日蓮大聖人 御書根本③
◇なぜ、善人も悪人も、同時に一国総罰を受けることになるのか?
~白髪は一本二本の時は少しづつ抜けばよいが、ほとんど真白になったならば、全部まとめて髪を剃る方が手っ取り早い
今日本国の王臣並びに万民には、月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後二千二百二十余年の間いまだなき大科、人ごとにあるなり。譬へば十方世界の五逆の者を一処に集めたる
が如し。此の国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利が魂を移し、国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身なり。一切の臣民は雨行大臣・月称大臣・刹陀・耆利等の悪人をあつめて日本国の民となせり。古は二人三人逆罪不孝の者ありしかばこそ其の人の在所は大地も破れて入りぬれ。
今は此の国に充満せる故に日本国の大地一時にわれ、無間に堕ち入らざらん外は一人二人の住所の堕つべきやうなし。
例せば老人の一二の白毛をば抜けども、老耄の時は皆白毛なれば何を分けて抜き捨つべき。只一度に剃り捨つる如くなり。〔法蓮抄 御書823㌻〕
◇ 真の親孝行は法華経によってこそ叶う
「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は、自身の得道猶かなひがたし。何に況んや父母をや。但文のみあって義なし。今、法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏も顕はれ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕はるれ。此の経は内典の孝経なり。〔開目抄 御書563㌻〕
◇ 真の親孝行は法華経によってこそ叶う②
孝経と申すに二あり。一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典今の法華経是なり。内外異なれども其の意は是同じ。釈尊塵点劫の間修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ、孝養の事なり。然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おへざりしかば仏にならせ給はず。今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。〔法蓮抄 御書815㌻〕
◇法華経寿量品『自我偈』は菩薩の眼目
法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申すべからず。次下に分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して仏になりたる人々の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候へ。其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。涅槃経四十巻の中に集まりて候ひし五十二類にも、自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給ひしか。されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等雲の如くに集まりて候ひし大集・大品の諸聖も、大日経・金剛頂経等の千二百余尊も、過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人々、信力よはくして三五の塵点を経しかども、今度釈迦仏に値ひ奉りて法華経の功徳すゝむ故に、霊山をまたずして爾前の経々を縁として得道なると見えたり。されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給ふ。世界の人の父母の如し。今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり。我が得道なりし経を持つ人を捨て給ふ仏あ
るべしや。若し此を捨て給はゞ仏還って我が身を捨て給ふなるべし。(法蓮抄 御書818㌻)
◇一水四見
今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見るなり。たとへば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各別なり。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず、肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。(法蓮抄 御書819㌻)
◇烏竜と遺竜父子の逸話 真の先祖供養 (法蓮抄 御書816㌻)
烏竜と申せし能書は手跡の上手なりしかば人之を用ふ。然れども仏経に於てはいかなる依怙ありしかども書かず。最後臨終の時、子息の遺竜を召して云はく、汝我が家に生まれて芸能をつぐ、我が孝養には仏経を書くべからず。殊に法華経を書く事なかれ。我が本師の老子は天尊なり、天に二日なし。
而るに彼の経に唯我一人と説く、きくわい第一なり。若し遺言を違へて書く程ならば、忽ちに悪霊となりて命を断つべしと云って、舌八つにさけて頭七分に破れ、五根より血を吐いて死し畢んぬ。されども其の子善悪を弁へざれば、我が父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず、遺言にまかせて仏経を書く事なし。況んや口に誦する事あらんをや。
かく過ぎ行く程に、時の王を司馬氏と号し奉る。御仏事のありしに、書写の経あるべしとて、漢土第一の能書を尋ねらるゝに遺竜に定まりぬ。召して仰せ付けらるゝに再三辞退申せしかば、力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず、尚遺竜を召して仰せに云はく、汝親の遺言とて朕が経を書かざる事其の謂れ無しと雖も且く之を免ず、但題目計りは書くべしと三度勅定あり。遺竜猶辞退申す。大王竜顔心よからずして云はく、天地尚王の進退なり。然らば汝が親は即ち我が家人にあらずや。私をもて公事を軽んずる事あるべからず。題目計りは書くべし。若し然らずんば仏事の庭なりといへども速やかに汝が頭を刎ぬべしとありければ、題目計り書きけり。所謂妙法蓮華経巻第一乃至巻第八等云云。
其の暮に私宅に帰りて歎いて云はく、我親の遺言を背き、王勅術なき故に仏経を書きて不孝の者となりぬ。天神も地祇も定んで瞋り、不孝の者とおぼすらんとて寝る。夜の夢の中に大光明出現せり。朝日の照らすかと思へば天人一人庭上に立ち給へり。又無量の眷属あり。此の天人の頂上の虚空に仏、六十四仏まします。遺竜合掌して問うて云はく、如何なる天人ぞや。答へて云はく、我は是汝が父の烏竜なり、仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ、五根より血を出だし、頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ。彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに、無間の苦は尚百千億倍なり。人間にして鈍刀をもて爪をはなち、鋸をもて頸をきられ、炭火の上を歩ばせ、棘にこめられなんどせし人の苦を、此の苦にたとへばかずならず。如何にしてか我が子に告げんと思ひしかどもかなはず。臨終の時、汝
を誡めて仏経を書くことなかれと遺言せし事のくやしさ申すばかりなし。後悔先にたゝず、我が身を恨み舌をせめしかどもかひなかりしに、昨日の朝より法華経の始めの妙の一字、無間地獄のかなへの上に飛び来たって変じて金色の釈迦仏となる。此の仏三十二相を具し面貌満月の如し。
大音声を出だして説いて云はく「仮令法界に遍く善断の諸の衆生も一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん」云云。此の文字の中より大雨降りて無間地獄の炎をけす。閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ、獄卒は杖をすてゝ立てり。一切の罪人はいかなる事ぞとあはてたり。又法の一字来たれり、前の如し。又蓮、又華、又経此くの如し。六十四字来たって六十四仏となりぬ。無間地獄に仏六十四体ましませば、日月の六十四、天に出でたるがごとし。天より甘露をくだして罪人に与ふ。抑此等の大善は何なる事ぞと罪人等仏に問ひ奉りしかば、六十四の仏の答へに云はく、我等が金色の身は栴檀宝山よりも出現せず。是は無間地獄にある烏竜が子の遺竜が書ける法華経八巻の題目の八八・六十四の文字なり。彼の遺竜が手は烏竜が生める処の身分なり。書ける文字は烏竜が書にてあるなりと説き給ひしかば、無間地獄の罪人等は我等も娑婆にありし時は、子もあり婦もあり眷属もありき。いかにとぶらはぬやらん。又訪へども善根の用の弱くして来たらぬやらんと歎けども歎けども甲斐なし。或は一日二日・一年二年・半劫一劫になりぬるに、かゝる善知識にあひ奉って助けられぬるとて、我等も眷属となりて利天にのぼるか。先づ汝をおがまんとて来たるなりとかたりしかば、夢の中にうれしさ身にあまりぬ。別れて後又いつの世にか見んと思ひし親のすがたをも見奉り、仏をも拝し奉りぬ。六十四仏の物語に云はく、我等は別の主なし、汝は我等が檀那なり、今日よりは汝を親と守護すべし、汝をこたる事なかれ。一期の後は必ず来たって都率の内院へ導くべしと御約束ありしかば、遺竜ことに畏みて誓って云はく、今日以後外典の文字を書くべからず等云云。彼の世親菩薩が小乗経を誦せじと誓ひ、日蓮が弥陀念仏を申さじと願ぜしがごとし。
さて夢さめて此の由を王に申す。大王の勅宣に云はく、此の仏事已に成じぬ。此の由を願文に書き奉れとありしかば勅宣の如し。さてこそ漢土・日本国は法華経にはならせ給ひけれ。此の状は漢土の法華伝記に候。是は書写の功徳なり。五種法師の中には書写は最下の功徳なり。何に況んや読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり。今の施主十三年の間、毎朝読誦せらるゝ自我偈の功徳は唯仏与仏乃能究尽なるべし。
◇名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだし
「仏性の種ある者は仏になるべしと爾前に説けども、未だ焦種の者作仏すべしとは説かず。かゝる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをやをし、忿(いか)りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。鳴呼(ああ)、恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし」
(持妙法華問答抄 御書295㌻)
◇四十余年 未顕真実
「無量義経に云はく「種々に法を説き、種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年未だ真実を顕はさず」云云。此の文を聞いて大荘厳等の八万人の菩薩一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」と領解し給へり。此の文の心は、華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付いて、いかに念仏を申し、禅宗を持って仏道を願ひ、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、無上菩提を成ずる事を得じと云へり。
(持妙法華問答抄 御書293㌻)
◇法華経を持つ者は、他の信仰を一緒に行なってはならない
方便品には「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説き給ふべし」ととき、又「唯一乗の法のみ有り二無く亦三無し」と説きて此の経ばかりまことなりと云ひ、又二の巻には「唯我一人のみ能く救護を為す」と教へ、「但楽って大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けざれ」と説き給へり。文の心は、たゞわれ一人してよくすくひまもる事をなす、法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。
又云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。此の文の心は、若し人此の経を信ぜずして此の経にそむかば、則ち一切世間の仏のたねをたつものなり。その人は命をわらば無間地獄に入るべしと説き給へり。
此等の文をうけて天台は「将に魔の仏と作るに非ずやの詞、正しく此の文によれり」と判じ給へり。唯人師の釈計りを憑みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。言語道断の次第なり。(持妙法華問答抄 御書293㌻)
◇強盛の大信力をいだせ
「法華経の信心をとをし給へ、火をきるにやすみぬれば火を得ず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(御書 599㌻)
◇法華経のみが順逆二縁、一切衆生救済の教え
法華経も又一切衆生を仏になす用おはします。六道四生の衆生に男女あり。此の男女は皆我等が先生の父母なり。一人ももれば仏になるべからず。故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給ふ。孝養の心あまねからざる故なり。仏は法華経をさとらせ給ひて、六道四生の父母孝養の功徳を身に備へ給へり。此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給ふ。例せば悲母の食ふ物の乳となりて赤子を養ふが如し。「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」等云云。教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給ふ。赤子の水火をわきまへず毒薬を知らざれども、乳を含めば身命をつぐが如し。
阿含経を習ふ事は舎利弗等の如くならざれども、華厳経をさとる事解脱月等の如くならざれども、乃至一代聖教を胸に浮かべたる事文殊の如くならざれども、一字一句をも之を聞きし人仏にならざるはなし。彼の五千の上慢は聞きてさとらず、不信の人なり。然れども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき。「若信若不信則生不動国」と涅槃経に説かるゝは此の人の事なり。法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり。
(法蓮抄 御書815㌻)
◇魔競はずば正法と知るべからず
此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず
(兄弟抄 御書986㌻)
◇如説修行の人は稀なり
理即・名字の人は円人なれども、言のみありて真なる事かた(難)し。(中略)法華経は紙付(かみつき)に音(こえ)をあげてよ(読)めども、彼の経文のごとくふ(振)れま(舞)う事かた(難)く候か。(転重軽受法門 御書481㌻)
◇人のために火をともせば我が前あきらかなる
人に物をほどこせば我が身のたすけとなる。譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし。 (食物三徳御書 御書1321㌻)
◇法華経の明鏡①
経釈の明鏡を出だして謗法の醜面をうかべ、其の失(※謗法の人の罪)をみせしめん
(開目抄 御書556)
◇法華経の明鏡②
譬へば他人の六根を見ると雖も、未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず、明鏡に向かふの時始めて自具の六根を見るが如し。設ひ諸経の中に所々に六道並びに四聖を載すと雖も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり (観心本尊抄 御書646)
◇法華経の明鏡③
日蓮は法華経の明鏡をもて自身に引き向かへたるに都てくもりなし
(呵責謗法滅罪抄 御書712)
◇法華経の明鏡④
今日蓮日本国に生まれて一切経並びに法華経の明鏡をもて、日本国の一切衆生の面に引き向けたるに寸分もたがわぬ上、仏の記し給ひし天変あり地夭あり。定んで此の国亡国となるべしとかねてしりしかば、これを国主に申すならば国土安穏なるべくは、たづねあきらむべし。 (高橋入道殿御返事 御書888)
◇法華経の明鏡⑤
我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。
(神国王御書 御書1301)
◇法華経の明鏡⑥
一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし。 (神国王御書 御書1302)
◇法華経の明鏡⑦
故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候 (千日尼御返事 御書1475)
◇法華経の明鏡⑧
今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は明鏡に万像を浮かぶるが如く知見するなり。此の明鏡とは法華経なり (御講聞書 御書1776)
◇出家への誡め①
今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり。(佐渡御書 御書581)
◇出家への誡め②
受けがたき人身を得て、適出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして、徒に遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし(松野殿御返事 御書1051)
◇出家の功徳① 親孝行
父母の家を出でて出家の身となるは必ず父母をすくはんがためなり(開目抄 御書530)
◇出家の功徳② 親孝行 袈裟をかける姿に天魔も恐れをなす
父母の家を出でて僧となる事は、必ず父母を助くる道にて候なり。出家功徳経に云はく「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも、一日の出家の功徳は勝れたり」と。されば其の身は無智無行にもあれ、かみをそり、袈裟をかくる形には天魔も恐れをなすと見えたり。大集経に云はく「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養すべし。則ち仏を供養するに為りぬ」(出家功徳御書 御書1371)
◇他経と法華経を一緒に信心すれば、かえって法華経の心を殺すことになる
「慈恩大師は深密経・唯識論を師として法華経をよみ、嘉祥大師は般若経・中論を師として法華経をよむ。杜順・法蔵等は華厳経・十住毘婆沙論を師として法華経をよみ、善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ。此等の人々は各法華経をよめりと思へども、未だ一句一偈もよめる人にはあらず。詮を論ずれば、伝教大師ことはりて云はく「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ」
(諸宗問答抄 御書967)
◇塔が完成したら、足場は捨てるのが道理 正直捨方便とはこのこと
「たとへば大塔をくみ候には先づ材木より外に足代と申して多くの小木を集め、一丈二丈計りゆひあげ候なり。かくゆひあげて、材木を以て大塔をくみあげ候ひつれば、返って足代を切り捨て大塔は候なり。足代と申すは一切経なり、大塔と申すは法華経なり。
仏一切経を説き給ひし事は法華経を説かせ給はんための足代なり。正直捨方便と申して、法華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏、大日経等の真言宗、阿含経等の律宗の二百五十戒等を切りすて抛ちてのち法華経をば持ち候なり。大塔をくまんがためには足代大切なれども、大塔をくみあげぬれば足代を切り落とすなり。正直捨方便と申す文の心是なり。足代より塔は出来して候へども、塔を捨てゝ足代ををがむ人なし。今の世の道心者等、一向に南無阿弥陀仏と唱へて一生をすごし、南無妙法蓮華経と一返も唱へぬ人々は大塔をすてゝ足代ををがむ」 上野殿母尼御前御返事(御書1508)
◇ 早晩あれども、一生の中に必ず成仏する
法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬へば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む。法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す。玄の一に云はく「上中下根皆記を与ふ」云云。観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり。 一念三千法門 (御書110)