法華経『如来寿量品第十六』の現代語訳と通釈
日達上人御述(通釈法華経220ページ)
(従地涌出品第十五を受けて)
涌出品は序説でこの寿量品は正説であります。先ず涌出品においては、所化の上行が仏寿の長遠を開いたのですが、寿量品は能化の仏自仏寿の長遠を開くのであります。前は密かに仏の久遠実成を開き、今は露に仏の久遠実成を開くのであります。
弥勒菩薩が(騰疑致請)をしたので、(広開近顕遠して断疑生信する)
(寿量品 本文)
そこでお釈迦様は、沢山の菩薩方や、すべての人々に(迹門にして常に一切声聞と呼ばれたが、既に二乗は教化せられ今は但教化菩薩道であるから、乃声聞とは呼ばないのである)に向かって、
『皆さん、あなた方は、仏様の真実(仏の心も実なり、仏の事業も実なること)の語を信じ解了しなさい』
この様に二度、三度と誡められました(三誡)。このとき、菩薩方や一切の人々は、弥勒菩薩を初めとして、合掌して仏様に申し上げるには、
『仏様よ、どうかこの事をお説き下さい。私共は、仏様のお言葉を必ず信受いたします』
と、この様に三度申し上げました(三請)。さらに重ねて、
『どうかこの事をお説き下さい。私共は、仏様のお言葉を必ず信受いたします(前の三請に加えるが故に、これを本門の四請という、迹門の三請に対す)』
そこで、お釈迦様は、菩薩方が三度請いて、しかも猶止まないのを知られて、菩薩方に告げられて
『あなた方は、諦かに、仏様の未だ嘗て説かなかった即身成仏の法を聞きなさい』。
(これより正説 過去の益物を説く)
『一切の、この世の菩薩を含めて天人及び阿修羅の人々は、皆、今日のお釈迦様は、迦毘羅衛城の釈迦の王宮を出て、伽耶城のほど誓い菩提樹下の金剛の仏の悟りの座に坐して無上の正覚を得たのであると謂っておりますが、そうではありません。皆さん、私(今の釈尊)は、実に成仏してから已来無量無辺百千万億那由他劫という非常に長い年代を経ておるのであります』
『この長い年代を譬えいうならば、五百千万億那由他阿僧祇の実に計りきれない沢山の三千大世界を、ある人が、これを粉砕して微塵として、東方へ進んで、五百千万億那由他阿僧祇の沢山の国土を過ぎて、その一微塵を落し、その様に東に進み次ぎ次ぎに一微塵を落し、終にこの微塵を落し尽くしてしまって、その経過したこれらの世界の数を思惟し、計算してその数を、皆さんは、しることができますか。如何?』
弥勒菩薩初め多くの菩薩方はお釈迦様に答えて申すのに、
『ある人が、その様にして経過した世界の数は無量無辺であります。算数や心力では及ぶ所ではありません。たとい、声聞や辟支仏が清浄の智恵を以て考えても、その実数は計算することは出来ません。私共の如く、成仏の道において不退転の地位にある者ですら、このことは計算して知ることはできません。仏様、これらの世界の数はただ無量無辺であると申すほかありません』
その時、お釈迦様は、これらの大菩薩に申しますのに、
『皆さん、今まで秘して説きませんでしたが、今、明白にあなた方に説きます。ある人が東方に向かって経過した世界を、微塵が落ちた世界も、微塵が落ちなかった世界も悉く合して、それを微塵となし、その一塵を一劫として数えれば、その劫数は無量無辺であります。ところが私(釈迦仏)が成仏してから已来は、その劫数に過ぎることが百千万億那由他阿僧祇劫であります(即ち久遠を顕す)』
(注意 三千塵点劫の三千とは三千大千世界、五百塵点劫と五百とは五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界)
『久遠の昔に成道してから已来、私は常にこの娑婆世界に在って、人々に説法教化しております。また余処の百千万億那由他阿僧祇の国土において人々を引導利益しております。
久遠より、今日の法華経の説法に至るまでの中間に、私(釈尊の因位の修行を示した)は然燈仏に遇い修行して仏になったと説き、あるいは成仏して涅槃に入った事等を説いたのは、皆、仮りの手段に説いたので真実の事ではありません。実に自分は久遠の昔に成仏しておるので、中間に因位の修行を説いたのは、成仏以後に示現した垂迹の化用にすぎないのであります』
『皆さん、もし人々が、機根が熟して、私(釈尊)の所に来るならば、私は仏眼を用いて、その人々に信心や、その人々の理解力の如何を見て、済度すべき方法によって済度します。過去において所々に種々の名で出世し、十方の国土に分身として種々の名で出世し、そして世に住する寿命の長短を示しました』
『そして又、滅度を以て得度するを得べき者のためには滅度を現じました。又、小乗の釈尊として諸の小乗を説き、権大乗の釈尊として諸の権大乗教を説き、久遠の仏身を顕わして法華経寿量品を説き、能く人々をして歓喜の心(一分の無明を断ずる所に起こす歓び)を起こさしめました』(過去の益物終り)
(これより現在の益物を説く)
『皆さん、仏様は、今世の人々が七方便の小法(人、天は二十五有を貪愛し、二乗は涅槃に貪著し、三教の菩薩は漸教を楽うて仏道を迂回する)を楽い、大乗の縁薄く、煩悩の迷いが深いのを見られて、この機根不劣の人々のために、私は若くして釈氏の宮を出て、出家して十二年修行して、始めて無上正覚を得て成仏しましたと説いたのであります』。
『だがしかし、私は本来、実在せるので今始めて生ずるものでなく、実に成仏して已来、久遠の年代を経ていることは前述の譬の如くであります。それなのに何故に、現在、この世に始めて正覚を成じたことを示したのであるかというと、小法を楽う鈍根の人々を、種々の法によって教化して仏道に入らしめようとしたため、仮りの手段に、この様に示現したのであります』
『皆さん、仏様が演説する経典は、皆、人々を済度し、解脱せしめるためであります。故にある時は法身を説き、ある時は応身を説き、(己身、他身は相対して不同、もし己身を仏界に説くときは他身は九界であるが如し)あるいは、自身を示現し、あるいは他身を示現し、あるいは仏身を示し、あるいは国土を示すのであります。その説く所は、皆真実であって虚妄はありません』
『そのわけは、仏様は、欲、色、無色の三界の実相は本来、常住であると如実に知見せられるから、煩悩を起こしません(煩悩を起こすを退という)。煩悩を起こさないから生死(分段、変易の二生死)の果を受くることがありません(生死の果、現わるるを出という) 亦、生死の因におること(在世偏空)もなく、涅槃の果に帰すること(滅度但空)もありません。涅槃の実現でもなく、生死の虚事でもありません。二乗の境界である平等でもなく、凡夫の境界である差別でもありません。(以上は仏が中道の妙理に入っているから)』
『仏様は如実に三界を知見せられる故に、凡夫が三界を見る如く有、空の二辺に著することはありません。前に述べた事は、仏様は実智を以て明らかに知見せられるのでありますから、少しも錯誤がありません。仏様は、人々の性質が種々であるをわきまえ、又、その楽う所の欲望が種々であるのにしたがい、その過去世の宿業が種々であるのに応じ、その智恵の浅深を分別せられて、それ等の人々に、善根を生ぜしめようと考えられて、それ相当の因縁談や譬喩談を用いて、種々(八万四千)の説法をして、仏道に悟入せしめたるために、仏事をなされていて、久遠の昔より、今日の法華経の説法まで暫くも休みません。この様にして、私は成仏してから已来、甚大にして久遠であります。寿命は無量で阿僧祇劫の長時であって今に常住して滅しません』
『皆さん、私は久遠の昔に、まず菩薩道を行じて成ずる所の寿命は今猶尽きずして常住不滅であること前の五百塵点劫の数に倍しております(本因を説く)。況んや、成仏しての寿命は甚大なことを知ることができるでしょう。私(仏)は常住不変でありますが、然し人々を教化のために滅度すると称するのであります。かくの如く仏様は久遠劫已来、生滅を示し、久遠の本法の妙法蓮華経を以て人々を教化して来たのであります』
『この如く仏様が、仮の滅度を現じて人々を教化せられる所以は、もし仏様が久しく世に住せられるならば、本未有善の人々は妙法蓮華経を唱えようとはしません。妙法蓮華経を唱えないから、貧窮下賤の身となり、凡夫の欲望にのみ耽り正法を邪法と想い、妄語の教や、邪見の教に捕えられ、謗法不信の網の中に入ってしまいます。もし又仏様が、常住して不滅であると見ると、本未有善の凡夫は、自らを驕り、怠惰の心を起こして、仏様には仲々遭い難いということも考えず、又敬い奉る心も起こしません』
『この故に仏様は仮の手段を用いて、仏身に生滅あるを説きました。僧達よ、仏様方の出世に値遇し奉ることは甚だ難いということを、わきまえなければなりません。そのわけは、多くの本未有善の人々は無量百千万億劫の年代を過ぎて、ようやく仏様にまみえる人もありますが、そんなに永い年代を過ぎても、仏様にまみえることが出来ない人もあります。この様に、仏様には値遇し難いのでありますから、私(釈尊)は多くの僧達に向って、仏様を見ることが仲々できないのでありますと申しました。本未有善の薄徳の人々は、この私の言葉を聞いて、きっと仏様に遭い難いという想いを起こし、仏様を慕い、あこがれる心を懐いて、妙法蓮華経を唱える様になります。かくの如く仏様が滅度することによって大なる利益がありますから、実は常住で不滅ではありますが、滅度の相を現ずるのであります』
『皆さん、今まで明かした久遠の仏の三世益物の有様は、我・釈迦仏のみのことではありません。一切の仏様方の説法もこの様であります。ただ人々を済度するためでありますから、その利益は実であって虚言ではありません。』(已上で法説終り。已下譬説)
(これより譬説 良医病子の譬え)
『譬えば良医があって、その良医は智慧が聡明で種々の薬に明るく、種々の病気を癒やします(良医は仏に譬える、仏は究竟して衆生の病を治す。仏は権実の二智を以て、八万、十二の経々を用い、苦の衆生を済度する故なり) その良医は沢山の子供があります。十(声聞)、二十(縁覚)、百数(菩薩)に及びます。この良医は所用があって遠い他国に行きました(仏の不滅の滅を示す、過去の益物)』
『この子供達は後になって、異の毒薬を飲んで、その薬の毒が発して苦しんで大地に転々と這い回っておりました(謗法の僧に導かれ権教方便を信じ久遠の寿命を断ち、かえって阿鼻地獄に堕つるをあらわしている)。この時丁度、その父が他国から家に還って来ました。子供達の毒を飲んで既に本心を失った者、あるいはまだ本心を失わない者(本心を失うことは、久遠に妙法蓮華経を下種されておるのを失うこと)等は皆自分の父が還って来たのを遙かに見て非常に歓喜して跪(ひざまづ)き、拝して申すには、よくすこやかにお帰りになられました。私共は愚のため間違って毒薬を飲んでしまいました。どうか早く治療して治して、もう一度生きかえらせて下さい、と申しました』
『父はこの様な子供達の苦悩を見て、医書の方法に従って、色も香も味も皆よき大良薬(万行万善諸波羅蜜を具足せる大良薬たる妙法蓮華経なり、題目の五字に一法として具足せざるはなし)を取り出して、しかも擣き砕き篩って和合して(空諦、仮諦、中道の三観具足する妙法蓮華経)、子供達に服せしめました(妙法蓮華経を末法の人に授与すること)』
『而して父の申しますには、この大良薬は、色、香、味皆悉く具足しております。お前達はこれを飲みなさい。そうするとすぐに早くその苦しみが去って、又、別の苦しみも無くなります(一刻も早く妙法連経を受持して生死の苦を出離せよとの勧誡である)』
『子供達の中の未だ本心を失わなかった者達は、この色、香、味の具足した大良薬を見て、これを即座に服した所、苦悩は忽ちに平癒しました。残余の本心を失った者達は、父の還って来たのを見て喜んで治療をお願いはしましたが、父から大良薬をもらっても飲もうとはいたしません。そのわけは、この子供達は既に毒薬の毒が身心に深くしみこんで本心を失ってしまっているから、この良い色、香、味の具足した大良薬すら美味しくないと思っているのであります(謗法深重の者は妙法蓮華経の大良薬を信受しません)』
『そこで父は、この子供等こそ哀れむべきであります。毒のために深くあてられて、心が狂っているのであろうと思いました。だから私を見て、喜んで治療して呉れと申しながら、与えた所のこの大良薬を飲もうとしないのでしょうと思いました。そこで私は、今、仮の手段を設けてこの良薬を飲まそうと考え、こう申しました。あなた方はよく覚えて置きなさい。私はもう老年になって衰え、死す時が来ました。このよい大良薬を、今此処に置きます(南無妙法蓮華経を末法の今、この日本国に留める)。あなた方は、これを取って飲みなさい。病気が治らないと悲観してはいけません。必ず平癒します(末法の一切衆生は、この妙法蓮華経を受持し唱え奉れば、始成正覚の迷いが覚め久遠本有無作三身の覚体となる)。この教えを説き終って父は又、遠い他国へ行きました。そして使いを子供達に遣わして、あなたの父は既に死にましたと、告げさせました(仏の滅後、菩薩が出現して仏の教法を示して滅後の衆生を引導するなり)』
『これによって子供達は、父が子供達を捨てて他国に行き死せると聞き、心に大いに悩みを持ち、もし父が在世ならば私共を哀れみ、よく救って下さいますが、今やその父は、私共を捨てて遠く他国へ行って、しかも死んでしまいました。私共は孤独で庇護してもらえず、又たよる所がありませんと思いました。そして常に悲しみに満ち、遂に菩提心を起こし、この良薬の色、香、味のすぐれているのに気付き、これを自ら取って飲み、病は悉く平癒しました(遣使還告の薩埵によって南無妙法蓮華経を服して即身成仏するのである)(現在の益物)。』
『其の父は子供達が皆平癒したことを聞いて、再び還って来て悉く見るが如きであります(仏がこの土に出現して衆生を悉く済度するを説く)(未来の益物)』
『皆さん、あなた方はどう考えられますか、もし誰か、この良医のことを虚妄罪と(仏様の滅せあるを滅すといい、生ぜざるに、恋慕の心あれば生を示すの如き仮の手段を仏の虚妄罪)いう者がないでしょうか』
『いや、虚妄罪などとはいえません』(善男子の答)
仏様(釈迦仏)が申しますのに、
『私も亦、この良薬の如く実に成仏してから無量無辺、百千万億那由他阿僧祇劫であります。人々を済度するために仮の手段を用いて、実は滅しないが滅度するというのであります。今私が滅度するといっても、前に述べた説法の如くであって、誰でも私のことを、虚妄を説く者だと咎める者はないでしょう』
お釈迦様は、寿量品の説法をなされ、更に良医の譬喩を説かれてから、更にこの意味を重ねて偈文を以って説かれました。即ち自我偈を説かれたのであります。
「自我得仏来」の一句に伝教大師は、一句三身の習いということを相伝され、自は法身如来、我が報身如来、得仏来の三字を応身如来となし、この一句に三身如来の相を説かれましたが、我が宗祖大聖人は、この一句三身の習いを、自は九界、我は仏界、この十界を本有無作の三身とし、自も我も得たる仏来れり、と訓ぜられ、我を法身とし、仏を報身とし、来を応身とし、この三身は無始無終の古仏にして自得なり、と釈せられております。
《以下に自我偈》
『私(釈尊)は本有無作の三身相即した古仏で、既に無量百千万億阿僧祇という無始の昔に自得した仏であります。既に無始無終の古仏を自得して以来、無数億という数えきれない人々を教化して、仏道に引入してから、又無量の年数であります。』
『私(久遠の釈尊)は一切の人々を済度せんがために、仮の手段を用いて滅度を示したのであります。(故に当説の涅槃経も亦法華経より出たのである) しかしそれは非滅の滅を示しただけであって、実際は滅度したのではなく、常に山谷であれ、曠野であれ、この娑婆世界に住して、南無妙法蓮華経を説いております』
『私は常にこの国土に住して妙法蓮華経の説法をしておりますが、多くの邪見、謗法の人々には、神通力を用いて常に此処に住しながら滅度を現わして、私を見せしめません。人々は私の滅度を見て、広大に仏舎利を供養し、皆、仏を恋慕する思いを懐いて、尚仏を渇仰する心を起こしました』
『人々は既に仏の教に信伏して質実に、正直に意志が柔軟になりて、一心に仏を見奉らんと思って、自ら身命を惜しまないようになれば、その時、即ち末法の時、私(久遠の釈尊)は菩薩方、二乗、六道の衆生と、霊山寂光浄土に列出します。私は寂光浄土に出でた時、人々に申します。常にこの霊山に在って滅度しません。但だ人々を済度するために神通力を以って、滅不滅の相、即ち生滅あるが如く現じたのであります』
『もし余の国において人々が私を恭敬し信敬するならば、私は復た、その国に身を出現して、妙法蓮華経を説きます。あなた方は私の説法の妙法蓮華経を聞かないから、但だ私が滅度してしまったものと謂っております』
『私は多くの人々を見ますのに、謗法深重によって生死の苦海に沈倫しております。それ故に滅度を現じて、彼等をして渇仰の念を生ぜしめ、心に恋慕の思いを起こさしめることによって、世に出現して妙法蓮華経を説くのであります』
『仏様の神通力を以て滅不滅の相を示すこと、この様でありますけれども、実は常に霊鷲山(常寂光土)及び余の諸の住処(実報無障礙土、方便有余土、凡聖同居土)に住しておりますて、謗法の人々が世界の劫数が尽き、壊劫の時、来たって大火に焼き尽くさるるを見る時、即ち謗法の人々が煩悩の大火に焼き尽くさるるを見る時、仏様の常寂光の国土は安穏であって、天と人と常に充満して、法界、悉く一道場となり、園林も諸の堂閣も、種々の宝珠を以て荘厳され、宝樹には立派な花咲き、木の実がなります。一切の人々が遊行歓楽する処であります。諸天は天の鼓を撃ち、常に種々の舞伎、音楽を作し、天から曼陀羅華を雨らして、寂光浄土の仏様や所化の人々の上に散華いたします』
『この様に久遠本仏の常寂光土は金剛不壊でありますのに、謗法の人々は過去世の福徳も尽き、劫末の劫火によって焼尽し修羅、餓鬼の苦悩に充満し、阿鼻叫喚の内に堕ちておるのであります。これらの罰せられたる人々は謗法、不信の故に、無数劫の永い間を過ぎても仏法僧の三宝の御名すら聞かないであります。況や久遠の仏様に遇い奉ることなどは出来ません』
『諸の総ての善根を(初住已上の功徳)を修し、心の柔和忍辱、質実正直なる人々は、皆、久遠の仏様が常に霊鷲山に在して妙法蓮華経の寿量品の説法をせられているのを見奉ることが出来ます。ある時は、正しく信ずる人々のために仏寿は常住不変であると説きます。又、五濁悪世の謗法不信の人々で、久しき間の修行によって功徳を積んで仏様に遇い奉る人には、仏様は常には在さず、億劫にも値い難いと説きます』
『私の久遠の覚りはこの様に、常住不変で、その智用は十方世界を照らし、寿命は無量無終であります。この久遠の覚りも無終の寿命も、久遠に一心三観の妙行を修して証得したのであります。あなた方、智恵ある人々は、久遠実成の私の仏身に対して疑いを生じてはいけません。当に疑網を永久に断じ尽しなさい。仏様のみ言は悉く真実で利益に虚妄はありません(偈文の説法終る 次は偈文の譬喩)』
『譬えば良医があって善巧方便を用いて狂子の病を平癒するため、実には滅せざるに今、まさに死せりといいて、良薬を服せしめたのを、誰もこの良医を指して虚妄の者であるという者がない様なものであります。私(仏)も亦、彼の良医の如く、一切の人々の父として、一切の人々の無間地獄の苦を救う者であります。故にこれらの人々を救う仮の手段として、真理を顚倒せる邪見の人々の対しては、我が仏身は此処に在れども滅度せりというのであります。』
『そのわけは、彼等邪見の人々が常に我が仏身を見るを得ると憍慢、自恣の思いを生じて、凡身五欲の煩悩に貪欲になり、謗法をなして阿鼻地獄に堕ちることは疑いありません。それ故、私は常に妙法蓮華経を信ずる人と謗法の人とを見て、信ずる人々のために開近顕遠して遠本寿長を説き、謗法の人々のために開三顕一して近迹寿短を説きます』
『この様に、久遠の本仏は、三世に渡って自ら本有無作の南無妙法蓮華経を以て、一切の人々を寿量品の無作三身の仏にならしめようとしているのであります』
『寿量品』おわり