日蓮大聖人 “御書根本”②
いつも御書を拝し、日蓮大聖人の御心に触れよう!
◇日蓮正宗の正法を信ずる人を誹謗するは大罪となる
「若(も)し復、是の経典を受持する者を見て、其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人現世に白癩の病を得ん」(新編御書570ページ)
【解説】
法華経には次のように書かれています。「もし、法華経をよく受持し信仰する人を見て、その人の悪い所をことさら吹聴するような行為をしたとします。たとえその批判の内容が的を得たものであったとしても、事実ではなかったとしても、法華経を信仰する人の過悪を言いふらす人は、かならず現世において大変な重病に苦しむことになるでしょう。
◇信心強盛によって過去の罪障が一時に出る
「日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり。譬へば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等にはおほせたれども、いたくせめず、年々にのべゆく。其の所を出づる時に競ひ起こるが如し。『斯れ護法の功徳力に由るが故なり』等は是なり。法華経には『諸の無智の人有って悪口罵詈等し刀杖瓦石を加ふ』」(新編御書582ページ)
【解説】
今、日蓮が強盛に謗法を折伏しているために、一斉に過去世の罪障が出てきていることにより、今、法難にあっていると言えるのです。たとえば、領地内に住んでいる人民が、地頭より借金をしている場合、その領地内で働いている間は、地頭は少しづつ分割して借金を返していくことを認めてくれるでしょう。しかし、その人民が他の領地へ移動しようとする場合、未払い金を全て返済するよう求めるのと同じ事です。「法華経を信心しているために受ける法難はすべて、正法を護る力によるのである」と経文には説かれ、あるいは法華経には「正しい信心を知らない無智の人々が、法華経を信ずる人を迫害するだろう」と預言されているとおりです。(今、信心しながらも諸難に遭うということは、あなたが正法を正しく実践している何よりの証拠といえるのです)
◇末法の戒律は、正法受持にかぎる
「設ひ世間の諸戒、之を破る者なりとも、堅く大小・権実等の経を弁へば、世間の破戒は仏法の持戒なり」(新編御書886)
《参照》涅槃経 大正蔵12-641 「戒に於て緩なるを名づけて緩と為さず。乗に於て緩なる者を乃ち名づけて緩と為す」
【解説】
仏法では様々な戒律が説かれていますが、末法は、そうした細々した戒律に緩い者に対して「緩」という批判をしません(細かい戒律を守れないからといって、それで成仏ができなくなるというものではないのです)。むしろ、仏法の乗の区別、すなわち末法という時代に適した仏法を無視して、「どのお経を信じても構わない」という間違った認識を持つ人こそ、「緩」という批判に当てはまる人といえるのです。(末法は、戒律を重視するのではなく、独一本門の南無妙法蓮華経の受持を重視するからです)
◇信心が弱い人は、強い先業を罪障消滅しきれない場合、堕獄もあり得る
「若し法華誹謗の失を改めて信伏随従する共、浅く有っては無間に堕つべきなり。先の謗法強きが故に依るなり。百劫無間地獄に堕ちて後に出づる期有って、又日蓮に値ふべきなり。復遇日蓮なるべし」(新編御書1779ページ)
【解説】
たとえ今、正しい信心をしていても、その信心が浅く、いい加減な(勤行唱題をしない・登山しない・寺院参詣もしない)ままでは、生まれ変わって地獄に堕ちることがあります。なぜならば、前世から背負ってきた罪障が重すぎて、現世での弱く不確かな信心では、その罪障を消滅しきれないからです。そういう人は死後に、百劫という長い期間、地獄の苦しみを味わうことになりますが、その罪が滅して地獄を脱した時、ふたたび私・日蓮に出会って折伏を受け、南無妙法蓮華経の信心をすることができ、それによって成仏していくことになるのです。
◇謗法罪障の消滅は、折伏の実践以外に方法はない
「世親菩薩は本、小乗の論師なり。五竺の大乗を止めんが為に五百部の小乗論を造る。後に無著菩薩に値ひ奉りて忽ち邪見を翻し、一時に此の罪を滅せんが為に著に向かって舌を切らんと欲す。著止めて云はく『汝、其の舌を以て大乗を賛歎せよ』と。親、忽ちに五百部の大乗論を造って小乗を破失す。又、一の願を制立せり。我一生の間、小乗を舌の上に置かじと。然して後、罪滅して弥勒の天に生ず」(新編御書912ページ)
【解説】
昔、世親菩薩という小乗経を弘める菩薩がいました。この人は大乗経が弘まるのを邪魔するために、多くの小乗経についての本を書いていました。しかし、のちに無著菩薩より折伏を受け、世親菩薩は小乗経を捨てて大乗経に帰依しましたが、自分が過去に大乗経を誹謗した罪を消滅するために、「大乗経の悪口を言ってしまった舌を切り落としたい」と無著菩薩に願い出たのです。すると無著菩薩は「かつて大乗経の悪口を言った、その舌を切り落とすのではなく、その同じ舌で今度は大乗経を賛嘆し、人々に大乗経を弘めていきなさい。それこそ本当の罪障消滅になる」と教えたのです。世親菩薩はただちに大乗経を称える多くの書物を書き上げ、小乗経を破折しました。さらに「これからの人生、けっして小乗経について説くことをしない」と願いを立て、それを貫いたために、死後に天上世界に生まれ変わることができたということです。(たとえ、過去に正法に対する誹謗を行なってしまったという人も、これからは身をもって折伏に精進していくことにより、過去の罪障を必ず消滅して成仏していくことができるというものです)
◇日蓮大聖人は主師親三徳兼備の仏
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」(新編御書830ページ)
【解説】
仏様には三つの徳があるとされます。第一に人々をはぐくみ育てる親としての徳、第二に衆生の生活を護り、人と人との調和を図る主君としての徳、そして衆生を成仏へと導く師匠の徳です。世間には、どれか一つを備える人がいますが、すべてを円満に備える人は、仏様しかおりません。日蓮大聖人は、謙遜する立場から、みずから率先して「我こそは本仏なり」ということは仰せになりませんが、この御書では「日蓮は、日本国の人々に対して、親主師三徳をすべて備えている」ということ、つまり御自身こそが「末法有縁の仏」であることを明確に示されたご金言の一つであるといえます。
◇一人信心はいけません。お寺の同志とともに信心しよう!
「夫(それ)木をうへ候には、大風ふき候へどもつよきすけをかひぬればたうれず。本より生ひて候木なれども、根の弱きはたうれぬ。甲斐無き者なれども、たすくる者強ければたうれず。すこし健の者も独りなれば悪しきみちにはたうれぬ。…されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなにかせん。ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり」(新編御書873ページ)
【解説】
苗木を植えるとき、しっかりした支えがあれば大風が吹いても、簡単に倒れることはありません。逆に、もとから、そこに生えているような立派な木であっても、根が弱っていたり、周りの支えがなければ、悪天候によって簡単に倒れることがあります。これと同様に、いまだ信心が浅く、しっかりしていないような人でも、周りで信心を励ます人がいれば、その人の信心は倒れることなく、一生成仏を目指していくことができるのです。逆に、自分では「しっかりした信心をしている」つもりであっても、お寺から遠ざかり、信心の同志とも交わることなく、“ひとり信心”をする人は、ちょっとした事で悪縁に引っ張られたり、仏様への疑惑の心が生じて勤行・唱題ができなくなってしまうことがあるのです。…ですから、私たちが、正しい信心を貫いて成仏していくためには、善知識といって、正しい御本尊と、正法を教えてくれる正師(僧侶)、そして正しい信心を一緒に行なっていく法華講員という同志が大切な存在となります。もしも我々に、「これは熱い」「これは冷たい」という程度の分別があるならば、かならず善知識に親近していきなさい。ただし、その正しい善知識に合うことが、とても難しいことなのです。(南無妙法蓮華経の題目を唱えていても、創価学会や身延日蓮宗、立正校成会などの人々と心を合わせていっても、それらの人々は「大御本尊から離れた間違った信仰」の人々ですから、けっして「善知識」とは言えないからです)
◇「どうして、あんなに悪いことをしておいて、あの人には罰が当たらないの?」との疑問~現世で、大き過ぎる罪を作った人は、むしろ今世では現罰は顕われない
「上品の一闡提人なりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし。例せば、夏の傑、殷の紂の世には天変なし。重科有って必ず世よろぶべきゆへか」(新編御書51ページ)
【解説】
今世で、あまりに大きな謗法を犯したような人は、今生の寿命を終えるとただちに無間地獄の境界に堕ちることが決まっているのです。ですから、今世では、なかなか顕罰が顕われないのです。昔の中国にあった悪王も、その治世の間にはさほど災害などが起こらなかったようなものです。(たとえば、死刑が確定している罪人がいて、その罪が確定した後に、さらに他の殺人などを罪が判明したからといって、二度も三度も死刑が重ねて行なわれるということはあり得ません。同じように、今世で取り返しの付かない大謗法~たとえば、何百万人もの正法信徒を大御本尊から引き離し、謗法を犯さるという仏法史上最大の罪を犯した大悪人には、すでに死後、堕地獄の厳しい定めが決定していることから、現世では、今のところ厳罰が顕われないのと同様です)
◇素直に信心の話を聞けない人を「怨嫉の人」といいます
「障り未だ除かざる者を怨と為し、聞くことを喜ばざる者を嫉と名づく」(新編御書539ページ)
【解説】
たとえ今、謗法を捨てて大御本尊に帰依をし、南無妙法蓮華経の信心をしている人でも、過去世から背負ってきた罪障を消滅する程の強盛な信心(折伏実践)ができきれず、なおかつ、とかく信心の話しが素直に聞けないような人を、「怨嫉(おんしつ)の人」と言います。そういう人は、そうした態度を改めない限り、せっかく勤行・唱題をしていても、成仏していくことは難しいと言えるのです。
◇境界のちがい(生命状態の違い)によって、“見える姿”が違ってきます
「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る。人は水と見る。天人は甘露と見る。水は一なれども果報に従って別々なり。此の経の文字は盲目の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る。二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり」(新編御書794ページ)
【解説】
法華経の文字は、その一つひとつが悟りを開かれた仏様であり功徳そのものなのです。しかし、我々のような凡夫は肉眼だけで物を見ようとしますから、単なる文字にしか見えません。たとえばガンジス河の水を、餓鬼の境界に苦しむ衆生は、我が身が焼き尽くされる炎と錯覚して、恐れおののきます。普通の人間は「水そのもの」と見ます。天上世界のような恵まれた環境にある人は、河の水を「一切の生命を養う甘露」と見ぬいていくのです。このように同じ水を見るにしても、信心の功徳(果報)の境界の違いによって、まったく異なった姿に見えるのです。
法華経の文字は、目の不自由な方は、そのまま文字として見ることはできませんが、健常者であるなば「文字」として見ることができます。二乗といって仏法に精通した聖人たちは、「空(くう)という真理を説く言葉」と見るでしょう。菩薩の境界にいる人は法華経の文字はそのまま、人々を救う無量の法門と見ます。そして仏の境界にある人は、一つひとつの文字が、衆生を導く仏の慈悲の生命が、如実に顕われたものと見るのです。
◇御本尊の功徳と、我々の信心があってこそ成仏は叶う
「譬へば、鳥の卵の内より卵をつつく時、母又同じくつつきあくるに同じ所をつつきあくるが如し。是即ち念慮の感応する故なり。今法華経の成仏も是くの如くなり」(新編御書1822ページ)
【解説】
たとえば、雛(ひな)がふ化するとき、卵の殻の内側から雛がつつき、同じところを母親がつつくことで、雛が無事に生まれてくることができます。これと同じように、仏様に具わる衆生を正しく導く力(仏力・法力)と、我々が御本尊を信じて折伏を実践する力(信力・行力)とがそろうことで、初めて御本尊の功徳も目に見える形で顕われ、成仏も叶うのです。
◇慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり
「仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり。能く糾治せん者は、是護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり。能く呵責する者は、是我が弟子、駈遣せざらん者は仏法の中の怨なり」(新編御書577 章安大師の『涅槃経の疏』の引用)
【解説】
仏法の筋道を乱す者は仏法の中の怨(かたき)となります。たとえば、謗法の人を見て、「本当は、謗法をやめさせて御本尊様の信心を教えてあげなければ、あの人の不幸は治らない」と分かっているのに、その人を救いたいという慈悲心が無く、ただ表面上だけは仲良く過ごしていくのは、相手の人の苦しみを放置するだけの怨(あだ)となるのです。
一方、相手の人の仏法上の過ち(謗法)を指摘してあげられる人は、真実の妙法の仏弟子といえましょう。相手の人の謗法を指摘して、その悪を取り除いてあげるのは、まさにその人にとって親が子供の苦悩を取り除いてあげるような振る舞いを実践することになります。このように、仏法上の過ち(謗法)を指摘し、なんとかして取り除いてあげようと努力する人は真の仏弟子といえますが、謗法を黙認(もくにん)し、表面上だけ他宗の人々と仲良く過ごしすような人は、残念ながら南無妙法蓮華経の正法に対する怨敵(おんてき)となってしまうのです。
◇転重軽受の法門
「『衣服不足にして飲食麁疎(そそ)なり。財を求むるに利あらず。貧賤の家及び邪見の家に生まれ、或は王難及び余の種々の人間の苦報に遭ふ。現世に軽く受くるは斯の護法の功徳力に由る故なり』等云々。文の心は、我等過去に正法を行じける者にあだをなしてありけるが、今かへりて信受すれば過去に人に障へつる罪によて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば、未来の大苦をまねきこして少苦に値ふなり」(新編御書980ページ)
【解説】
般泥オン経というお経に「生まれる前の過去世に悪業を積んだ人は、生まれ変わると衣服が不足して食べるものが手に入らないような境界、財産を作ろうと懸命に働いても、まったく生活が楽にならないような苦労をすることになります。あるいは、想像を絶するような貧しい家庭や邪見の家で辛く悲しい目にあったり、狂った政治家が執政する悪国に生まれて迫害に遭うなどの苦しみを味わうことになるのです。これは因果応報であり、けっして誰かが悪いのではなく、すべて自身が持って生まれた果報と言えます。そこで、過去世から背負ってきた悪業の果報を、現世で軽く受けていくのは、正しい仏法を護る功徳によるのです」と書いてあります。
この経文の意味は、我々は過去世に正法を行ずる人を迫害した結果、末法の世に生まれて苦労せねばならない訳ですが、今、そうした逆縁によって妙法を信ずることができたとも言えるのです。ですから今は、信心する功徳によって、本来は生まれ変わって、来世まで持って行かなければならないような深い罪障を消滅するため、今世で、折伏を行なうが故に様々な障魔の働きを受けて苦労を重ね、過去の罪障の果報を、今の信心によってすべて出し切って軽い形で受け、死後に地獄の苦しみに堕ちることを無くす事ができるのです。(持って生まれた深い罪障を消滅していくために、今の信心によって罪障があぶりだされ、その結果、現在の少悩があるのであり、それを信心で乗り越えていくことが肝要です)
◇折伏は仏の使いの振る舞い
「仏教を弘むるは仏の御使ひなり。随って仏の弟子の譲りを得る事格別なり…いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩、世に出現し給はず。此の人末法に出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中、国ごと人ごとに弘むべし」(新編御書966ページ)
【解説】
仏教を弘めるために折伏を行ずる人は仏の使いです。仏の弟子として、そうした使命を与えられるというのは、実は格別のことであり、我々は選ばれた仏弟子であるといえましょう。…過去には様々な仏弟子たちが、仏の委託によって、それぞれの時代に適応した仏法を弘めてきました。それらに対して、法華経本門の肝心である南無妙法蓮華経の仏法を譲られた上行菩薩だけが、末法に入るまで、一度も世に出現してはいませんでした。
上行菩薩は、末法にだけ出現して、すべての仏法の一番大切な部分・南無妙法蓮華経の五字七字の御本尊を世界中に弘められる、その時がいよいよやってきたのです。
◇末法の衆生の重病には、最高の良薬を
「仏の滅後、正像法二千年の間は煩悩の病軽かりければ、一代第一の良薬の妙法蓮華経をば勧めざりけるか。今末法に入りぬ。人毎に重病有り。阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し…一切、時による事なり。されば正像二千年の間は題目の流布の時に当たらざるか」(新編御書966ページ)
【解説】
釈尊が入滅して、正法時代・像法時代の二千年間の衆生の心の病気は軽いものだったので、最高の薬である南無妙法蓮華経はまだ、誰も勧めなかったのです。しかし今はいよいよ末法時代に入りました。人ごとに皆、心の重病を抱えています。こうした時代には、阿弥陀如来や大日如来、さらにはお釈迦様の教えさえ、末法の衆生の心の病気を治すことはできません。…仏法の利益を考えるとき、時というものを考えるのはとても重要なことです。このことからも、正法・像法二千年間には南無妙法蓮華経の題目が流布しなかったことも合点がいくというものなのです。
◇唯授一人の血脈相承・口伝の大事
「此の経は相伝にあらざれば知り難し」(新編御書92)
【解説】
この法華経の信心は、唯授一人の血脈相承や、師匠から弟子に対する相伝を基として学んでいかなければ、その真髄を知ることは難しいものです。(御書さえあれば、日蓮大聖人の教えのすべてが理解できる訳ではありません。根本とすべき御書を、どのように解釈することが正しいのかは、相伝がなければ知ることはできないのです)
◇唯授一人の大事
「秘すべし、秘すべし、唯授一人の相承なり。口外すべからず」(新編御書1796)
【解説】
秘すべき大事な法門であり、これは唯授一人の相承によるものです。あえて安易に、部外者に語ってはなりません。
◇御書以外にも、大聖人の仏法の深義には口伝がある
「問うて曰く、要法の経文如何。答へて曰く、口伝を以て之を伝へん」(新編御書785)
【解説】
質問します。法華経の要法の経文とは、どの部分をさすのでしょうか。答えましょう。それは本当に大事な法門であり、容易に指摘することはできませんから、直接、口伝によって、徐々に正しい教えを伝授することにします。
◇佐前・佐後の法門の相違
「又法門の事は、さどの国へながされ候ひし已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」
【解説】
日蓮大聖人の教えは、初期であっても晩年のものであっても、ともに末法の正法を顕わされたものといえます。しかし、そうした中でも、大聖人が佐渡に流される以前に説かれた法門には、多少の方便が含まれている場合があります。それはあたかも、釈尊が、真実の法華経に導くために、爾前経において様々な方便を設けたようなものなのです。
日蓮大聖人は、佐渡流罪により、法華経に予証された末法の法華経の行者の要諦である「数数見擯出」の経文を身をもって読み尽くされることになりました。その結果、上行菩薩の再誕生・日蓮とのご自覚から、ご自身こそが末法の大導師であり、その内証は久遠元初の本仏であるとの悟りに到達されたのです。そうした立場の変化から、それ以前の法門と以後の法門には差異が存することを、この御文において明示されたものと言えます。
◇仏教流布以後に生まれた外道(創価学会・立正佼成会・天理教・幸福の科学などの新興宗教)は、みな法盗人
「外典外道等は仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は仏教を聞き見て自宗の非を知り、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっとも深し。付仏教、学仏法成等これなり」(開目抄 新編御書527)
【解説】
外典外道(神道やキリスト教などの仏教以外の教え)の中でも、仏教が説かれる前からあるものは、偏った見方は浅いものがあります。しかし仏教が説かれた後に作り上げられた外道の教えは、仏教に説かれる深い教義を見聞きすることで、自分たちの教えが浅はかであることを知っているのです。そのため、なんとかして自分たちの教えを深いものにしようという狡猾(こうかつ)な心が起こり、自宗の非を隠そうとして、仏教の教えを巧みに盗み取って自分たちの教えにまぜてしまっていおるのですから、さらに邪見の度合いが深くなっているのです。こうした悪法を、「付仏法外道」、あるいは「学仏法成外道」などといって、もっとも恐れなければならない宗教と言えるのです。
◇生きた成仏とは“六根清浄”の功徳を得ること
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳(さいわい)有るなり。功も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり。又六根清浄なり」(御義口伝 新編御書1775)
【解説】
功徳とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の果報のことをいいます(仕事が成功したり、病気が治ったりするのは、枝葉末節の功徳であって、本当の成仏の功徳とは六根清浄をいうのです)。所詮、日蓮や弟子、信徒が南無妙法蓮華経と唱えれば、皆六根清浄となるのです。ですから、妙法蓮華経という法が師匠となって大きな功徳があるということです(偏った人本尊を示す仏像では、功徳はありません)。悪を滅するを功といい、善を生ずることを徳というのです。真実の功徳とは即身成仏のことであり、生きている時に目に見える形で成仏するということは、即ち六根清浄の功徳を身に具えるということなのです。
◇口は災いのもと
「月は山よりいでて山をてらす。わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは、心よりいでて我をかざる」(十字御書 新編御書1551)
【解説】
月は山の麓から昇って山を照らします。災いは口から出て我が身を破ることになるのです。また、幸福というものは、遠くからやってくるのではなく、我々自身の心から生まれ出て、我が身を飾っていくということです。
◇現証こそ大事
「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事 新編御書874)
【解説】
私・日蓮が仏法の勝劣浅深をいろいろと調べてみる(どの教えが真実・最高のものかを知る)方法は、道理(筋道)がきちんと通っているか、証文が(思いつきではなく、証拠としての経文も)そろっているかという二点に勝るものはありません。さらにいえば、道理が通っており証拠としての経文がそろっている以上に、その信心を実践してみて、確かな功徳が顕現するという現証がある、ということに勝るものはないのです。(道理・証文・現証の三つがすべて整っているのは、妙法の信心以外にはありません)
◇広宣流布の大願を成就すべきなり
「法華経の行者は信心に退転なく身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(最蓮房御返事 新編御書642)
【解説】
法華経の行者は信心に退転することなく、身に偽り親しむことなく、一切を法華経に任せて、仏の言葉(経文)どおりに修行すれば、慥かに死後は成仏できるだけではなく、今生においても息災延命の功徳を得、計り知れない大果報をいただき、広宣流布の大いなる願いも成就していくことができるのです。(だから、困難につきあたっても御本尊にすべて任せて、ひたすらに自行化他の信心に励んでいくことが大切です)
◇真の親孝行は法華経でなければならない
「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶(たす)けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前の大小乗の経宗は、自身の得道猶(なお)かなひがたし。何に況んや父母をや。但文のみあって義なし。今法華経の時こそ、女人成仏の時悲母の成仏も顕はれ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕はるれ。此の経は内典の孝経なり」(開目抄 新編御書563)
【解説】
中国で発生した儒教は孝養を重んじますが、それも今世に限る親孝行であって、死後の父母の成仏までは助けることがありません。ですから儒教で聖人とか賢人とか云われる人々も、それは名のみであって実がないのです(親を救うことができないのですから…)。
これに対して仏教は、父母の死後の成仏を助けることが説かれていますから、名実共に仏教で親を供養する人は、聖人・賢人としての面目が立つというものです。しかしながら、その仏教の中においても、法華経より以前に説かれた大乗経、小乗経では、自分自身が悟りを開くこと自体が困難なのですから、なお一層、父母を成仏させていくことは極めて難しい(不可能)といえます。ただそれらの大乗経や小乗経には、「父母の成仏」という言葉だけは説かれていますが、実をともなわないということです。
爾前経の方便が打ち破られて法華経が説かれ、ようやく女性の成仏が示されましたが、それによって初めて母の成仏も確実となりました。また釈尊の命を狙って画策をし、生きながら地獄に堕ちたとされた提婆達多という悪人でさえ、法華経では成仏が示されたのですから、当然の如く父の成仏も法華経でのみ可能となります。ですから、この法華経こそが最高の親孝行のお経といえるのです。
◇魔競はずば正法と知るべからず
此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず
(兄弟抄 御書986)
◇色心二法にわたる法華経実践
法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ (土篭御書 御書483)
◇法華経以外の経を受けることは、「仏を殺す罪」となる
法華経の一の巻方便品に云はく「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」文。此の文の意は前四十二年の経々、汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよとなり。此の文明白なる上、重ねていましめて第二の巻譬喩品に云はく「但楽(ねが)って大乗経典を受持し、乃至余経の一偈をも受けざれ」文。此の文の意は年紀かれこれ煩(わずら)はし、所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり。(中略)此の経は一字も諸仏の本懐、一点も多生の助けなり。一言一語も虚妄(こもう)あるべからず。此の経の禁(いまし)めを用ひざる者は諸仏の舌をきり、賢聖をあざむく人に非ずや。其の罪実に怖るべし。されば二の巻に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば、則ち一切世間の仏種を断ず」文。此の文の意は、若人此の経の一偈一句をも背かん人は、過去・現在・未来三世十方の仏を殺さん罪と定む。(聖愚問答抄 御書388)
◇信心強盛だった人は、亡くなった後、かならず家族を見守ってくれている
聖霊は此の功徳あり。大月輪の中か、大日輪の中か、天鏡をもって妻子の身を浮かべて、十二時に御らんあるらん。設ひ妻子は凡夫なれば此をみずきかず(中略)御疑ひあるべからず。定んで御まぼりとならせ給ふらん。(妙一尼御前御返事 御書832)
◇三災の元凶は、謗法と、人々に巣くう三毒にあり
仏法う(失)せしかば王法すでにつ(尽)き畢んぬ。あま(剰)さへ禅宗と申す大邪法、念仏宗と申す小邪法、真言と申す大悪法、此の悪宗はな(鼻)をならべて一国にさかんなり。天照太神はたましいをうしなって、うぢこ(氏子)をま(守)ぼらず、八幡大菩薩は威力よはくして国を守護せず、けっく(結句)は他国の物とならむとす。
日蓮此のよし(由)を見るゆへに「仏法中怨、倶堕地獄」等のせめ(責)をおそれて、粗国主にしめせども、かれらが邪義にたぼらかされて信じ給ふ事なし。還って大怨敵となり給ひぬ。法華経をうしなふ人国中に充満せりと申せども、人しる事なければ、たゞぐち(愚癡)のとが(失)ばかりにて有りしが、今は又法華経の行者出来せり。日本国の人々癡かの上にいかり(瞋)ををこす。邪法をあい(愛)し、正法をにくむ、三毒がうじゃう(強盛)なり。日本国いかでか安穏なるべき。
壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり。又減劫の時は小の三災をこる。ゆはゆる(所謂)飢渇・疫病・合戦なり。飢渇は大貪よりをこり、やくびゃう(疫病)はぐち(愚癡)よりをこり、合戦は瞋恚よりをこる。今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を境としてを(起)これる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にの(罵)り、せ(責)め、流し、うし(失)なうなり。是即ち小の三災の序(ついで)なり。
(曾谷殿御返事 御書1385)
◇従藍而青
法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげ(励)むをまこと(真)の道心者とは申すなり。天台云はく「従藍而青」(じゅうらんにしょう)云云。此の釈の心はあい(藍)は葉のときよりも、なをそ(染)むればいよいよあを(青)し。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし。〔上野後家尼御前御返事 御書337㌻〕