末法の三徳兼備の仏は釈尊ではなく「日蓮大聖人」であり、
大聖人滅後の現今においては、本門戒壇の大御本尊が仏の当体である
総本山第66世日達上人ご指南
仏は三徳兼備であります。主師親の三徳を備えて衆生を導くのです。主徳というのは、封建時代は君臣の間がらから言われ、現代はそれをもっと広い意味で考えなければならない。主は導く方ですから支配する人、小さくいえば、一家では主人が家族を支配し安全にしていく、これが主徳です。大きく国家でいえば内閣総理大臣が支配者であり、主徳をもって国内を支配し、平穏に治めていかなければならない。ただ主人と威張っていて、暴力をもったのでは、これは徳とはいえない。そこに慈悲をもって支配していくのが主人の徳であります。
師徳においても、慈悲を根底に、教え導いていくことである。親徳も慈悲の上に、養い育てる行動がなければならない。
今の時代は、親と子供との関係がひじょうに薄くなっています。親は子供をうみっぱなし、子供は親を養わなくともよいという考え方になっています。
仏教においては、恩を報ずるということが大切であります。親の恩に報いるのにも段階がある。親に育てられたから養っていくというのはまだ軽い。さらに親の教えに従っていくということもまだ軽い。親を回向するということが、すなわち親がもし間違っていれば、これをただし、地獄へ落ちるならばこれを救い、誤った法を信ずるならばこれを折伏し、正しい法に帰せしめるということが、本当の報恩となるのです。
ここにこそ仏法の深さがあり、さらに進んで一切衆生を救って、ともに浄土を築いていこうというところに仏法の偉大さがある。末法の時代は、南無妙法蓮華経を説かれた仏様、すなわち日蓮大聖人様が主師親三徳の仏であります。
それを忘れて、いまの身延派においても、その他の同じ南無妙法蓮華経と唱える邪宗は、日蓮大聖人様を忘れて、なにも末法の縁のないところのお釈迦様を仏として立てて、お題目を唱えている。これほど間違ったことはない。釈迦に、いくら南無妙法蓮華経と唱えても、それは通ずるわけはないのです。もし釈迦に唱えるならば、南無釈迦牟尼仏と唱えればよろしいのであって、法華経にも「この法華経を、もし、たとえ心にもなく、戯れにも仏を造って南無仏と、南無釈迦牟尼仏と唱えたならば仏道を行じた」ということが、法華経に説いてある。しかしこれは釈尊の時代のことであって、末法は日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経であります。
南無妙法蓮華経は、日蓮大聖人様が久遠のむかしから所持されているところの本法であって、南無妙法蓮華経と唱える以上、日蓮大聖人様を拝み奉るのは当然の理であります。
しかし、日蓮大聖人様はすでに亡くなられているので、その魂、日蓮大聖人様のご生命が、本門戒壇の大御本尊様であり、法報応の三身相即したところの御本尊様であります。この御本尊様が、末法の三徳兼備したところの仏様です。
この本門戒壇の大御本尊に向かって、題目を口に唱え身をもって折伏を行じてこそ、真実の法華経の行者であります。いわゆる法華経の不自惜身命の行者は、われわれ日蓮正宗の信徒以外にないという堅い決心をもって題目を唱え、ますます折伏に励まれ、この世の人々とともに成仏して、そして広宣流布を実現し、立派な常寂光土の世界を建設されんことを願う次第であります。 (昭和37年9月7日 小田原教会にて)
参照
◇「末法の仏とは凡夫なり。凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり。仏とも云はれ、又は凡夫僧とも云はるるなり」 (御義口伝 新編御書1779ページ)
◇「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし。(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゆしきひが(僻)事なり。日出でぬれば、ともしび(灯火)せん(詮)なし」 (上野殿御返事 新編御書1219ページ)
◇「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」 (開目抄 新編御書577ページ)
◇「日蓮は日本国の人の為には賢父なり聖親なり導師なり」
(真言諸宗違目 新編御書600ページ)
◇「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」
(一谷入道女房御書 新編御書830ページ)
◇「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」 (観心本尊抄 新編御書656ページ)
◇「『後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん』と。天台大師記して云はく『後五百歳遠く妙道にうるおはん』と。妙楽記して云はく『末法の初め冥利無きにあらず』と。伝教大師云はく『正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り』等云々。(中略)此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」 (観心本尊抄 新編御書661ページ)