師弟の継承の大事
正しい血脈相承に信遵し、初めて大聖人の正法を正しく信受できる
~どうして、身延日蓮宗は本尊に迷うのか~
日顕上人ご指南
およそ仏法の一切は師弟間の継承によって流伝し、衆生に利益を蒙(こうむ)らしめるのであり、その継承の内容の高下が後に重大な相違を分かつのであります。かの天台大師は、一代仏教の教観(きょうがん)二門を縦横に開拓してその本末を究竟(くきょう)し、一代化導の意義を余すところなく判釈(はんじゃく)する空前絶後の体系を『玄義』『文句』『止観』等に広説されたのでありますが、もし章安(しょうあん)尊者が随従してその一言一句を筆録されなかったならば、その深義は後世に全く伝わることがなかったのであります。
末法の下種仏法(日蓮大聖人による独一本門の教法…編者註)においても、その形式には相違があるにせよ、師弟継承の筋道は全く同じであり、即ち二祖日興上人がおわしまして、はじめて大聖人の法門の全体が、恙(つつが)なく、また正しく末代に流伝せられたのであります。
天台大師は釈尊仏法の全体について、その化導の真実・本懐たる法華経を中心として一代仏教教判を樹立し、宗祖大聖人は法華経の枢要(すうよう)たる要法付嘱(ふぞく)のうえから五重相対の決判により従浅至深して本門文底(もんてい)の大法(釈尊仏法を、さらに深く突き詰めた根源の仏法…編者註)を掘り出され、これを三大秘法として弘宣せられたのでありますが、その深義は共に師弟相対の瀉瓶(しゃびょう 一器の水を一器にそのまま移すように、大聖人から日興上人への伝授…編者註)により伝えられたのであります。特に下種仏法の秘奥は、本門寿量如来秘密の体(たい)として甚深至極(しごく)の義でありますから、おのずから唯我与我、師厳道尊の筋道より唯授一人の相伝をもって仏法の大事が正しく継承されたのであります。
不相伝の五老等の門流(日蓮宗や法華宗など…編者註)にあっては、その派祖から現在に至るまで、法華経の広きを貴んで要法の元意(一番大事なところ…編者註)を無視し、釈尊の高貴に執(とらわ)れて法華預証の凡夫即極下種の教主(日蓮大聖人…編者註)の本義を見失う故に、今日に至るもその施化(せけ 大聖人の教え…編者註)の中心たる本尊に迷うのであります。この本尊の違いを指摘し、正義をただ一人お示しになった方が日興上人であります。
『富士一跡門徒存知の事』に
「日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯(ただ)御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し、即ち自筆の本尊是なり。」(平成御書 1871㌻)
と仰せの如く、五人の老僧達が本尊について釈迦如来の木像等を造立して、しかも一体仏あるいは普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)を脇士(きょうじ)とする違法を指摘せられ、大聖人の法門における正義を妙法大曼荼羅本尊(南無妙法蓮華経の御本尊…編者註)として明示されております。
右の文は、単に形式としての本尊の違いを述べるのみではなく、その元には深い大聖人の仏法の秘奥の義が含まれ、その結論として本尊の正義が示されていることを知らねばなりません。即ち、右文中の「唯御書の意に任せ」の意義と『遺誡置文』二十六箇条の中の
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間(いとま)有らば台家を聞くべき事」(平成御書 1884㌻)
の文と全く符節を合わせ、日興上人の教義上、正嫡本流(日蓮大聖人の正統な後継者…編者註)の立場が明らかに拝せられるのであります。
それは実に、法華経の会座に金色三十二相巍々(ぎぎ)堂々として無量無辺の六万恒河沙(ごうがじゃ)の眷属(けんぞく)を従えて出現し、身をもって釈尊の久遠を証明せられた上行等の四大菩薩、その上首上行(編者註 上行菩薩)が末法に必ず出現し給うことが経文によって明らかであるが、その末法出現の四大菩薩とはまさに宗祖日蓮大聖人であり、したがって、またそれに続く我が身日興でなければならないとの大自覚と確信が根本におわしましたからであります。
法華経迹門の諸法実相(法華経一念三千の義の開説部分…編者註)はいかに幽玄(ゆうげん)無比、唯仏与仏の境智(きょうち)であっても、所詮、有名無実、本無今有の二失を存する無常の真如であり、その限りにおいて衆生個々が一往、円融の妙法を開く悟りに尽きるのであります。(法華経の)本門は久遠実成の開顕のために上行等の涌出の事相をもって凡夫乃至阿惟越致(あゆいおっち)の菩薩も知ることの不可能な本有常住の妙法を示され、そして未来末世の衆生の本門真実の成仏のために結要付嘱の大事があり、釈尊は上行等の大菩薩に末法の化導を委嘱(いしょく 末法の衆生救済は釈尊の手から離れたとの意…編者註)せられたのであります。
末法において、宗祖大聖人の弟子となって最も大事な信解はここのところであります。即ち付嘱を受けて必ず末法に出現するとされる地涌上行菩薩をどう拝したらよいのか、四菩薩の木像を造って拝むことではなく、これ(南無妙法蓮華経の御本尊…編者註)こそ余人(ほか)ならぬ、凡夫僧の姿の日蓮大聖人と拝し奉るところに本門の妙法、事の妙法の信解があるのであります。
「雖近而不見」(すいごんにふけん)という『自我偈』の文がありますが、これは大聖人の弟子としての因縁を持ちながら宿縁の薫発(くんぱつ)いまだ奥底に至らず、大聖人に対して「一般の高僧、徳僧と肩を並べる、たかだか法華修行に熱心な僧侶」ぐらいの認識であり、それよりも「天台の経釈の広き」をあこがれ、「釈尊の神通教化の高位」に目を奪われて、眼前の師匠の尊極無上を拝し得なかった五老僧(身延派などの開祖僧侶たち…編者註)こそ、それに当るのであります。
故にこの人々(現在の身延派などの開祖僧侶たち…編者註)の教学は、結局、末法においては一部(文上法華経の全部…編者註)とも理の一念三千となる法華経の理の中に陥(おちい)って、釈尊を本尊とするところより抜け出すことができなかったのであります。法華経の本門付嘱は事の法門であり、それは現実に末法出現の地涌千界の上首がどなた(日蓮大聖人…編者註)であるということを拝しきって、虚心坦懐(たんかい)に一切の執着を捨て、信の一字に住し、その御指南を拝するところにあります。かくしてこそ、付嘱の法体たる南無妙法蓮華経に具わる久遠の仏法の境・智・行・位(本門の四妙…編者註)を明確に拝し得るのであり、日興上人の承継と化導はまさにそこにおわしましたのであります。
(大日蓮S57.4 18㌻)