御遺命破壊の細井管長(日達上人)?
顕正会では、かつて大石寺に「正本堂」が建立された際、総本山第66世・細井日達上人が、池田大作創価学会会長(当時)の圧力に屈して、「正本堂建立をもって、日蓮大聖人のご遺命である本門戒壇の建立が達成された」と発言し、日蓮大聖人のご遺命を破壊した、と批判しています。
しかしこれは、事実ではありません。
そもそも、御遺命破壊とは?
また、そもそも、御遺命破壊とは何を言うのでしょうか?
折伏活動により、日本国民全員が謗法を捨てて、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経に深く帰依すること。これが広宣流布の大前提です。その結果、日本国民で構成される日蓮正宗僧俗の総意として「富士山に本門事の戒壇を建立」すること、これが日蓮大聖人のご遺命です。
この御遺命を「破壊する」ということは、たとえば
○日蓮正宗が折伏を放棄し、他の宗教と融和・協調することを宣言する
○謗法破折を止める。(創価学会の会友活動や、顕正会で、新しく入会した人の自宅の謗法払いを徹底しない行為などと同等の行為)
○「御本尊はどれも同じ」「自分たちで印刷して構わない」「どこか、特定の御本尊を拝まなければならないことはない」と、大御本尊根本の信仰を放棄する行為
○大石寺に伝わる血脈付法を否定したり、「血脈は途切れた」と表明すること。なぜなら、血脈の断絶は、広宣流布の暁に、有徳王の外護を受ける覚徳比丘(御歴代上人)がいなくなることを意味し、御遺命は永遠に成就できなくなることを意味するから。
○本門事戒壇建立を中止することを宣言する
○広宣流布を達成してもいないのに、大石寺を本門寺と改称し、「広宣流布は達成された」と発表して、大御本尊を一般公開する(誰でも大御本尊が拝めるようにする)
以上のような行為が、「御遺命の破壊」と言えましょう。
こうして見ると、何ひとつ、日蓮正宗では実際に行なわれていません。よって、日達上人や日顕上人が、「御遺命を破壊した」などという事実は一切ありません。どうして、顕正会の人々は「御遺命を破壊した」として、日蓮正宗を誹謗するのか、まったくその理由がわかりません。
以下に、顕正会の批判が、まったくの的外れであることを、わかりやすくポイントとして示します。
①顕正会の浅井昭衛会長(故人)は昭和40年当時、大石寺「正本堂」建立発表に際して、「日達上人の尊い御志のもと、重大な意義のある正本堂建立を心から祝い、妙信講(顕正会)組織をあげて、総本山に赤誠の御供養をしよう」(趣旨)と発言しています。(つまり、浅井会長は、正本堂建立には〝重大な意義〟が具わっているということを認識しており、そうした重大な意義が具わる正本堂の建立に、心から賛同していた)
②昭和42年ころ、5年後の正本堂完成に向けて、「世紀の大殿堂である正本堂が建立される、その日まで、なんとか日本中を大折伏して、広宣流布を達成してしまおう」との日蓮正宗全体へ折伏を鼓舞する意味から、宗門内で「御遺命成就」のため、「正本堂建立を目指して」という言葉が使用された例が、いくつかある。
当時、宗門未曾有の広宣流布への大潮流が巻き起こり、日蓮正宗内では折伏を強力に推進していた時代であった。この勢いを失することなく、広宣流布に向けて大前進しようという風潮のなか、日達上人は未来の広宣流布実現を見据え、法華経「化城宝処の譬え」のごとく、正本堂という〝仮の法城〟に関連する種々の御指南を発せられたのである。
しかし、そうは言っても、現在の顕正会が誹謗するような
「正本堂建立をもって、御遺命の事の戒壇建立と広宣流布が達成しました」
「広宣流布達成の法主とは日目上人の再誕生である。それは私です」
などと日達上人は発言されてもいないし、周囲の誰も、そんな発言はしていません。
③昭和47年に、実際に正本堂が建立された際、池田大作氏から「正本堂が、三大秘法抄に示された広宣流布達成の証であると、内外に広く認めて欲しい」と圧迫された際にも、日達上人は頑なに拒否されています。これは、「賞正本堂建立御本尊裏書き」の「たるべき」と書かれた記述に明らかです。
④正本堂が完成したのち、「正本堂は御遺命の本門事の戒壇そのものであり、広宣流布は池田先生により成就した。よって日蓮大聖人のご遺命のとおり、大石寺は本門寺と改称し、国主である天皇陛下の使者を総本山へ招き、広宣流布達成を広く内外に宣言する」などという馬鹿げたことは、一切行なわれていない(行なわれていないのであるから、ご遺命は破壊されていない)。
⑤浅井昭衛会長(故人)は、正本堂が落成したのち、昭和48年5月11日と昭和49年4月8日の二度にわたり、「正本堂での御開扉を受けたい」と総本山に願い出ている。(顕正会発行の『冨士 昭和50年5月号』と『冨士 昭和59年8・9・10月合併号』に御開扉を願い出た史実が書かれている)
「誑惑の正本堂」、「創価学会に魂を売り渡した細井管長」「謗法まみれの総本山」「大御本尊を商売道具にする御開扉」と罵(のの)っているのに、どうして一方では、その誑惑の正本堂で「御開扉を受けさせていただきたい」と願い出のでしょうか。
こうした元会長の言行不一致の姿を、顕正会の皆さんは、どのように感ずるのだろうか。
(復習)
妙信講問題(現顕正会)に関連し、日達上人の御指南の真意を理解するキーワードは「化城宝処の譬え」です。
○正本堂建立が発表され、完成まで7年あまり。正本堂建立を、現時点における大目標に掲げ、それまでの7年間で、なんとか日本の人口の3分の2の折伏を目指して大折伏戦を展開しよう。それが一つの広宣流布への大きな道しるべとなる(正本堂建立が化城喩)。
○もし、昭和47年10月の正本堂落成までに、日本の人口の3分の2の人の折伏が成就すれば広布第一段階の達成。しかし真実の広宣流布は全国民の総意に基づくことである。よって正本堂建立という「化城」を超越し、引き続き、残り3分の1の日本人を徹底的に折伏し、真の広宣流布、御遺命達成をしていこう。これが日達上人の深い御志であったと拝する。
○実際には、正本堂の完成までに、総人口の3分の2の折伏はできなかった。よって、「この正本堂は、未来の広宣流布の暁に、本門事の戒壇たるべき殿堂」という形で、未来に御遺命の達成を託し、「化城」としての目標をゆだねられたのである。有名な「たるべき」との加筆。
○ところがその後、創価学会教義逸脱問題が発生した。これに対して、創価学会内外から激しい批判を受けるとともに、日達上人の御教導により、池田大作氏は自身の謗法を謝罪し、責任を取って創価学会の会長を辞任した。
しかし平成2年、再度、池田大作氏の謗法が露呈したため、日達上人の御遺志を受け継がれた日顕上人により、広宣流布への「化城」としての存在意義を失った正本堂は解体された。これにより、未来永劫にわたって日蓮正宗と創価学会が協調して広宣流布を推進していくことは無くなった旨を、広く世間に周知せしめられた。