、其の後は「経」の字の旁は「ツ」字形になっているとして第四期と称して弘安三年から弘安五年六月の期間を挙げている。
此の説を見ると現存御真筆と称する百二十三幅によっている。此れ以外に御本尊がなければ此の説に一分の理がある。しかし若し他に何幅もあるとすれば、其の御本尊が果たして如何なる御書体であらせられるか、若し一幅でも此れに反するものがあれば、なり立たない説である。
然るに山中氏は石山関係の御本尊は全く含まれないと言っている。而して又第三期を弘安元年三月から弘安三年三月の間としているが、此の間の「ツ」の字型が弘安元年八月にあるので、それを特例としている。それは一筆の書体とツの字型との両者が存在するからであろう。若し此の両者が存在するとなれば、三月以前に於ても両様が存在する事も有り得る筈である。然らば弘安二年の十月に於て両様の御本尊が存在しても不思議ではない。とに角、此に依って御書体の変遷は厳格に日時を区切って御変え遊ばされたのではない事が明白である。畢畢(つまり)或る時期に於ては斯様な書体が多いということは言い得るが、絶対的なものとは言えないのである。以上は山中氏の説に対する批判である。
さて此れで安永君の第一節の説を見ると、
戒壇の御本尊は其の題目の「経」の字はツの字型であるから弘安二年ではなく三年三月以降のものである
というのであるが、此の説は何等確たる根拠あるものでない事は上述の理由で明らかであろう。而して
第二期に於てツの字型の御本尊は建治二年の三幅と弘安四年三月と十月のものとの三幅あるだけで、第四期に属する「経」の書体でツの字型に筆の切れたものは無い
と言って、此れ板本尊が偽作である証拠であるというのであるが、此れは何か勘違いをして居るのではないか。これでは「ツ」の字型の筆の切れたのが第四期であるとの説はどうするのか。此に至って安永君の説がシドロモドロであって、唯何んでも偽作だと云い切ろうとする曲説である事をハッキリと看取出来る。更に
第三節に於ては板本尊の「経」の字は肉太で大きいが、斯様な「経」の字は弘安三年四月以降である
と云う。
然しそれにしても最も良く似ている妙海寺の本尊と比較していると糸扁(いとへん)の筆致が違い、点のうち型も、旁の光明点のハネ方も違うから偽作である
と云う。其の筆致がどう違うかは論じてないからわからないが、点の打ち方に就いては
二つの脚点が上に突き抜けているが、斯様な本尊は絶対に他にはない
といって、此に依って偽作と断定しても弁解はなかろうと言うのである。
吾人に言はせると、安永君の論議は此の一事だけでも全くの寝言であると断定出来ると言いたい。前にも述べた通り不鮮明な写真を複写して、其れを御丁寧にも復刻しているが、写真が不鮮明なる為に勝手極まる文字にして了って居る。戒壇の御本尊の御文字は安永君の考えて居る所とは全く違っている。御気の毒なことには、脚点は上に突き抜けていない。又次の第五節に安永君は
「華」の字の下の二棒の間に「経」の字の旁の上の一棒が引かれてある
と言っているが、此れ又御気の毒ながら安永君の妄見である。斯の様な妄見(花押にしてもそうである)の上に、何とかかんとか理屈をコジツケて居るが全く御笑い草である。
心顚ずる者眼顚するの如く、何んでも偽作にしようと云う浅ましい考えが眼を鬼畜の如くならしめるのである。此れ迄言って了えば、安永君を相手に論争することが実に馬鹿々々しくなってくる。唯世間の識者の為に書くと言うことで筆を進める気になるのである。
安永君は更に
「経」の字の旁の光明点に於て板本尊は筆を止めてあるが、此の止筆になっているのは建治三年二月迄で、其の三月後は細く流す様になって、弘安三年三月迄は全く先が尖っていると言って、唯其の間に二、三幅が止筆になっている。而して弘安三年三月の三幅が止筆になって居り、其の後は亦細く尖っていると言って、だから板本尊は偽作である
というのである。斯様な議論をよくもヌケヌケと言えたものである。弘安三年三月前に二、三幅、三月に三幅あるならば、弘安二年にあったとしても一向差し支えない訳で、若し此の期間の止筆の本尊は皆偽作だというならば話は一往受け入れるが、他の場合は例外として真筆である事を肯定し、唯此の御本尊を偽作扱いするのは全くの偏見ではないか。(此処には戒壇の御本尊の光明点が止筆であるか無いかは、敢えて言はない。其れは安永君の愚論そのものを粉砕すれば足りるからである)
十九、花押に就いての論議を笑う
第十九項は、板本尊は花押も知らない者の諜作なりという議論である。其の理由は、
第一節に花押が馬鹿デッカイ、全幅の六分の五に達している。花押の大きいのは弘安三年の三月と五月の二幅しかない、然して中央に位するものも此等の御本尊から以後で、其の前にある筈は無い
と言うのである。
此の議論も前と同じ筆法であるから再論はしない。唯此処に安永君に言うことは、一往君の説に従って三年の三月からとすると、斯様に従来と異なって花押を中央に大きく御認ためになったのは、如何なる理由であらせられるであろうか、それとも理由なしに、そう遊ばされたものであろうか。其の事を考えて貰いたい。
此の事を拝察すると、弘安二年の十月の出来事が思い合はされるであろう。其の前後にかような出来事はなかったのである。此を思うと二年十月に戒壇の御本尊を顕発遊ばされて、その後は此の御本尊に準じ給うた御事が窺われよう。御名と花押とを中央題目の真下に御認ため遊ばされると云う事は只事ではないのである。
第二節は
板本尊の花押は、ms型であるが、此の型は弘安二年には二幅しかない。三年になると十九幅もある、それで板本尊は三年である
と言い、第三節には
花押が鍵手であるが、此の鍵手は弘安元年七月以前で、其の後は蕨型であるから此れこそ偽作たる事を雄弁に物語っている、しかも蕨手を一気に下まで貫いてあるのは、いよいよ以って其れを証して余りがある
と云うのである。
ms型が弘安二年には二幅しかないからと言うのは、如何なる理由か。常人には受け入れない。又第三節の鍵手か蕨手型か、此れは写真で判断出来る事である。また一気に下まで貫いているとかいないとか云うことは写真では全く明らかで無いが、此れに就いては安永君の復刻の花押は全く出鱈目だというに止める。更にまた
日蓮正宗では花押を知らないから説明して置く
と言って、鍵手と蕨手のことをボロン字なることを山川智応氏の説を受売りして知ったか振りに説いている。誠に有り難い御尤もの説と言い度いが、それこそ何も知らない者の言うことで、此れをこそナンセンスというのである。山川智応氏の創造説を有難く思って居る処に低劣さがある。花押のことなら日蓮正宗でなければわからないと云うことだけを此際頭に入れて置く必要があろう。咄
二十、帝釈天王に就いての憶説を笑う
第二十項は帝釈天王を勧請する板本尊は偽作なりというのである。その理由としては
大石寺五十二世日霑上人と六十世日開上人の大曼荼羅に帝釈天王とあるから板本尊もそうであると思うと言って、此の帝釈天王は宗祖の御本尊には全くなく、悉くが釈提桓因大王になっているから、此れ明らかに偽作の証である
と言うのである。
此の事に就いては戒壇の御本尊は釈提桓因大王となっておられる事を言えば、議論を決するであろう。唯あまり勝手な当て推量は止める可きで、しかも其れに依って悪口雑言するに至っては安永君の心情の醜悪さを曝(さら)け出した以外に何も得る処はあるまい。
二十一、妙海寺の本尊の模作という僻見を破し、妙海寺の本尊こそ富士所伝本尊の臨写なるを教ゆ
第二十一項は板本尊は妙海寺のマンダラの模作偽造かというのであるが、其の理屈を見ると、
宗祖の大曼荼羅御本尊百二十三幅中、沼津の妙海寺所蔵のものが最も良く板本尊に似て居る
と言って、次に第二十二項に於て、
それは妙海寺のものによってヒントを得て板本尊を偽作したのであろう
と論断している(此に就いては一括して下に論ずる)
第二十二項は即ち板本尊偽作のヒントを与えた裏書と題して第一節に於て、
此の妙海寺の本尊の裏書に『天下泰平国家長久八日堂御祈祷之大曼荼羅』とあるが、其れに拠ってヒントを得て板本尊を偽作したもの
で、また
妙海寺には此の他に二幅の御真筆御本尊があって、其の御本尊には日安と日専に対しての授与書がしてある。日安は山本弥三郎といい、日専は其の妻である事がその本尊の裏書きで知ることが出来る。而して此の山本弥三郎は国安と称したことが同寺の過去帳に誌されている、と禅智院日好が妙海寺宝物書物此控に誌してある。此等を以って考えると此の弥三郎国安を真似して弥四郎国重という名を作ったものである
と第二節に論じ、更に第三節に
妙海寺には開山以来八日堂法華講衆なるものがあったから、板本尊に法華講衆と真似たものである
として、更に第四節に於て
板本尊の名は重須日浄によって世に出初めているから、其の日浄と同時代の日有の偽作で、妙海寺の開山日実も同時代であるから、此れに依って日有が偽作したと言うことは白日の下に曝け出される
と論定している。
吾人は此れを四で此の編の理屈は、安永君としては一世一代の智慧を絞って考案したものと推察する。尤も之れさえも存外他に原作者があって、その原本に尾鰭(おひれ)を付けたに過ぎないと思えるが、しかし斯様なことを考案する人間の頭は恐ろしい、犯罪者はよくアリバイを巧妙に造って置いて悪いことをするらしいが、斯様な頭の持ち主は得て、そういうことをやらかすものだ。
次に此の屁理屈を論評して見よう。先づ妙海寺の八日堂本尊であるが、此の御本尊には授与書きがなく、造立因縁が明らかに推察出来ないが、恐らく、之にはそれだけの理由が有ると考えられる。然し少なくとも妙海寺所蔵の他の御本尊に、日安、日専の授与書がある限り、此の夫妻に御授け遊ばされたものでない事は明らかである。依って此れは山本家には関係なく、他に伝えられたものが後年、八日堂の本尊として納められたことが推察出来る。其の時からか或は其の後、天下泰平国家長久八日堂御祈祷の大曼荼羅の裏書となったものである。して見ると山本弥三郎と云う人は少なくとも八日堂には関係は無く、ずっと前にあった人で此の御本尊とは何んの関係も無いのである。従って八日堂に法華講があったとしても此れとも関係が無いのである。こうなって見ると弥三郎日安と祈祷本尊と八日堂とは、まる切り散り散りばらばらで、しかも弥三郎が国安という事は過去帳にあるというのであるから、此れ又別なことである。
此の散り散りばらのものを日有上人が纏めて一つの御本尊に作成したということは余りに穿(うが)ち過ぎた議論ではないか。日有上人が特にこの本尊を臨写模刻されたというならば、それだけの理由があられる訳けである。御本尊が他に無い立派なものであるならば、それは理由になる。然し富士大石寺及其の門流に於ては立派な御本尊は幾幅も所蔵している。しかも当時は已に各山の対抗意識は強く、寧ろ抗争意識が盛んであったのである。その証は安永君も引用している様に重須日浄が日有上人を非難しているのである。若し日有師が八日堂の本尊を臨写模刻をしたならば、それこそ「未聞未見の本尊」を彫刻したという位ではなく、八日堂の本尊を臨写模刻せりと書く筈である。臨写となれば簡単にはできないから、必ずや其の噂は重須に聞こえる筈である(史実は斯様に扱わないと生きて来ないものである)
又八日堂に於ても、日有上人に臨写を許す関係はない筈である。若し又天下泰平御祈祷と弥三郎国安と法華講等の縁起に就いては、法華講衆は、二祖日興上人により大石寺が本家であり、又弥三郎国安の名を取ったというならば、若し名を選ぶならば南条殿もあり、何んぞ宗祖の御弟子中存在の大した者でない弥三郎国安を選び、其れに事寄せ給うことがあろうか。
最後に、日有上人は戒壇御本尊の御身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実で、其の御本尊には日有上人が署名を遊ばされている。此れは今日、大石寺の御宝蔵に納められてある。此の御本尊と戒壇の御本尊とは別である。重須日浄が「日有上人が未聞未見の御本尊を彫刻した」というは、日有上人の造立遊ばされた御本尊は大石寺秘蔵の他の御真筆御本尊によられたものであるから、此の御本尊は日浄が未聞未見の本尊だというのである。戒壇の御本尊と混同して考えてはならない。
しからば何故日有上人が模刻なされたか、それは戦乱引き続くその当時、御本尊にもしやの事があってはとしての万止むを得ざる処置であったのである。此等のことは古来、論争の時には常に明らかに明言している処である。然るに他宗では此の明言は聞かぬ振りをして幾度でも同様なことを言って、難癖をつけようとする、此れは全く卑怯なやり方ではないか。
尚此に付け加えることは、冨士大石寺流に於ては、御本尊彫刻は日有上人以前宗祖已来のことで、日有上人已前各寺本堂安置の御本尊を彫刻したことは記録の上に明記されており、又其の御本尊は今日現存しているのである。何んぞ御本尊彫刻が日有上人に始まると言哉。
又日有上人が癩病になったとの悪口は、他宗の讒謗(ざんぼう)であって、前に述べた様に隠栖(いんせい)の地・大杉山に於て近隣の者が如何に崇敬をしたか、亦富士門流に於て有師堂を建立して尊敬し、大法要を執行する日を有師の御命日によっている所すらある。日有上人の崇敬は今日尚盛んである。癩病説を為す者は日有上人の御高徳御事跡を嫉視(しっし)しての讒謗(ざんぼう)であることは明らかである。釈尊に提婆、瞿伽梨(くぎゃり)があり、伝教大師には南都の仏教があり、宗祖には鎌倉諸山あり、日有上人に於て又重須日浄があるのである。
今安永君は熱原法難のことを挙げて闇討横死だと罵っている。
賢臣比干(ひかん)は紂王(ちゅうおう)の為に胸をさかれ、良臣竜蓬は桀王(けつおう)の為に頸をはねられ、伝持の師子尊者は檀弥羅王の為に頸を切られ、同じく道生は流罪に処せられている。
単に現証をとらえるならば之れ程不幸なことはあるまい。しかしながら、頸を切られるに到った、流罪に逢うに到った其の道筋なり、本義より判断して、其の奥底の正しい精神を掬(く)みとることなくして、唯単に現証を取り挙げ喋々するは正理に反する妄者のたわごとに過ぎない。
涅槃経に曰く、寧喪身命不匿教者
法華経に曰く、一心欲見仏 不自惜身命
の経文を如何に解釈するのか。
他宗ならいざ知らず安永君も自ら日蓮門下を以って任じているのであろう。世も末とは言いながら、慄然(りつぜん)として涙を呑む許りである。
御書をどの様に読んでいるのか。全日蓮門下の諸師よ、此の安永君の言葉をどう感じられるか。論争は正法を求むる者の為す所である。邪法を捨てて正法に付くのがお互いの覚悟でなければならない。論争に於いて言うべき言葉が無いとして、遂に此の悪口雑言を発するに到っては又何をか言はん哉である。
此に妙海寺所蔵の大曼荼羅に就て、安永弁哲君に教えて置く。此の本尊が如何なるものかは先づ、日華上人授与(本尊集 本能寺所蔵)の本尊とを並べて拝見して見るがよい。此の二幅の本尊は殆ど題目も花押も四天王も仏菩薩の座配も同じであって、又御文字の様子も違うところがない。而して年月日も弘安三年五月八日になっている。此れから拝察すれば、大聖人が同日に此の二幅を御認め遊ばされたのである。若しそうであるならば、全く同じであっても不思議はない。しかし乍ら一方には沙門日華に之れを授与すと御明記遊ばされ(尚左方に日興上人の御加筆がある)一方には年月日だけで授与書きがないのである。従って如何なるお思召があって御認め遊ばされたか不明である。
此れを以って察すれば、此の妙海寺所蔵の本尊こそ、此の日華上人へ御授与の本尊の臨写したものであることは歴然たるものである。その証拠には、妙海寺の本尊の花押は筆線がつづいていない。此れは御花押の形の臨写はしたが、筆線の脈絡がわからない為に斯様なことになって居るのである。斯く拝すると妙海寺の本尊こそ日華上人授与の御本尊の臨写(敢えて偽作とはいはない)である。
日華上人は日興上人の高足であらせられるから、此の本尊は富士門流に伝える所であることは明らかである。依って此れを言えば妙海寺の本尊こそ富士門の本尊を臨写して作成したものであることは動かし難い。安永君、もって如何となす。君は
大石寺の戒壇の御本尊は妙海寺の本尊に依って偽作した
と言うが、豈はからんや、妙海寺の本尊こそ富士門の御本尊の臨写ではないか。それを臨写本尊を聖人の真筆と言い、御真筆を指して偽作という、正に此れ世間の諺(ことわざ)にいう盗人たけだけしいというのは此の事である。凡そ身延門流の言う事、為す事は悉くが此の如くである。瞞着(まんちゃく)を止めよ。虚偽を構えるな、と吾人は声を大にして身延門流に諫告する。
天台大師は、自師法、三つの疑難を取り挙げているが、即ち第一に自からの不明を以って師(仏)を邪推し、法をも疑う結果となるとのことである。今、安永君の論難は彼自身の不行跡より推断して他人をも計り、我が先師を疵つけ、引いては本師大聖人の正義のほどをも罵詈して居るものである。
又、自からの確定する所の本尊無きを以って我が山に厳護申し上げる本門戒壇の御本尊をも偽作なりと誹謗するものである。
天に唾(つば)する者の結果は己れの顔に戻るが如く、本論こそ彼自からの頭破作七分の不行跡を如実に暴露しているものに過ぎないのである。
※原本では、以下に『後編 日蓮正宗歴代管長裏面史の邪論を破し真実を記す』との文章が続きますが、ここでは「本門戒壇の大御本尊への疑難」に対する反駁のみを掲載させていただきます。
(参考1)
総本山第六十六世日達上人ご指南 《昭和三十八年一月一日》
過日、ある宗教新聞に、我が戒壇の大御本尊様のことを誹謗して、「板だから、いつかなくなってしまう」がごとき暴言をはいている記事を目にしました。まったく謗法の人々は、正法に対して悪口罵罵することに夢中になって、自分ということを忘れてしまうらしいのです。
彼らの説はすでに仏教ではありません。また宗教でもありません。なんとなれば、空理空論をたくましくすることは、人生になんの利益もなく、出離生死の道ではありません。そういう言動行為は、彼のバラモン外道の論説であります。
彼らの論ずるところは、仏教以前、宗教以前のことであります。もっと詳しく言えば、この娑婆世界には成住壊空の四劫があります。そのうち、ただ空劫だけを論じているのでありまして、現在の娑婆世界、すなわち住劫の今日を忘却しているので、しかも彼ら自身この世に存在し、この世に生活していることを忘れているのであります。
それで一人前の識者のごとくよそおい、空説を述べて現実の人生を救うべき日蓮大聖人様の正法を破折したつもりでいるのであります。ところが、彼らの説は、彼ら自身の仏教を否定していることにみずから気がつかないとは、まことに笑止千万のことであります。
まことに、こういう謗法の徒輩が世間に充満しているから、いっそう折伏して、末法適時の大法・南無妙法蓮華経をもって人々に弘教して、今日の人々を幸福にし、今日の世界を平和にしなければならないのであります。
日蓮大聖人様は、上野殿に送られた単衣抄に「仏前に詣でて、法華経を読み奉り候いなば、御経の文字は六万九千三百八十四字、一一の文字は皆金色の仏なり」と仰せになっております。
すなわち、このことは、御本尊は凡夫にはただの文字としか見えませんが、仏種純熟した人々には、一一の文字はみな金色の仏種であることを、教えられているのであります。
謗法の人々は、いつまでたっても、そのままでは真の仏様を拝することはできないのであります。じつに哀れなる人々であります。私どもは、今年もいっそうに信心を堅固にして、折伏に精進されて、哀れな謗法の人々を救って参りましょう。
(参考2)
戸田城聖氏 本門戒壇の大御本尊についての指導
「弘安二年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の御本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕になられたのであります。聖人御難事に、建長五年より、余は二十七年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。
日寛上人は、大御本尊様について『就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究寛中の究寛、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提(世界)総体の本尊なる故なり』(観心本尊抄文段)といわれています。
さらに、日寛上人は、大御本尊の功徳について
『これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆成くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。讐えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れぎるなきなり。妙楽の所謂『正境に縁すれば功徳猶多し』とはこれなり』(観心本尊抄文段)
とおおせであります。
このようにすばらしい大御本尊が、七百年の昔から日本に厳存し、今日では奉安殿に御安置されているのです。
これに対しては、なにものも絶対疑っては相なりません。いま、安永弁哲が、偽作論のなかで、第九代の日有上人様が板曼茶羅を偽作したといっている。これが、他宗の間違った議論なのです。これにみな迷う。総本山で、明らかにすればいいのに秘密主義なのです。それは「時を待つ可きのみ」(御書全集一〇二二ページ)というご命令をそのままうけていらっしゃるから、正直なのです。総本山ぐらい正直なところはないのです。
日有上人が御本尊を偽作したというのは、身延の連中のいうことなのですが、そういわれると、そういうこともあるかなと、思うものもあるでしょう。私は総本山にきて、日有上人の御本尊を拝したことがあります。これは現在でも御宝蔵にきちんとしまってあるのです。身延派はこの御本尊様と間違えているのです。またおかしいのは紫宸殿御本尊様のことをいっているのでもない、これは年号が違うのです。また、どの御本尊様ともいえない。まったくのうそです。弘安2年の御本尊様は、弘安2年の御本尊様です。これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。あの御本尊様を他の人がつくれますか。私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らないようなものです。洗燿機にしても私が作ったのでは動かないのです。そのようなものです。大御本尊様を拝んでいれば、そんなことはわかるではないですか。弘安2年の御本尊様は、日有上人がつくったのではありません。日有上人のは別にあるのです。 (戸田城聖全集2より)
(参考3)
総本山第六十八世日如上人ご指南
大御本尊に参詣することこそ、最高の功徳の源
『南条殿御返事』には
「此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(平成新編御書 1569ページ)
と仰せであります。「此の砌」とは、すなわち本門戒壇の大御本尊まします、ここ総本山大石寺であり、総本山に登山参詣する功徳は計り知れないものがあり、まさしく「三業の悪」すなわち身口意の三業にわたるすべての悪業を転じて「三徳を成ぜん」と仰せであります。
三徳とは、法身・般若・解脱を指します。すなわち仏様に具わる三種の徳相のことで、「法身」とは仏証得の真理、「般若」とは真理を悟る智慧、「解脱」とは法身・般若の二徳が一如となり、生死の苦海から脱却した状態を言います。
かくの如く、戒壇の大御本尊まします総本山大石寺に登山参詣する功徳は、この三徳を成じ、計り知れないほど大なるものがあると仰せられているのであります。
されば、このたび海外信徒の皆様には、様々な困難を乗り越え、渇仰恋慕の心をもって総本山に登山参詣されたことはまことに尊く、必ず皆様には計り知れない大きな功徳を享受されるものと心からお祝い申し上げますとともに、これからもいよいよ信心強盛に異体同心・一致団結して、一天広布を目指し、自行化他にわたる信心に住されますよう心からお祈り申し上げ、一言もって挨拶といたします。
(平成30年8月25日 海外信徒夏期研修会 開会式の砌)