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さあ、私たちと真実の南無妙法蓮華経の信仰をしてみませんか!
日蓮正宗 妙通寺(妙通寺・日蓮正宗でも検索可)
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日蓮正宗と日蓮宗(身延)とは何が違うの?
成立・教義と疑問
まず第一に、私たちは「日蓮宗」ではなく「日蓮正宗(しょうしゅう)」です!。
平成29年夏「日蓮正宗 大石寺 宝物殿」の案内映像が youtube にて配信開始されました。この映像では、どうして現在、「身延」ではなく「富士・大石寺」が根本道場となっているのかが、大変わかりやすく説明されています。ぜひ一度ご視聴ください。
◇なぜ「身延山」ではく、「富士大石寺」を総本山とするのか◇
日蓮大聖人はご入滅に先立ち、六人の高弟を選定し、滅後の教団維持と広布進展を託されました。なかでも白蓮阿闍梨日興上人をご自身唯一の後継者と定め、身延山久遠寺の第二代別当(住職)としての確固たる地位と、本門戒壇の大御本尊を根源とする大聖人の仏法の一切を授けられたのです。ここに、日興上人を中心に、五老僧たちが協力して、弟子や信徒を育成したり、全国の折伏を推進していく大きな体制が整えられたことになります。
ところが日蓮大聖人が入滅されると、他の5人の高弟は、日蓮大聖人の遺言を破り、日興上人に背くようになりました。それは、日蓮大聖人第1周忌法要には、五人の高弟すべてが、日蓮大聖人の御墓に参詣していない事実からもわかります。
大聖人の3回忌が済んだころ、身延の日興上人の元に登山してきた五老僧のひとり・民部日向は、そのまま身延に住み着いて、地頭・波木井実長をそそのかし、自身が久遠寺別当の地位に登る画策を謀るに至ったのです。
「このままでは、日蓮大聖人の正義が乱されてしまう…」。
日蓮大聖人の「地頭不法ならんときは、我も住むまじ」「富士山に本門寺の戒壇を建立すべき」との御遺言もあったことから日興上人は、日蓮大聖人の仏法が日向や波木井に汚染される前に、身延山から富士の地へと移動されました。その際日興上人は、末法万年の衆生救済の根源の御本尊として日蓮大聖人より託された本門戒壇の大御本尊や、日蓮大聖人の御墓から御遺骨まで取り出し、すべての宝物を富士の地へと移されたのです。
その後、一年の歳月を経て、翌年10月、大石寺を開創されました。
以後700年以上にわたり、大石寺には、日興上人が日蓮大聖人より授けられた末法唯一の大正法が、代々の歴代上人の深い信心を基とした「血脈相承」により、正しく受け継がれています。
◇日蓮宗の沿革・歴史
日興上人が身延を離山された後、久遠寺別当となった民部日向は、地頭波木井実長が没した後も波木井一族の外護を受け、正和2(1313)年、弟子の日進に久遠寺を譲り、上総茂原に隠居しました。そして翌年9月、63歳で死亡しています。
当時の久遠寺は、日興上人がすべての御宝物を富士に移されたことから、かつて「日蓮大聖人がすまわれた跡地」程度の価値しか有しない寺となりました。
しかし寛正2(1461)年、行学日朝という僧侶が別当に就任し、建物を身延山内の西谷から現在地に移転して伽藍を整えると、日蓮各派より祖山として仰がれるようになりました。また第14代日鏡のとき、徳川家康の武運長久を祈願したことをきっかけに、徳川家の外護を受けるようになり、絶大な権力と地位を確立していくことになります。江戸中期までの身延山は、武家の庇護によって全盛を極めましたが、近年にいたるまで度々大火災を起こし、当時の伽藍のほとんどを失っています。
また、庶民の間で大黒天・鬼子母神・七面観音等の番神信仰が盛んになると、身延は各末寺と競って雑多な番神を祀るようになり、さらに布教師を各地に派遣して布教する「出開帳」などを頻繁に行なって教線拡大を図りました。
安永5(1776)年には、身延の七面社殿が焼失して死者を出したことから、「七面邪神説」を唱えた当時の貫主が、身延の歴代法主から除名されたうえ牢死させられるなど、身延派教団は、次第に教義的な退廃と混乱に覆われていきました。
明治時代に出現した学僧・日輝は、これまでの訓古的な伝統教学を否定し、神道・儒学・仏教の一致を強調した摂受(しょうじゅ)主義に徹した教えを弘めました。この日輝の説は、はじめは身延山でも異端視されましたが、日輝の弟子・新居日薩が身延の法主となり、日蓮宗宗教院を設けて院長に就任したことをきっかけに、日輝教学が身延の主流派となります。
明治8(1875)年1月、身延は失火により、またもや全山が炎上しました。この火災により、身延の本堂・祖師堂をはじめ144カ所もの堂宇を全焼するとともに、日蓮大聖人直筆の『開目抄』『報恩抄』等の重要御書も焼失してしまいました。
明治期の身延教団は、思想・運営の両面にわたり、日輝門下生によって独占支配されました。その結果、教団内では権威主義がはびこるようになり、門下生および日輝教学に対して厳しい批判が浴びせられ、教団を離脱した在家信徒により新宗教が生まれていったのです。その代表的なものが、田中智学による「国柱会」です。
◇「日蓮宗身延派」の教義・信仰に、大いに疑問を抱く理由(わけ)
▼本門と迹門の一致を説いています
日蓮宗では、法華経の本門と迹門との一致を主張します。この説は天台大師が法華玄義に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈を主とするものですが、これは天台過時の教えであり、日蓮大聖人の仏法に当てはまるものではありません。
日蓮大聖人は、法華経の本門と迹門は、久遠実成の本仏と、始成正覚の迹仏という仏の身においても、また説かれる法の実体においても、勝劣があると示されています。その相違はまさに水火・天地と言えるのです。日蓮大聖人の教えを否定し、像法時代の聖者である天台大師の説を採ることは、日蓮大聖人の弟子としての信仰に疑問を懐かざるを得ません。
▼身延派では、寺ごとに本尊がバラバラ。思いつきの宗教と批判されています。
日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、いまだに日蓮大聖人のご聖意が何であるか理解できず、本尊に関する御書を集めて、本尊の候補を選び、その中から多数決や学説などによって相談して決める、などというきわめて杜撰な見解を発表しているのが現実です。
たとえば、本尊候補として、①首題本尊 ②釈迦一体仏 ③大曼荼羅 ④一尊四士 ⑤二尊四士 など複数のものが挙げられています。現在では、これらの中でも、一尊四士を日蓮宗の本尊と定めるのが適当であると結論づけているようです。
日蓮宗身延派では、こうした本尊を制定する理由として、日蓮大聖人の御書『観心本尊抄』の「仏像出現」という語句を挙げています。しかしこの御書に出てくる「仏像出現」とは「釈尊の仏像を造る」との意味ではなく、久遠元初という本源の仏法を顕わされる本仏が出現するという意義を、日蓮大聖人が示されたものと拝するのが正しい読み方です。
つまり「本門の教主釈尊を脇士とする本仏(日蓮大聖人)が出現して建立する未曾有の大曼荼羅御本尊」を意味しているのです。
こうした深い意味が解らず、ただ「仏像」「教主釈尊」という言葉だけを見て、
「ああ、お釈迦様の像を安置せよと、日蓮大聖人は示されたのだな」
と曲解するのは、日蓮大聖人の教えの真髄がわかっていない証左と言えるのではないでしょうか。
▼身延には、日蓮大聖人の正しい仏法が伝わっていません。
日蓮宗では、大曼荼羅御本尊を書写する場合、日蓮大聖人のことを「日蓮大菩薩」と書いたり、首題の南無妙法蓮華経の直下に自分の名前を書く、といったのように、数々のまちがいが見られます。このことからも、六老僧のなかでも日興上人だけが唯一正統な大聖人の後継者であり、それ以外の門下には、日蓮大聖人の正義が伝わっていない証といえるのではないでしょうか。
▼日蓮宗の寺には、正しい本尊がありません
日蓮宗の寺には、現在も鬼子母神や稲荷、七面大明神、清正公など、三十番神をはじめ雑多なものを信仰の対象として祀っているところが多くあります。しかし、これらの勧請は、すべて、日蓮大聖人滅後に、日蓮大聖人の仏法の意味が解らない弟子たちが行なったものであり、日蓮大聖人の教えではありません。
日蓮大聖人は御書に
「此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」 (新編御書1387ページ)
と示されています。
これは諸天善神は日蓮大聖人の当体である大曼荼羅御本尊に内在し、その諸天善神は妙法の功徳によって法華守護の任を果たすということです。したがって、諸天善神とは、あくまでも御本尊に具わる法華経の行者を守護する用きであり、諸天善神そのものを祀って信仰の対象とすることを、日蓮大聖人が教えられている訳ではないのです。
身延山久遠寺の門前では、日蓮大聖人の大曼荼羅御本尊のコピーが“みやげ物”として参拝客に販売されています。こうした実態こそ日蓮大聖人が
「諸宗は本尊にまどえり」 (新編御書554ページ)
と指弾された邪宗謗法の姿と言えるのではないでしょうか。謗法を強く戒められ、謗法不信の者にはけっして本尊を授与されなかった日蓮大聖人の教えに背く宗団こそ、残念ながら、現今の日蓮宗身延派と言えましょう。
まさに
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(新編御書92ページ)
であり、日蓮正宗以外、日蓮大聖人の正義を正しく伝える宗団はあり得ないのです。
日蓮正宗と日蓮宗、何が違う? 大白法(令和2年11月16日号より)
日蓮正宗と日蓮宗の違いはなにか。
正しい信仰を知らない人の中には、「同じ“日蓮大聖人”を祖とし、“南無妙法蓮華経”と唱えるのだから、流派がいくつかに分かれるようなもので、どちらでも大差ないんじゃないの?」「ひょっとして、似ているからこそ、仲違いしていたりとか?」と考える人もいる。
日蓮正宗と日蓮宗では、正確には一から十まで全く違うのであるが、まず第一に「本尊」が違う。
折伏していると、「我が家は日蓮宗の檀家です。同じですね」などと言われてしまうことも多く、そこから折伏が始まったりする。
我々日蓮正宗の信仰は、末法の御本仏である日蓮大聖人が顕わされた本門の本尊を受持信行することに尽きる。この御本尊を受持すれば、即身成仏の大功徳を生ずるが、ひとたび御本尊から離れれば、いかに似ていようと、もはや大聖人の信仰ではなく、功徳は生じない。
本尊は末法濁悪(じょくあく)の我々凡夫が、“好きなものを選ぶ”というような、いい加減でよいものではない。
◇日蓮宗の本尊
ところで、日蓮宗では本尊をどのように捉えているのだろうか。
巻頭に当時の日蓮宗管長の「序」を戴く、立正大学日蓮教学研究所を著者とする『日蓮宗読本』の「本尊の形態」を見ると、
「宗祖は五種の様式を教示し図顕されている」(当該書 153㌻)
として、
①南無妙法蓮華経の首題のみ(首題本尊)
②釈迦の立像(釈迦一尊)
③大曼荼羅
④釈迦像と四菩薩像(一尊四士)
⑤釈迦・多宝像など、四菩薩像(二尊四士)
の五種類の本尊を列挙している。このうち、④と⑤を比較検討すると
「宗祖の取り扱いは一尊四士を主とせられたようである。これは行法の便宜、造立の費用等に起因するものか。ここに詳論を避ける」(同前 154㌻)
と述べて、理由は明確でないが、一尊四士が本尊としてふさわしいらしい。ただし「造立の費用等に起因」ともある。これは、信行の根本命脈である本尊が、時に“費用”によって、不本意な形で造立されるということだろうか。
◇日蓮正宗の正しい御本尊
末法の御本尊は『観心本尊抄』の
「其の本尊の為体(ていたらく)塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩(中略)此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(平成御書 654㌻)
との御文に明らかなように、一尊四士でも二尊四士でもない。大聖人以前には誰も顕わされていない、本門の釈尊を脇士(きょうじ)とする本尊、すなわち妙法大曼荼羅こそが末法の正しい御本尊なのである。なかでも
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ(中略)余は二十七年なり」(平成御書 1396㌻)
と、宗旨建立から二十七年目、弘安二年十月十二日御図顕の大曼荼羅こそが大聖人出世の本懐にして、三大秘法随一たる本門戒壇(かいだん)の大御本尊である。
そして、御本尊を含む大聖人の仏法の一切は二祖日興上人へと受け継がれ、爾来(じらい)、唯授一人の血脈を承(う)けられた御法主上人が御所持あそばされるのである。
よって今日においては、御当代御法主日如抄に猊下が唯授一人・法体の血脈を御承けあそばされ、我々日蓮正宗僧俗は、この血脈を信順(しんじゅん)して初めて、正しい信仰を継続できるのである。
翻って日蓮宗は、前に挙げた五種の本尊ばかりではなく、十羅(じゅうら)刹女(せつにょ)や鬼子母神を単独で祀(まつ)るなど、宗祖の本意とかけ離れたものになっている。世間に知られた柴又(しばまた)の帝釈天も、雑司ヶ谷の鬼子母神も、日蓮宗寺院の一形態である。
信仰で最も大事なのは、何を本尊とするか、何を信じるかではないか。
弘めるべき確固たる本尊や教義がないならば、謙虚に宗祖大聖人の御金言、
「諸宗は本尊にまどえり」(平成御書 554㌻)
を拝し奉るべきである。