日蓮大聖人 “御書根本”①
いつでも御書を拝し、日蓮大聖人の御心に触れよう!
◇題目こそ成仏の根源
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(新編御書1219ページ)
【解説】
インドの釈尊が入滅してから二千年が経過し、釈尊の仏法が衆生救済の力を失うとされる末法にいたっては、法華経以外の経典はもちろん、釈尊究極の教えである法華経(文上の法華経)さえも、すでに衆生を救済する法力は失われているのです。ですから、末法である現在は、法華経の文底に秘して沈められた南無妙法蓮華経の信心をしてこそ、誰でも成仏することができるのです。こうしたことが分からずに、身延派日蓮宗や立正校成会、創価学会のように、闇雲に題目を唱えていても、それは成仏のために功徳を積むことにはなりません。
◇冬はかならず春となる
「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を」(新編御書832ページ)
【解説】
法華経を信ずる人は冬のようなものです。冬は厳しいものですが、その厳しい冬も必ず喜びの春と変遷していきます。昔から、聞いたことも見たこともありません、冬が春にならずに秋に戻ったということを。同様に、いまだ聞いたことがありません、法華経を信ずる人が成仏できずに迷いの凡夫のまま終わってしまったということを。
◇法華経の兵法を用いるべし
「なにの兵法(ひょうほう)よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし。『諸余怨敵皆悉催滅』の金言むなしかるべからず。兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病(おくびょう)にては叶ふべからず候」(新編御書1407ページ)
【解説】
どんな兵法よりも法華経の兵法を用いて、世事にあたっていくべきです。法華経薬王品の「諸余の怨敵は皆悉く催滅する」との言葉は虚しいものではありません。兵法剣形の大事も、その大本をたどれば南無妙法蓮華経の教えから出たものと言えるのであり、どんな仕事に従事していくにしても、まず御本尊への信心を、より深くしていくことが先決です。あえて臆病な信心であっては、諸願を叶えていくことはできません。
◇『日蓮一期弘法付属書』 (新編御書1675ページ 御書全集1600ページ)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨(あじゃり)日興に之を付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇(かいだん)を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事(じ)の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等、此の状を守るべきなり。
【解説】
私(日蓮大聖人)が一生かけて弘めてきた仏法はすべて、第一の弟子・白蓮阿闍梨日興に付属します。日蓮亡き後、日興を法華経本門の大仏法を弘める大導師と定める、ということです。
遠い未来、日本中の民衆が南無妙法蓮華経の仏法を信じ、ついに時の国主までが、この南無妙法蓮華経の大御本尊に深く帰依する時がやってきたならば、富士山に、法華経本門の大御本尊を安置する本門寺戒壇を設置しなさい。それまでは大御本尊は非公開とし、その時(広宣流布)に至るまでは大御本尊を守り、自行化他に邁進し続けていくべきです。それが末法に適した戒律を持つことになります。なかでも、日蓮の直弟子たる者であるならば、かならずこの書状に認めた遺言を守っていきなさい。
◇身延山付属書 (新編御書1675ページ 御書全集1600ページ)
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨(あじゃり)日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩(やから)は非法の衆たるべきなり」
【解説】
釈尊が五十年間に説いた、あらゆる経典の根源である南無妙法蓮華経の教えは、白蓮阿闍梨日興にすべて相承します。日蓮亡き後は、日興が身延山久遠寺の別当(住職)に就任するということです。この譲り状に異論を唱えたり、それに従わない者は、在家信徒であっても出家の弟子であっても、ともに日蓮の仏法に背くことになることを心得るべきです。
◇百六箇抄 (新編御書1702ページ 御書全集869ページ)
就中(なかんずく)六人の遺弟(ゆいてい)を定むる表事は、先々に沙汰するが如し云々。但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付属は唯(ただ)一人なり。白蓮阿闍梨(あじゃり)日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義(しょうぎ)悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付属せしめ畢(おわ)んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで予(よ)が存日の如く、日興が嫡々(ちゃくちゃく)付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。
【解説】
日蓮がかねて六人の高弟を「六老僧」として定めた意味については、いろいろな機会に話をすることになりましょう。ただし直授結要付属といって、仏法の一番大事な教え・法体は、一人の弟子を選んで授けるのが仏法の慣わしです。ですから、日蓮の仏法の唯一の後継者は白蓮阿闍梨日興とし、日蓮が説示した仏法のすべてを髪の毛一本たりとも残すことなく、ことごとく日興に付属しおわりました。
私・日蓮の高弟から低い位の弟子にいたるまで、日興こそが日蓮の教えの唯一の後継者であることに異論を唱えてはならないし、また遠い未来にわたるまで、私・日蓮に対するものとまったく同じ信仰態度をもって、日興や、それに続いていく歴代の法主上人を総貫首として仰ぎ、その教えに従っていきなさい。
◇大聖人以外の指導者を持つ者は道を誤る
「日蓮復(また)之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但日蓮一人なり。譬えば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。若し此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰(じばつ)之を蒙(こうむ)らん。但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」
【解説】
真に日本国の総罰の根源を知り、また世の中を安泰へと導く方法を知るのは、私日蓮を置いて他にはいない。(ただし法華経迹門の意義を弘めた伝教大師は、像法時代の法華経の行者であったのでこれを除く)。譬えば太陽や月が二つ無いようなもので、あるいは聖人と呼ばれる立派な人には肩を並べる者がいないようなものである。もしこのことが妄語であるならば、法華経守護の十羅刹等から私は治罰を受けることになろう。これは国・法・人々の為に申すのであって、我が身を尊重して欲しいからこのように(自画自賛して)言うのではない。
◇御供養は大事な仏道修行~仏の命をつなぎ、正法を興隆させる源となる
「法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況んや、十度・二十度、乃至五年・十年・一期生の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給ひて候。(中略)かやうに此の山まで度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし。懈(おこた)ることなかれ」(平成新編御書1456㌻)
【解説】
法華経の真意を知る僧侶に、不思議にも篤い志をもって一度でも御供養なされば、ぜったいに地獄・餓鬼・畜生などの悪道に堕ちることはないでしょう。まして、十回、二十回、あるいは五年、十年の間、さらには一生に渡って御供養する功徳は、仏の智慧であっても知ることができないほど大きいものがあるのです。
南無妙法蓮華経を修行する行者に、一度でも御供養する功徳は、インドの釈尊に対して、目の前で多額の御供養をし、それを八十億劫という考えられない程の長期間にわたり、無量の金銀財宝で供養するよりも、末法の法華経の行者に御供養する功徳の方が、百千万億倍、すぐれていると仏自身が説かれているほどです。
このようにあなたは、山奥に暮らす私(日蓮大聖人)のもとに、度々御供養をお送りいただいていることは、まさに私だけ御供養するのではなく、法華経や法華経を説いた仏に対する恩をも報ずることになるのです。ですから信心と、そして御供養の修行は、いよいよ励んでいっていただきたい。怠ってはなりません。
◇何として都の月を詠め候べき
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず供養をもなさず、自慢(じまん)して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬(たと)へば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心を知れる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞(ちょうもん)して信心の歩みを運ぶべし」(新編御書1457ページ)
【解説】
どんな人も南無妙法蓮華経の信心をはじめた頃は、一生懸命に信心するように見えるものですが、時が経つと信心が次第に弱まり、僧侶を尊敬しなくなったり、御本尊に対する御供養もお供えしなくなることがあります。そういう人ほど、自分の信心が弱まっているにもかかわらず、かえって「自分の信心、自分の考えが一番正しいんだ」と慢心や悪見を持つようになるのであり、こうした愚かな姿は、本当に恐れなければなりません。
たとえば、鎌倉から京都へ徒歩で旅をするには約12日かかります。それを11日目まで一生懸命に歩き続けたのに、最後の1日を残して歩くことをやめてしまえば、どうして京都に到着して都の美しい月を眺めることができましょうか。
南無妙法蓮華経の信心によって成仏を目指す人は、どんなことがあっても、法華経の信心をよく知っている僧侶から仏法の道理を教えていただきながら、素直に信心の歩みを進めていくことこそ大切なのです。
◇信仰の寸心を改めて実乗の一善に帰せよ
「広く衆経(しゅきょう)を披(ひら)きたるに、専ら謗法を重んず。悲しいかな皆正法の門 を出でて、深く邪法の獄(ごく)に入る。愚かなるかな各(おのおの)悪教の綱(つな)に懸りて 鎮(とこしなえ)に謗教の網(あみ)に纏(まつ)はる。此の朦霧(もうむ)の迷ひ彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。豈(あに)愁(うれ) へざらんや、豈(あに)苦しまざらんや。
汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然(しか)れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ 衰(おとろ)へんや。十方は悉(ことごと)く宝土なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無 く土に破壊(はえ)無くんば、身は是安全にして心は是禅定(ぜんじょう)ならん。此の詞(ことば) 此の言(こと)、信ずべく崇(あが)むべし」(新編御書250ページ)
【解説】
たくさんの仏教の経典を開き、深く考えてみると、現在、世の人々はみな謗法を重んじています。悲しいことに皆、妙法の正しい教えの門から外へ出て、謗法という綱にかかり、誹謗の網にまつわりついて身動きが取れなくなっているのです。仏法に対する大きな迷いを生じているために誤った仏法を信じ、その真心とは裏腹に、かえって地獄の底に沈む結果になっているのです。どうして悲しまない者がありましょうか。どうして苦しまない人がいましょうか。
あなたにとって大切なことは、信心のあり方を正して、ただちに法華経の南無妙法蓮華経の正しい仏法を信ずることです。そうすれば、あなたを取り巻く環境はみな仏国土と変わっていくでしょう。仏が住む国土は衰えることもなく、度重なる災害などで混乱が続くこともありません。国も衰退せず、災害によって国土が乱されることもなければ、あなたの身は安全となり、心安らかな日々を過ごしていくことができるでしょう。この言葉は絶対に正しいことであり、信じていきなさい、崇めていきなさい。
◇藍は葉の時よりも、染めれば一層青くなる
「これを聞かせ給ひて後は、いよいよ信心を致させ給へ。法華経の法門を聞くにつけて、なをなを信心を励むを、まことの道心者とは申すなり。天台云はく『従藍(じゅうらん)而青(にしょう)』云々。此の釈の心は、藍(あい)は葉の時よりも、なを染むればいよいよ青し。法華経は藍の如し。修行の深きは、いよいよ青きが如し」(新編御書337ページ)
【解説】
この南無妙法蓮華経の教えを聞いたならば、いよいよ強盛に信心をしていきなさい。法華経の法門を聞くにつけて、一層信心に励むようになるのを、真実の法華経の信奉者というのです。中国の天台大師は「従藍而青」という言葉を残しています。この説明の意味は、植物の藍は、葉っぱの時よりも染料として染め物に使用すると、元の葉っぱの色よりも、青の色が濃くなっていきます。まさに法華経への信心は藍のようなものであり、日々に信心を深め修行を実践していくのは、いよいよ青みが増して、深く美しい色に染まっていくようなものです。
◇有解無信と有信無解
「有解(うげ)無信(むしん)とて、法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信(うしん)無解(むげ)とて解(げ)は無くとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり私の言にはあらず。されば二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて智慧第一の舎利弗だにも智慧にては仏にならず。況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくば仏にならんことおぼつかなし。(新編御書1461ページ)
【解説】
「有解無信といって、仏法の難しい教義を理解したとしても、素直な信仰心を持てない人は成仏できません。逆に有信無解といって、たとえ難しい法門が理解できなくても深く御本尊様を信ずることができる人は、成仏できるのです。これは私が勝手に言っているのではなく、法華経に説かれていることです。法華経の第二の巻には、「信心によって仏の智慧に入ることができるのであって、自分の智慧によるものではない」とあります。釈尊の弟子・舎利弗尊者は智慧第一と言って大変頭が良かった人ですが、この人が成仏したのは、素直な信心によったのであって、決して智慧で成仏した訳ではないのです。まして、我々のような末法の凡夫が、少しくらい仏法の教義を知ったとしても、御本尊への信心が無かったら、成仏はおぼつかないのです。
◇仏・法・僧の三宝を敬う
「末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなずり、法をいるがせにして悪道に堕つべしと説き給へり。法を心得たるしるしには、僧を敬ひ法を崇め仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし。争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てて、何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(新編御書1461ページ)
【解説】
末法の衆生は、わずかな教義を学んだことをいいことに、僧侶を軽蔑したり、仏法の道理を自分勝手に解釈してしまって、みんな、地獄に堕ちてしまうんだと仏は説いています。ですからまず、私たちが、南無妙法蓮華経の仏法を信じているというなら、その証として、正法を説く僧侶を敬い妙法蓮華経の御本尊様を崇め、仏に供養を捧げるべきです。今は我々の眼前には仏はおられませんから、人々に妙法の教えを説く知識(僧)を「仏」であると敬って御供養すべきです。その御供養の修行に、どうして功徳が具わらないことがありましょうか。かならず、御供養した人に、成仏の功徳が積み重なっていくのです。自分の未来や後世に、成仏していくことを心から願っている人は、今世での地位や名声、損得勘定ばかりを考えるのではなく、法華経・南無妙法蓮華経の仏法を説く僧が、いかにみすぼらしい姿をされていたとしても、その僧に対しては、生きた仏に対するような畏敬の念を持って接していきなさい。
◇雪山の寒苦鳥
雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)は寒苦に責められて、夜明けなば栖(す)つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生むなしく鳴くことを得。一切衆生も亦復是(か)くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。無益の事には財宝を尽くすに惜しからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是を物憂(ものう)く思ふ事、これただごとにはあらず、地獄の使ひの競ふものなり。寸善(すんぜん)尺魔(しゃくま)と申すは是なり。(新編御書1457ページ)
【解説】
雪山に住む寒苦鳥は、真夜中の極寒の厳しさに、「朝になったら、かならず寒さをしのぐことのできる暖かい巣をつくろう」と決意しますが、朝になって暖かな太陽に照らされると、夜中の苦悩を忘れ去り、寝入ったり遊びほうけて、むなしい時間を費やしてしまうといいます。そしてまた真夜中になると寒さと飢えで苦しむのです。我々凡夫も同様で、地獄に堕ち血を吐くような苦しみにむせいでいる時には、「この地獄から抜け出して人間に生まれ変わることができたならば、諸事をさしおいて、仏と法と僧の三宝に御供養を捧げ、ぜったいに成仏していきたい」と願うものですが、たまたま人間に生まれ出ることができると、そういった過去世の苦しみのことはすべて忘れてしまうのです。そして、今の生活や地位、損得勘定ばかりに目を奪われ、仏道修行しようという心が消え失せてしまいます。そして、無意味なこと、無駄なことにはお金を浪費するのに、仏や御本尊、僧という三宝には、わずかな御供養をするのも「もったいない」と思って御供養しないことは、これはただごとではないのです。まさに、その人の心の中に地獄の使いが競っている証拠であり、この地獄の使いのことを「寸善尺魔」というのです。
◇今生人界の思い出
「過去遠々の苦しみは、徒にのみこそ受けこしか。などか暫く不変 常住の妙因を植へざらん。未来永々の楽しみは、かつがつ心を養ふとも、強ゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」とは如来の教へ、「所以に諸法は幻の如く化の如し」とは菩薩の詞なり。寂光の都ならずば、何くも皆、苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくば「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我 も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」
(新編御書300ページ)
【解説】
遠い過去世から、ずっと罪障によって苦しんできた、その経験は無駄になってしまうのでしょうか。どうして今、最高の仏種であり成仏の妙因である南無妙法蓮華経の信心に精を出さないというのでしょうか。未来にわたる楽しみは心の中でいろいろとあるでしょうが、今は地位や名声にとらわれてはなりません。「迷いの衆生が暮らす三界は、火に包まれた家のようなものである」と教えるのは仏であり、「ゆえに仏道を忘れて他にうつつを抜かすのは、まさに幻に生きるような愚かな行為である」とは菩薩の忠告の言葉です。
私たちが住むこの世が寂光土でないならば、どこへ行っても、苦しみだけしか存在しません。妙法蓮華経の御本尊を信じて成仏していくという最高の功徳から離れて、果たしてこの世に、どんな楽しみがあるというのでしょうか。ただ私が願っていることは、「現世は安穏に過ごすことができ、来世はかならず成仏する」と説かれる南無妙法蓮華経の信心を持っていくこと。それこそが今生での最高の名誉となり、寿命が尽きた後に成仏していく糧となっていくものなのです。ですから今は心を一つにして南無妙法蓮華経と自分が真剣に唱え、他人にも信心を勧めていく(折伏していく)ことこそが、今世で人間に生まれてきた最高の思い出となることを信じて、ひたすら自行化他の信心に励んでいきなさい。
◇折伏実践にこそ成仏の功徳あり
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(新編御書1818ページ)
【解説】
末法に生まれてきた私たちは、南無妙法蓮華経の仏法を折伏してこそ、功徳・利益を得ることができるのです。ですから、妙法の題目を唱えながら、他の信仰も一緒に行なっていくことは大きな間違いとなります。この南無妙法蓮華経の御本尊様を常に身に持ち、どこにいても心の中で御本尊を念じ、唱題していくべき時、それが末法時代の唯一の正しい信仰といえるのです。
◇病によって道心はおこり候
「病あれば死ぬべしといふ事不定なり。又このやまひは仏の御はからいか。そのゆへは、浄名経・涅槃経には、病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。又一切の病の中には五逆罪と一闡提と謗法をこそ、おもき病とは仏はいたませ給へ。今の日本国の人は一人もなく極大重病あり、所謂大謗法の重病なり」(新編御書900)
【解説】
病気になったからといって、早死にするかといえば、そうとは限りません。また今、あなたを悩ましている病気は、むしろ仏様の計らいによるものではないでしょうか?。なぜなら、浄名経や涅槃経には「病気になった人こそ、病気を克服したいとの一心で、より強固な信心ができ、その結果成仏できる」とさえ説かれているのです。つまり、これまで仏道修行に見向きもしなかった人も、いざ病気になると、助かりたい一心で御本尊様に手を合わせるようになるものです。こうしたことから、むしろ病気は仏の計らいではないか、というのです。
また病気といってもいろいろあります。なかでも、もっとも恐ろしい病気は心の病であり、そのなかでも最も重い病は「五逆罪」と「一闡提と謗法」という病気といえます。今、日本中の人は一人も漏れなく恐ろしい心の病気にかかっているといえましょう。つまり真実の仏法・南無妙法蓮華経を信ずることができない「謗法」という重大病です。
◇念仏は方便(足場のような)の教え
「譬へば塔をくむに足代をゆふが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ふて候は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。然るに法華経を説き給ふて後、念仏に執着するは、塔をくみ立てて後、足代に著して塔を用ひざる人の如し」(平成新編御書39ページ)
【解説】
例えば、五重の宝塔などを建てるとき、足場を組みます。ここでいう足場とは念仏の教えであり、宝塔とは法華経のことを指します。
念仏の教えは法華経が説かれるまでの方便(手段)に過ぎません。法華経という宝塔が完成すれば、念仏という“足場”は取り外さなければなりません。にもかかわらず、法華経が説かれた後にも、いまだに念仏の教えにこだわっているのは、まるで宝塔が完成したのに、いつまでも足場を大切にして、本来の目的であった宝塔を用いない愚かな振る舞いと同じです。目的の宝塔が完成したら足場は無用です。末法の今、念仏の教えをいまだに信じている人は、足場を大切にする人といえましょう。
◇異体同心
「あつわらの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし(中略)一人の心なれども二つの心あれば、其の心たがいて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(新編御書1389ページ)
【解説】
富士・熱原方面の法華講衆が表わす信心の志は、異体同心であれば万事を成就し、同体異心であれば何事も叶えていくことはできないでしょう。(中略)一人の心であっても二つの心があれば、どちらも成就することはできません。百人千人の人が、ある一つの目標に向かって強く団結していれば、たとえそれが途方もないような大目標であっても、必ず成就していくことがができるのです。私日蓮の一門は、異体同心に信心をしているので、人数が少なくても大事を成就し、必ず南無妙法蓮華経の仏法が弘まっていくことは間違いありません。
◇罪障消滅の信心
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき。来たらぬ福(さいわい)や有るべき」(新編御書406ページ)
【解説】
ただ素直に、正直に、他心なく南無妙法蓮華経と唱え貫いていくなら、消滅しない罪障はなく、招来しない幸せはありません(かならず幸せになれます)。
◇祈りは叶う
「あひかまへて御信心を出だし、此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(新編御書685ページ)
【解説】
「この御本尊以外、正しい仏法はない」と心を固め、決意をもって御本尊様にご祈念していきなさい。何事か成就しないわけがありましょうか。いや祈りのすべては叶っていくのです。
◇僧俗和合の信心
「譬へば、よき火打ちとよき石のかど(角)と、よきほくち(火口)と此の三つ寄り合ひて火を用ふるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の災難をも払ふべき者なり」(新編御書1314ページ)
【解説】
例えば、良い火打ち石と石の角、良い火口の三つがそろって、はじめて火を起こすことができます。私たちの祈りも同様で、正しい仏法の師と心清らかな信徒、そして正しい御本尊様と、この三つが寄り合ってこそ祈りも成就し、国土の災難も払い除いていくことができるのです。
◇強い祈りと信心
「いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくち(火口)に火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給ふべし」(新編御書1407ページ)
【解説】
私日蓮が、どんなにあなたのことを真剣に祈ったとしても、肝心なあなたが御本尊を信じていないならば、濡れた火口に火をつけようとするもので、あなたの願いを叶えていくことはできません。あなたは、自分の信心を常に励まし、いよいよ強盛に御本尊を信ずる力を出していきなさい。
◇因果応報
「高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易(きょうい)せられん。形状端厳(たんごん)をそしれば醜陋(しゅうる)の報いを得。人の衣服飲食を奪へば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤(ひんせん)の家に生ず。正法の家をそしれば邪見(じゃけん)の家に生ず。善戒を笑へば、国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定まれる法なり」(新編御書582ページ)
【解説】
高い山に登った者は、必ず下山せねばならないように、たとえば他人を軽蔑すれば、今度は自分が他人から軽んじられ果報を受けるのです。容姿の端正な人を誹れば、その報いとして自分が醜い姿に生まれ変わっていきます。他人の衣服や食べ物を奪えば、必ず餓鬼になって、自分が将来、衣服や食べ物で大変な苦労をすることになるのです。仏法の戒律を一生懸命に持つ尊貴な人を嘲笑すれば、せせら笑った本人が今度は貧賤の家に生まれ変わります。正法の家を誹れば邪見の家に生まれ変わります。十善戒を持つ人をバカにすれば、国土の民となって王難に値うことになるのです。これらは常の因果の定まれる法であり、誰人もその法理から逃れることはできません。
◇御本尊の守護
「このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををや(親)のあい(愛)するがごとく、いを(魚)の水をたのむがごとく、草木のあめ(雨)をねがうがごとく、とり(鳥)の木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげ(影)のごとくまぼらせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし」(新編御書903ページ)
【解説】
この妙法の御本尊様を命がけで持てば、王様を武士がまもるように、子を親が愛するように、魚が水を恃(たの)みとするように、草木が編めを願うように、鳥が木を恃みとするように、一切の仏や諸天善神等が集まって、あなたのことを護ってくださるようになるのです。この御本尊様は昼夜を分かたず、影が身に添うように、あなたを護ってくださるのですから、しっかりと信じていきなさい。
◇上七代・下七代の業
「悪の中の大悪は我が身に其の苦をう(受)くるのみならず、子と孫と末七代までもかかり候ひけるなり。善の中の大善も又々かくのごとし。目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず。父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ」(新編御書1377ページ)
【解説】
悪いことを行なえば、その報いとして自分が苦しみの果報を受けることになります。さらに大悪を行なうと、子や孫など未来の七代目の子孫にまでその苦しみは受け継がれていくものなのです。逆に、善の中の大善も同様です。かつて釈尊の弟子であった目連が行なった大善~法華経を信ずる大善によって、目連自身が成仏しただけでなく、その功徳によって目連の父母までも成仏することができたのです。このように法華経の信心は、自分だけでなく、上七代下七代、上無量生下無量生までの親族までも、すべて成仏させていく力強い功徳が厳然とそなわっているのです。
◇神天上法門
「適(たまたま)仏法を知る智者は、国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ、利生を止(や)め、此の国をすて他方に去り給ひ、悪鬼は便(たよ)りを得て国中に入り替はり、大地を動かし悪風を興(おこ)し、一天を悩まし五穀を損ず。故に飢渇(けかち)出来し、人の五根には鬼神入りて精気を奪ふ。是を疫病と名づく。一切の諸人、善心無く多分は悪道に堕すること、ひとへに悪知識の教を信ずる故なり」(新編御書224ページ)
【解説】
たまたま法華経の深義を知る智者がいたとしても、多くの人はその言葉に耳を傾けようとはしません。また、正直の法である法華経を信ずる人を守護する諸天善神は、妙法蓮華経の題目を唱える人が少ないことから妙法の法味を嘗めることができず、諸天としての力を失ってしまっているのです。そこで威光を失った諸天善神はこの世界を捨てて他方へ去ってしまいました。
その代わりに、神社等には悪鬼魔神が入り込み、正法を信じない謗法の人々とつながって、国中に悪鬼の力が充満しています。このようにして悪鬼が増えることから大地は際限なく振動して地震を起こして大災害が発生し、暴風が吹き荒れては一天を悩まし、穀物を実らせないようにするのです。その結果に大変な飢饉も起こりました。人間社会の五根(精神や身体の活動)にも鬼神が入り込んで精気を奪い、人々はみな精神的にも肉体的にも病気になります。そうなると、さらに人々は善心を失って、大部分の人は来世では地獄・餓鬼・畜生の三悪道に生まれ変わっていくのです。こうした不幸の一番の原因は、法華経を捨てて謗法の悪知識の信仰を信ずることにあります。
◇相手が信じても、信じなくても折伏する大切さ
「謗法の者に向かっては、一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し(中略)信謗(しんぼう)共に下種と為(な)ればなり」(新編御書270ページ)
【解説】
謗法の人に対しては、法華経を信心するよう勧めるべきなのです。それは、たとえすぐに信心できなくても、その人にとって毒鼓の縁を結ぶことになるからです。たとえば不軽菩薩の布教の姿と同じです。(中略)すぐに信ずることができても、また信心できずに、かえって悪口を言う結果となってしまっても、折伏することによって成仏の種が、相手の命の奥底に聞法下種されることになるのです。
◇行学の二道
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(新編御書668ページ)
【解説】
自分が勤行・唱題する自行と教義を学ぶ教学は、どちらも真剣に励んでいきなさい。自行と教学が絶えれば仏法はなくなってしまうからです。自分も率先して実践し、他人をもよく励まして行なわせていきなさい。自行と教学は信心から起こるものです。一人ひとりの力に応じて、たった一言であっても折伏していきなさい。
◇更賜寿命
「病なき人も無常まぬかれがたし。但しとし(年)のはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病にては候はじ。設ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。(中略)御信心は月のまさるがごとく、しを(潮)のみ(満)つるがごとし。いかでか病も失せ、寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし、身を持ち、心に物をなげかざれ」(新編御書955ページ)
【解説】
病気ではない人でも、無常の道理からは逃れることはできません。ただしあなたは、年老いている訳でもなく、法華経を一心に信じているのですから、寿命が尽きない間に非業の死を迎えるようなことは絶対にありません。まさか、あなたを悩ませている病気は業病でもあるまいし、たとえ業病だったとしても、御本尊様の御力は頼もしいのですから、かならず信心で寿命を延ばすことができるはずです(中略)あなたの御信心は月や潮が満ちていくように強盛ですから、どうして今の病気が治らないことなどありましょうか。寿命が延びないことなどありましょうか。そのように、強い心をもって病気と向かい合い、身体を大切にし、心の中であれこれ悩んだり嘆いたりしないこと。それが病気を克服する、何よりの方法です。
◇自分が成仏してこそ、真に先祖供養も叶う
「自身仏にならずしては、父母をだにも救いがたし。いわうや他人をや」(盂蘭盆御書 御書1376㌻)