日本天台宗
日本天台宗では最近、千日回峰行の創始者・相応和尚の千百年遠忌を迎え、同宗のホームページでは人気歌舞伎俳優を起用して回峰行を紹介したり、PR活動に力を入れています。
こうした宣伝の甲斐があってか、一日体験回峰行には多くの参加者が集まっている様子で、その知名度は高まっているようです。
そもそも「千日回峰行」とは、七年かけて比叡山周辺の峰々を駆け巡る修行で、年間およそ三百キロから千キロ、最終的に地球一周分ほどの距離を走破するといいます。
そんな途方もない距離を走り回って何をするかと言いますと、もっぱら「礼拝」であると教えます。これは創始者の相応和尚が不軽菩薩の但行礼拝の姿に倣い、七年間、比叡山の根本中堂に花を供えて礼拝し続けたという言い伝えから、比叡山中の霊場を巡り、供花・礼拝するようになったものだそうです。
またこの修行は、開始から七百日を迎えると「堂入り」の行となり、九日間、明王堂に籠もって飲まず食わず、眠らず、横にもならないで、ひたすら不動真言を唱え続ける修行を行なうのだそうです。これは、身心を生死の限界まで追い詰めることにより、生身の不動明王となり、衆生を教化する暗いに至り、その後は、化他のために修行をし、その修行が満行を迎えることで「大満行大阿闍梨」という大それた位を得ることになります。
ちなみに、化他といっても、広く社会に出て人々に布教するわけではなく、京都市内の寺院を巡りながら、加持祈祷や読経を行なうだけのようです。
こうした修行は本当に必要なのでしょうか?
回峰行者の出で立ちは「死に装束」と言われており、途中で断念すれば自害すべきとの厳しい掟があります。過剰なまでに困難を求める回峰行は苦行でしかありません。
苦行ときいて思い浮かべるものには、真っ先に釈尊の苦行像があります。それは釈尊が悟りを開かれる前、苦行林において修行した姿を表わしたもので、その極限までやせ細った姿は、苦行の壮絶さを物語っています。
そんな釈尊苦行像と行者の姿を重ねて見る人もいるほど、回峰行は壮絶な修行だといいます。
しかし、苦行を通して釈尊が出した答えは、「身心を極度に消耗するだけで、悟りに結びつかない」ということでした。要するに釈尊は、苦行を無益なものであると断じているのです。つまり、決死の覚悟で挑もうが、披露・苦痛で身心を蝕む回峰行は、釈尊が「無用」と退けられたものと変わらず、そんなことに千日もかけるのは、時間の浪費であり、それをやりとげたからといって自己満足に終わる以外にはないということなのです。
御本尊とは何か、わからない天台宗
そもそも天台宗の修行観を見てみますと、
「座禅でも念仏でも護摩供を修することでも(中略)そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です」(天台宗ホームページ)
とあります。本尊観もそれと同じで、比叡山内でも、釈尊像、薬師如来像、大日如来像、阿弥陀如来像など、堂宇によって祀ってある本尊がバラバラで、何を根本に拝していけばよいのか、さっぱりわかりません。まさに比叡山自体が「本尊に迷う」といった、はずかしい姿を露呈しているといえます。
もちろん、根本とすべき本尊に迷うわけですから、当然、修行も大きくずれてしまうわけですが、回峰行を見ても、基本理念は法華経の但行礼拝といいつつ、唱えるお経や悟りは真言の教え、と一貫性もありません。
元来、本尊とは自身の身命を預け、その教えに基づいて修行をし、生きた成仏(幸福な境界)を確立していくためのものです。日蓮大聖人は
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(平成新編日蓮大聖人御書 1275ページ)
と仰せであり、また中国天台宗第六祖の妙楽大師も
「縦使(たとひ)、発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し(中略)若し正境に非ずんば、縦、妄偽無けれども亦種と成らず」(富士学林版 摩訶止観弘決会本上‐175ページ)
と言われています。
本尊の正邪は、そのまま私たち自身の功徳・罪障につながるものです。それがわからない時点で、日本天台宗は根本から間違っているのです。その間違った教え、修行に命がけで精進しても、まさに「命がけで罪障を積んでいる」ということになるのです。
すでに時代は末法です。像法の導師として法華経迹門を中心として、その内意には本門を正意として法華経の正義を高揚された天台大師は、その時代に即した正法を教え説き、人々を導かれました。
しかし、末法尽未来際にわたって、一切衆生を救いきっていく正しい御本尊と、正しい修行が具わり、実際に成仏の大功徳が実証されているのが日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法です。その仏法の根源である大御本尊は、すでに謗法の山と化した身延山から日興上人によって富士・大石寺に移されています。よって末法唯一の正法の根本道場は、富士大石寺以外にはありえないのです。
のぼるべきは比叡山ではありません。過去の仏道修行に命がけで取り組むのではなく、末法の正法が脈々と息づく、富士・大石寺に登山参詣してこそ、大願も成就し、一生成仏という大功徳もなしえるのです。
※上記は、大白法(981号)掲載の「諸宗教破折 本尊に迷い、修行にも迷える哀しき僧道 日本天台宗」文章に、一部加筆したものです。
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