大聖人の死身弘法を支えた富木常忍の御供養
富木常忍とは、建長6年ころ日蓮大聖人に帰依した信徒です。下総の住人で当時の千葉氏に使えていた有力武士と思われ、かなりの学識があり大聖人より観心本尊抄などの重要書を預けられています。松葉谷の法難の折には大聖人を自邸にかくまい、また龍口法難・佐渡流罪の折にも信徒の中心として活躍。弘安2年の熱原法難の折には、冨士から逃れてきた日秀・日弁らを保護しています。日蓮大聖人滅後、みずから常修院日常と改名し、自邸を法華寺と改称してその開山となりました。現在の中山・法華経寺。当時から日興上人とは疎遠となって謗法色が強まり、現在では、その門流は身延派日蓮宗となっています。
富木常忍の御供養について
富木常忍の大聖人に対する渇仰恋慕の志は、常忍が賜った御書に記されている「御供養」の記録に顕著です。日蓮大聖人は
「法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりと、と(説)かせ給ふ」(御書745)
と、御書の随所に御供養の尊さについて教えられています。
大聖人ご在世当時、信徒による御供養は、ことに、末法の仏であられる日蓮大聖人の尾命を直接長らえ、外護するという重大な意味合いを持っていました。僧俗それぞれが、苦境にあった大聖人の生活を少しでも支えるべく、真心からの御供養をされた様子が御書より伺えますが、なかでも常忍が担った外護の役割は、他の信徒とは一線を画すものといえます。
文永7年に常忍に与えられた御書に
「白米(しらよね)一、ほかひ(行器)本斗(ほんと)六升、たしかに給び候。ときれう(斎料)も候はざりつるに悦び入り候。何事も見参にて申すべく候 乃時」(御書435)
と記された『富木殿御返事』があります。
当抄の記述により、当時大聖人が「斎料」(※僧侶の斎にあてる金銭や食物のこと)で、「斎」とは、仏事の後に食べる食事のことです。つまり、食料にすら困窮する生活状況にあり、これを憂慮した富木常忍は、大聖人の元に白米を送られていたということがわかります。
ちなみに末尾に記される「乃時」とは「ただちに」という意味で、白米を届けた常忍の使者をその場に待たせておいて、大聖人は取り急ぎ書状をしたため、使者に託されたことを意味しています。
当抄の逼迫にじむ文面から、大聖人に対して国家権力による様々な迫害が押し寄せるなか、災害や飢饉も相次ぎ、食料の調達もっまならない大聖人の窮状を耳にした常忍が、師匠の危機をお救いすべく迅速に白米を調達して、送り届けられた光景が浮かび上がります。
極寒の寒さに、暖かい着物の御供養
さらに『観心本尊得意抄』(御書914)によれば、常忍は身延入山の翌年・建治元年11月、身延の大聖人に「厚綿の白小袖」等を御供養しています。
当時の大聖人の環境については、當抄に
「身延山は知ろし食す如く冬は嵐はげしく、ふり積む雪は消えず、極寒の処にて候間、昼夜の行法もはだうすにては耐えがたく、辛苦にて候い、此の小袖を著ては思ひ有るべからず候なり」
とあるように、非常に厳しい状況であったことを容易に想像されます。
山深い極寒の地にて不自由な生活を余儀なくされていた大聖人を心配し、少しでも尊崇する師匠おお役に立ちたいと願った常忍の心境が明らかです。
その他にも常忍は、折に触れて、いまでいう「衣料品」を大聖人のもとに送られています。こうした事跡は、大聖人のお身体を案じた常忍の細微にわたる配慮を如実にあらわすものです。これに象徴されるように、常忍は大聖人の生活環境に応じて、ことあるごとに、必要と思われる品々を大聖人のもとへ送り、またときには自らが携えて運ぶなど、絶え間ない御供養をもって外護の誠を尽くしました。
常忍に与えられた御書により、常忍が大聖人に送った御供養の代表的なものを挙げてみますと、白米・せいふ(金銭)・がもく(金銭)、帷子・墨・筆・白小袖・薄墨衣と袈裟、衣の布・単衣などがあげられます。
身延の大改築工事
身延において大聖人が生活されていた庵は、建治3年に一度修理を加えたものの、その後老朽化がすすみ、さらに常時40~100人近い門弟が生活したり修行したりする場所として手狭になっていたようです。
そのため大聖人は、かねてより富木常忍をはじめ弟子や信徒からの御供養を、大坊再建のための資金として蓄えられていました。
『地引御書』(御書1577)によると、弘安4年10月に建設が始まり、身延の地頭であった波木井一族の人々が中心となって工事が進められたことがわかります。すなわち10月12・13日に着工、11月1日には小坊と馬屋が完成し、11月8日に大坊の立柱を行ない、翌9日・10日には屋根葺きを終え、11月23日・24日の両日、好天のなか落成式が挙行されています。
この年は、ちょうど大聖人が御入滅される1年前であり、すでに大聖人は積年の疲労から体調も思わしくない状況にあった時期でもあり、大坊の落成は望外のお喜びであったに違いありません。同抄には「鎌倉においては、一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊は不可能である」と、その壮大さを称え、また落成式が盛大であった様子を「まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった」とまで記されているほどです。
この大事業にあたっては、富木常忍が建設資金として多額の浄財を大聖人に御供養されました。それに対して
「銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」(御書1573)
とあるように、一閻浮提第一の本門戒壇の大御本尊を御安置される、一閻浮提第一の法華道場の建設に、赤誠の御供養をされた常忍の信心を賞賛されています。
私たちも、菩提寺御本尊様への外護の御供養に日々努め、また時に応じて行なわれる総本山への特別御供養には真心をもって参加させていただきましょう。
※上記文章は、慧妙紙(平成30年6月16日号)掲載の文章に、筆者が一部手を加えたものです。