大石寺への登山とは?
日蓮正宗では、総本山大石寺に参詣することを「登山」といいます。
総本山大石寺は、一切衆生の成仏の根源である本門戒壇(かいだん)の大御本尊と、日蓮大聖人以来の唯授一人の血脈を所持される御法主上人まします一閻浮提第一の霊場です。
大石寺へ登山する意義は、日蓮大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊を内拝させていただき、御法主上人の大導師のもと、正法興隆による人類の恒久平和・広宣流布を祈るとともに、私たち自身の無始以来の謗法罪障消滅と現当二世にわたる大願成就を願うことにあります。
この大御本尊内拝を「御開扉(ごかいひ)」といいます。御開扉は、妙通寺に所属す御信徒であるならば、妙通寺住職が発行した添書を持参した人に限って、御法主上人より御許可をいただき、受けることができます。
大聖人の御在世当時の信徒は、日蓮大聖人を渇仰し、お目通りできる喜びを胸に、交通不便ななかを歩みを進め、困難を押して登山しました。
たとえば、日妙尼は、女性の身でありながら鎌倉から佐渡島までの長い道中、自身の危険も顧みず大聖人を慕って旅をし、ついにお目通りを遂げています。また逆に、佐渡に在住していた阿仏房は、九十歳という老体にもかかわらず、当時、身延に在住しておられた日蓮大聖人のもとへと数度にわたって参詣しています。
その頃、長い道中を経て登山した人たちは、物見遊山ででかけたり、ただお会いして、用が済んだら、そのまま帰るということはしませんでした。やっとの思いで大聖人にお会いすることができた信徒たちは、大聖人の御為に少しでも御奉公申し上げたいとの一念から、大聖人の元に滞在する間、薪(たきぎ)を切ったり菜を摘(つ)んだり、沢へ下って水をくみ上げるなど、真心からのお給仕に励んだと伝えられています。
これらはまさに、法華経に説かれる「心懐恋慕・渇仰於仏」(心に恋慕を懐き、仏を渇仰する)との求道心(ぐどうしん)からくる信心の行体であり、ここに登山参詣の基本精神があるのです。
日蓮大聖人は登山参詣の功徳について
「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(四条金吾殿御返事 御書1502)〔現代語意訳 毎年、何度も何度も私(日蓮大聖人)の元へ登山・参詣されるあなたは、遠い過去世からの謗法罪障も、登山の功徳によって、今世において必ず消滅させることができるでしょう。だから、いよいよ励んでいきなさい〕
と仰せられ、その信心を励まされています。
つづいて、次の項目「大石寺奉安堂御宝前について」を参照ください。
※上記は、『日蓮正宗入門』収録「総本山への登山」の文章に、当ページ編者が手を加え整足したものです