「わが家の宗旨は禅宗」という方へ
みなさんの家では、先祖代々「禅宗」寺院を菩提寺(ぼだいじ)と定めて来ました。このことは現在、意識する、しないにかかわらず、みなさんの家族全員が「禅宗の信者」であることを意味します。それではここで、その「禅宗」について少し考えてみましょう。
《禅宗とは?》
禅宗は、中国の達磨(だるま)という僧侶を始祖とする宗派です、教義では「教外別伝(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもんじ)」を標榜(ひょうぼう)し、インドの釈尊が説いた経論には依(よ)らず(経文は必要ないとする)、一人ひとりが座禅(ざぜん)によって、自身の心中に仏の悟りを得ることを教えます。
日本に禅の思想が伝来したのは奈良時代の道昭(どうしょう)という僧侶の手によるものでした。当初は他の経典を実践修行するなかで、付随の修行(おまけ的なもの)として伝えられましたが、鎌倉時代にいたると、禅思想は臨済(りんざい)宗・曹洞(そうとう)宗などの独立した宗派として日本の社会に浸透していきました。
禅宗では仏の悟りを「月」に、経典を「月を差す指」に譬(たと)え、仏の悟り(月)を得た後には、経典(月を差す指)は必要のないものと説明します。ですから、禅の教えでは、本尊や経典は使用しない(お経を唱えない)のが本来の姿のはずです。ところが実際には、本尊としては釈尊とか大日如来、薬師如来、観世音菩薩等の像を祀(まつ)り、また経典については『金剛般若経』『観音経』などを読誦するなど、各派によってバラバラな本尊や経典が用いられています。
座禅の修法は、臨済宗は壁を背にして座りますが、曹洞宗では中国以来の面壁を守って壁に対面して行ないます。
《教外別伝・不立文字の教え》
禅宗で主張する「教外別伝・不立文字」との教えの根拠は、『大梵天王問仏決疑経』の「実相無相、微妙の法門有り。文字を立てず、教外に別伝し(中略)摩訶迦葉に付属するのみ」という文です。これによって禅宗では「仏の真意は文字を立てず、心から心へと伝えられるもの」と主張します。
ちょっと待ってください! 禅宗のこの主張自体がすでに経典の「文字」に頼っているではありませんか?。はたして「経文を必要としないのか、必要なのか」まったく言行が矛盾していると言えます。さらにこの『大梵天王問仏決疑経』自体が古来、偽経(釈尊の説ではなく、後代の何者かによって作られた経典)扱いされているもので、信用に足る証拠とは言えません。
《直指人心・見性成仏の教え~座禅の修行》
禅宗では「直指人心・見性成仏」といい、修行には経典を用いず、座禅によって見極める自己の本性こそが仏性であり仏そのものであると教えます。しかし、煩悩(ぼんのう)にまみれた私たちのような人間の心は、みな迷いが中心となっており、そうした迷いの心をいかに見つめ直したとしても、仏の心を観じ尽くすことなど到底できるものではありません。
涅槃経には「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」とあります。これは、迷いの心を自分の思考の中心に置き(師匠とし)、その心の赴くままに一切を判断したり行動などを起こしてはならないと、釈尊こそが、現在お座禅の思想を厳しく戒められているのです。
《釈尊の真意は法華経にあり》
釈尊は「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」(法華経三九九)とし、仏教経典の中で法華経こそが最高の教えであると明言されました。さらに「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示(せんじ)顕説す」(法華経513)と示し、釈尊という仏が具えるあらゆる功徳は、すべて法華経に説き尽くされていることを教えています。にもかかわらず「法華経などの経典よりも、もっと別のところに真の仏の悟りがある」などと教える禅宗の教えは、まさに釈尊の言葉を否定する誹謗正法(謗法・ほうぼう)であり、それに従う人は仏の意に背くことになり、成仏することはぜったいにできません。
《私たちが救われる唯一の教えは南無妙法蓮華経です》
釈尊の教説中、最高のものが法華経です。日蓮大聖人は、私たちのような凡人を成仏という尊い境界へと導くため法華経の命である南無妙法蓮華経のお題目を流布し、またお題目の実体として御本尊を図顕されました。私たちはこの御本尊を信じて題目を唱えることにより、真の幸福な境界を得ることができ、さらに先祖の精霊(しょうりょう)への最高の追善供養を行うことができるのです。
《あなたの家が、「禅宗」になったいきさつ》
江戸時代、徳川幕府が定めた「檀家(だんか)制度」により、日本国民は一人も漏れなく、近隣にあった寺院の檀家になることが強制されました。つまり、あなたの先祖の家の、たまたま近くにあった寺院が「曹洞宗」とか「臨済宗」だったに過ぎないのです。よって「信教の自由」が憲法で保証される現代にあっては、あなたは自由意思によって、自身の未来と先祖の菩提(ぼだい)を託せる、正しい信仰を選びなおすことができるのです。宗旨替え(改宗)することは、けっして先祖を迷わせるものではなく、むしろ亡くなった先祖の方々の精霊も、最高の信仰を選んで供養してくれるあなたに、心から感謝されることでしょう。
よきたねをあ(悪)しき田にうえぬれば、たねだにもなき上、かへりて損となる。まことの心なれども、供養せらるヽ人だにもあしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候。(大白牛車御消息 御書一五八二ページ)
【現代語訳】 質の良い種も、状態の悪い田畑に植えれば種が台無しになるばかりか、大損となります。同じように、あなたの真心が真実であっても、供養される側(寺や僧侶)が間違っていれば、あなたの真心は功徳とならないばかりか、あなたも悪道に堕ちることがあるのです。(ゆえに、正しい仏法を選んで供養せねばなりません)
信じるものが変われば 価値観が変わる
価値観が変われば 人生が変わる
さあ! あなたも私たちと最高の信仰をしてみませんか?