大石寺伝説と建物の意義 雑誌『蓮華』より抜粋
《大石寺の伝説① 説法石》
説法石とは、現在石之坊境内東側に有り、日興上人身延離山後、南条家の持持堂に入り、大石が原に大石寺を建立される間、折々この石上に於いて、又は傍らで人々に法を説かれたと伝えられるものである。ちなみにこの説法石について話す物語を二、三拾ってみると、富士宮歴史散歩(遠藤秀男著)に「大石寺と説法石」と題し
「正応二年(一二八九)の春まだ浅く、大石が原から望まれる富士も冠雪のきびしさを物語るころ、一人の高僧が道行く農民によびかけていた(中略)上人はかたわらの大石に立ち、説教をはじめる」
又、富士物語(小長谷宗芳著)に「大石寺の説法石」と題し、
「今を去る七百年の昔、春とは申せ二月の夕ぐれ、冷たい富士おろしに身をさらしながら大石が原の山道に噴火によって転がり出ていた座りのよい石の上に立って道行く人々に熱心に呼びかけている一人の出家があった。」
と、それぞれ日興上人の弘教のお姿を話しているが、これすべて道行く人に訴えかけたものであり、これは大聖人の辻説法に準え得るものである。即ち当時はかなり人通りのある大きな道が通っていたものと考えられる。
抑も、この石の由来を探るに、大石寺明細誌(富要集五巻 322)によると石之坊のところに
「庭に霊石有り説法石と号す、開山興師当山草創の始、此石を高座と為て説法し真俗男女を教化す、故に爾か名るなり。 説法石高地上五尺余 囲二丈斗 石上に松一株を生ず。
古来伝に云く阿育大王所立の石宝塔の基ひなり。此石有る故に此所の地名を往昔より大石が原と云ふなり、私に云く往昔此所は甲斐の国えの駅場か、東鑑一三十三云く治承四年庚子十月十三日壬辰甲斐国源氏並に北条殿父子駿河国に赴く。今日暮大石駅に止宿す云々。前後文見合て考ふべきなり、伝に云く唐土大石寺三ヶ処あり 皆阿育王石宝塔の旧地なり云々。」
と記される。これからしてもこの石は昔からあったもので、駅場の目印として或は阿育大王の法勅に習って、何れにしても民衆の溜り場、聖地としての役割を果たしていた事が伺え、ここに記される如くこの様な場所で日興上人が民衆を教化された事は必然のことであり、大石寺が創建されるに及んで、後世日興上人を偲んで説法石と名付けられたものといえる。
即ち二十六世日寛上人が日興上人の御威徳を偲んでこの場所に石之坊を創された事を推して知るべきである。
《大石寺の伝説② 子持杉》
二祖日興上人の御手植えによるもので、現在大客殿東側にあり樹齢六百五十年を数え、目高周囲六、五メートルもある大木である。日興上人大石寺創建以来の本山発展の歴史を刻んできたのであるが、しかし昨今の大客殿建立並に山内参道の舗装工事等による影響は免れず、終に生涯を閉じ、高さ三十三メートルにも及んだ子持杉も、現在は伐採された切り株が面影を残しているに過ぎない。(※この切り株は現在、永久処置をされて、大石寺客殿一階ロビーに展示されています…編集注)
この子持杉について本山第五十九世日亨上人は『富士大石寺案内』に
「他樹の枝少なく矗々たるに比して此は又下層より本幹数多に分れて子持の名此より来る由なれども、低級の信女等子持を孕に解して良き児女を得んが為に此樹に祈願を為せる事ありと云ふ」
と記されており、更に『大石寺明細誌』によると
「当山草創の時、開山師植る所の古木なり、根元一株にして仲間より据え真木数本に分る故而か名るなり、伝に云く子無き婦此の木の本を巡り祈願を懸くれば則子を設るなり」
と記されている。これらの記から「子持杉」たる名の由来を探り得るのであり、のみならず昔はこの名にあやかり、村人達の子宝を設ける為の祈願の役割を果たしていたことが窺え、そしてこの伝えを聞いて遠く各地から足を運んだ人もあったであろう。これは単に子宝を授かる為の「子持杉」ということではなく、日興上人のお手植にかかわるところの「子持杉」であるところから、あくまでも日興上人の御威徳を奉ずるものであると考えられる。
我々現代人は、このような迷信、伝統をとかく一笑に付するのであるが、そこに人間の本来の姿を見出すのであり、また考える必要がある。昔の人の純真な、そして自然を愛する心をこの「子持杉」に感じられるのである。文明発達の著しい今日、自然を見放しつつ、又自然に見放されつつあり、本山でさえもその影響を受ける事を考える時、時代の流れを痛切に感じざるを得ないのであるが、この様な社会でこそ子持杉の伝説は「蓮華」の如く生き続けて欲しいものである。
《大石寺の伝説③ 日有上人の逆さ杉》
日有上人は、日寛上人と共に古来から本山中興の祖と仰がれ、特に日有上人にまつわる種々の伝説は、師の御高徳を偲ぶものであり、この逆さ杉の伝説もその一つである。
逆さ杉は、以前、御影堂の鐘楼前にあったが、惜しいかな師の御高徳も空しく枯れてしまい、現存しない事は誠に残念である。
抑も日有上人と逆さ杉と、どのような関係があるのかといえば、師は晩年に甲斐・大杉山に草庵を建てて蟄居された事は周知のことであり、その後も大石寺と往来のあった事を
「毎月斉日のごとには、杉山より大石寺に詣りたまふ」
と『家中抄』が伝える如く、大石寺へ来山された折に使った杖を、今の鐘楼前にさされ、それが根を生じて成長し、逆さ杉と呼ばれるようになったと伝えられるのである。
元来、杖というものは、先の方から柄にかけて太くつくられており、これを木に譬えると柄の太い方が根幹にあたり、そこから枝が出て、恰も杉が逆さに生えているかのように見受けられたものである。
ところで、日有上人が大杉山と大石寺を往来されるに当って杖を使われたことは、隠退される程の御高齢、更にその道程からして当然のことであり、御供を従えて来山するお姿が彷彿とする。
日有上人が如何に御高徳であらせられたかは、東西に奔走して諸国を遊化され、先師の行儀を継いで、ただ一途に広布を願わん為の天奏等の諸活躍あってのことで、これが宗門内外に聞こえて各地から師を慕って門下が集まり、隠栖されるに及んでも、御威徳を慕う門徒の気持ちはいかんばかりか察せられるものがあり、御遷化されてからも、逆さ杉に見られるような師を偲ぶに相応しい奇特な伝説が多いのである。
また、後世次第に追慕の声が高まり、大杉山への参詣者が列をなしたといわれ、草庵は有明寺としてその蹟を伝えている。現在(昭和47年)でも、日有上人の御高徳を慕い、新説者は必ず報恩の為に大杉山に参詣する習いがある。
今、逆さ杉が現存しないとはいえ、その名はお華水横の日興上人御手植と伝えられる老杉に冠せられ、また逆さ杉のそばから、実生の杉が生じた事は師の御高徳に他ならない。
御当代日達上人(昭和47年当時)は、この一対の杉を“夫婦杉”と御命名遊ばされ、その際に左の如き御句を詠まれている。
「参詣の 児掌を守れや 夫婦杉 妙観」
「夫婦杉 鐘に詠れ 朝参り 妙観」
《大石寺の伝説④ 千居の牛岩》
千居といえば、大石が原千居遺跡の発掘により、その規模から日本有数の遺跡であることが注目されている。そもそも「千居」の名称を探るに大石寺明細誌に
「千子の原 本堂より北十五丁余にあり、実には勢子の原なり 今訛転して千子が原と云ふなり、建長四年五月源頼朝公富士野巻狩の時 勢子を此所に集む故に名を為す」
と記され、頼朝の巻狩に因んだことを伝えている。頼朝といえば平氏を亡ぼし新しい武家政権の土台を築く鎌倉武士の総帥であり、富士の大自然を相手に勇壮な一大巻狩が展開された事を思い起こさせる。その千居に牛が横になった形をした岩があったのである。
この岩は現存しないが、十九世紀初頭の大石寺絵図には、牛岩として描かれており、存在した事実は明らかである。それを明細誌に求めるならば、
「牛石 千子の原北地境にあり 黒牛の屈居に似たり 大車牛の如し、伝に云く往昔富士野より夜々悪牛出て田畑を荒す、里人之を歎く。爾るに開山師之を祈りて即化して石と成る」
と記して、そのいわれは御開山上人の時代にまで遡るのである。そこで頼朝巻狩を呪う動物と、後世千居ヶ原に住みついた農民との間に何か一つの伝説が生まれるのではなかろうか。それを後世の人が日興上人の御高徳を偲んで明細誌に記されるところの伝説となったのであろう。
ところで、この牛岩が巻狩に因むものとするならば、この他巻狩にまつわる駒立場大上的場等の名称、更に硯石等の伝説(富士宮史)があることから、この牛岩も巻狩当時或は以前からあったもので、一つの標的、目印とされていた事は考えられる。いずれにしても、大石が原の名に因んだ大岩であったのであろう。堀上人の富士大石寺案内に
「牛石とて、臥牛の形を成せる大石在りしが、意なき農夫が毀ち去りて耕転に便せりと、実物なければ、悪牛対治の伝説も消止すべきか」
との記に及んで、牛岩の現存しないことをは誠に残念であるが、御開山上人にまつわる貴重な伝説を、この誌上に掲載する機会を得たことを喜びとするものである。ましてや、牛岩の蹟に千居遺跡の発掘をみたことは、偏に御開山上人の御威徳の現われとして感銘に値するものである。
ともあれ、牛岩伝説の由来は御開山上人はさることながら、頼朝の巻狩に端を発するものといえる。
《大石寺の伝説⑤ 大蛇ヶ窪》
御開山上人が大石が原に大石寺を創建せられし頃、地頭南条氏の支配下にあった上野一帯に、夜な夜な大蛇が出没し、村人が不安におののいた時代があったのである。大石寺明細誌に
「大蛇窪 五重塔裏富士山街道東谷隘なり。伝に云く 往昔、此所は大蛇住む里人久く之を怖る。開山師、説法の日毎に尺ばかりの小蛇と変じて堂の階下に来りて之を聴く、師云く憐むべし。是彼の大蛇なり。業苦を脱れんが為に来る。乃指を以て其頂を摩つ、敢て動かず為に説て法要を示す。蛇、忽然として本形に復し、故栖に帰る。一夜夢に天人来て礼拝合掌して師に白して言く、我は此大蛇なり、師の慈恵に因り速に蛇身を転じて今生を兜率天に受く。恩を謝せん為に来ると云ひ、已て去ると翌日、人を彼所に遣はして之を見せしむるに大蛇既に死す。則其谷隘に埋む。此より大蛇久保と云ふなり」
として、その伝説が記されている。これによると五重塔の東側に当り、現在の池田山(現在の大石寺東山駐車場)の付近であったといえる。事実、十九世紀初頭の大石寺絵図には「大蛇窪」が記されており、大きな窪地があったといわれているが、現在でも池田山(現東山)の一角にその名残を留めている。
ともあれ、かくして大蛇は御開山上人の慈恵により蛇身を転じ兜率天にあって、正法護持の民衆守護の任を約束して死んでいったのである。そして文化元年(一八〇四)観行坊日陳師はここに碑を建立し
「摧滅謗法広布正法 諸願成就皆令満足 門松や 打ちこむ石も 福はうち 寿妙ぬ 不二の大寺 妙なりし 法の蓮のたねむかる 花の春 南無不二の山辺に」
と刻み、歌われ、御開山上人の御偉徳を報じられたのである。 (※以下、現状とそぐわないため、略します。当ホームページ編者註)
《大石寺の伝説⑥ 霧降りの桜》
大石寺山内の桜は、しだれ桜と吉野桜と分けることができる。なかでも古木についてその分布の状態を見ると、一定の秩序を持っていることが分かる。山内西の区域には吉野桜、東法門にはしだれ桜が多いことに気づく。現在(昭和47年)は八重桜なども随所に見られるようになり、又建造物の関係から移植された分も多い。
桜木の種類によって、その植樹の形式を見ると面白い。例えば、昭和初期頃の山内の状態を見ると、その諸堂配置は古来からのものと殆ど変化していないので、当時の桜木の繁茂する様子を窺うと、“吉野”は御堂裏の路、鬼門を抜けて雪山坊へ向かう通り、学寮から学林への並木などに見られ、いずれも東西方向に並んでいる。“しだれ”は南北に延び、三門から塔中を抜けて御堂に至る線上に、また蔵(御宝蔵・経蔵など)の周囲に目立つ。蔵はこの“しだれ”に荘厳されて非常に美しい。大体、山内の桜木植樹の形態は線が“吉野”で、点が“しだれ”で構成されていることが知られるのである。
さて、問題の「霧降りの桜」は、御宝蔵正面の最初の石段を登ったすぐ左手に植えられており、しだれ桜である。この桜の降霧は五、六月に見られるが、三月の花時にも枝などの形からくる抒情によってそれを知るころができる。三月末、つぼみ、花々が枝毎に点々とし、枝から枝へと伝って流れ、雨時に見る水玉のように、さながらそれは雨霧にも化して見える。やがて花が散って葉が見事に繁茂した五月のころ、晴空のどかな日に枝葉から下方に水滴が霧状に白く噴霧される。このところから古来より、これを「霧降りの桜」と呼んで、大石寺伝説の一つに数えられて来た。その樹下に立つと急にヒンヤリとして上の方から冷たい水玉が、ポツンポツン……と落ちてきたと言う。
この「霧降りの桜」も昭和の初期まで、花を咲かせ人々の目を楽しませて来たが、その後、枯れてしまい、今ではこの優雅な情景を偲ぶことが出来ないのは誠に残念である。
《大石寺の建物 朝日門の鬼》
塔中を登り左折して、大坊の東面に建っている門で、表門の上部に鬼の面がついているので「鬼門」と呼ばれる。俗に朝日門と呼ばれているが、本来、この名称はなく、朝日に向かう位置にあるからいわれたと考えられている。
鬼門とは、『文底秘沈抄』(日寛上人著 六巻抄)に
「東北即ち是れ丑寅なり。丑寅を鬼門と名づく…仏法の住処云々」
とある。又、若し犯せば災禍を被る可しと恐怖される方位である。
『法苑珠林第六』に
「神異経に依るに曰く 東北方に鬼星の石室あり、三百戸にして所を共にす 石榜に
題して鬼門と云う」
と。また『寂照堂谷響集第一』に
「東瘣枝を名づけて鬼門と曰う。萬鬼の集まる所なりと…又俗間に相伝へて東北を鬼門と名づけ、東南を入門と、西南を地門、西北を天門と称す」
と。『倭訓栞巻上』には、
「東北の隅を鬼門と云う。随諸に廻風従良地鬼門来と見へたり。我邦にても専ら忌避して犯さざるは東北の維は日立少宮の所なるを以って成べし。(略)王城の鬼門に当るを以って比叡山を建立ありとか」
と、鬼門は二通りの意味があることが知られる。一つは仏法の住所であり、もう一つは鬼の出入する所である。
『文底秘沈抄』に
「仏法の住処、鬼門の方に三国倶に建つなり」
とあるように、仏法はインド・中国・日本の三国が共に鬼門(東北・丑寅)の方向に立つと云われている。『義楚六帖第二十一 五』に云く
「日本国亦倭国と名づく。東海の中に在り、都城の東北千里に山有り。富士山と名づく」
とある如く、当山は王城の鬼門にあたる故に、この義を表象したのである。
鬼とは帰の意で、全ての者が帰入するところであり、万行万善、六波羅蜜の功徳が帰入して、万徳円満の本分をあらわす意でもある。この故に鬼の面がつけられているのである。
大石寺 鬼門(朝日門)
《大石寺の建物 常唱堂》
常唱堂は、今を去ること二四九年、享保九年(一七二四)に、当山稀有の碩学として大石寺中興の功甚大なる二十六世日寛上人の発願、それより三年を経た十二年八月八日第二十七世日詳上人の代に至って完成をみたものである。
開創当時は遠信坊の北に位置し、大正十四年第五十八世日柱上人によって現在地に移転され、更に昭和四十一年九月、現日達上人(昭和47年当時)によって改築新装なり、規模は六間四面、様式は開創当初を偲ばせる入母屋造りの立派な堂宇となったのである。
建立当時は、「常題目堂」と呼ばれていたものの如く、本堂と廊下を経て堂番部屋があり、六人の所化衆が常住して常に唱題の声を絶やさなかったという。その後現在の「常唱堂」と改名されたものの、常唱題目の意はそこに少しもかわることなく現在に至っている。
抑もこの堂宇の発願建立は、当時の正邪を弁えぬ不当な国家権力の横行する状況を鑑みられた日寛上人の正法護持、総本山護持、ひいては広宣流布達成の一念に発している。
即ち日蓮が弟子檀那は、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経を余行を雑えず唱えることが肝要なるも、「少しもたゆむ心あらば魔たよりをうべき」ならば、少しもたゆむことなく唱題を重ねて魔を打ち払い、広宣流布の暁を目指して成仏の直道を歩まなくてはならない。
発願主・日寛上人の残された
「富士の根に 常に唱うる堂建てて 雲井に絶えぬ 法の声かな」
との御詠に我々は、厳しい幕政は勿論の事、競い起こる諸魔に屈せぬ不屈の信心を貫ぬくことを念じて常唱堂を発願された御意を拝することが出来るのである。
こうして信心を堅固にし、又国中の諸宗諸門の狐兎一党して、当山に襲来すとも、敢えて驚怖するに足らざる完璧な教学を体系づけ、正法正義の護持相続を成された日寛上人の御一代を心底より拝して、今もなお唱題の絶えることない常唱堂の意義を再考することも、現時に於いて必要であろう。
享保の昔、この常唱堂を建立せんと意気上がる木遣衆が
「余所の常唱堂は、世過ぎの常唱堂、此方の常唱堂は世捨ての常唱堂、世過ぎ世捨ての常唱堂は似たれども、迷ひ悟りは一天地で御座る。天地水火の違目を知らず 迷ふ人より哀れ也」
と歌った木遣歌が聞こえてくるような気がしないでもない。
常唱堂 (石之坊 本堂)
《大石寺の建物 総門》
寺院建築に用いられる外構の大門、総構の正門を総門という。
大石寺の総門は、境内南端に位置し、総本山の表玄関である。間口三間二尺、奥行き二間四尺のこの門は、戦国時代(大永二年・一五二二)に、十二世日鎮上人が、本堂・御影堂・垂迹堂・諸天堂を修築された時に、間口一間半、奥行き三間の門を初めて建立され、その後、寛永十五年(一六三八)十七世日精上人が再建せられ、以後多少の改築を加えられながら今日の姿となっている。
尚、門全体が黒塗であるところより、通称黒門と呼ばれているが、昭和四十七年(一九七二)西側に新総門が出来たことにより(平成時代に、新総門は解体済み)、通称の黒門を、そのままこの門の名称として、後世に残される様になった(新総門解体により、ふたたび総門と称されるようになった)
何故、この門が黒色で塗られたのか、一考を加えてみよう
黒白について、竜樹の『十住毘婆沙論』に
「依修多羅白論 不依修多羅黒論」
とあり、『摩訶止観』には
「身の黒色は地獄の陰に譬う」
とある。又、宗祖は『一谷入道御書』に
「父母を知るも師の恩也。黒白を弁も釈尊の恩也」
と仰せである。従って、世間の邪法に染まった生命を、この門の処で洗い清め、清浄な生命で霊地を踏もうとする信仰心から、この門を謗法の垢を洗い下す場所として、黒色で塗られたものと解釈出来るのである。
依って、総本山に参詣の人々は先ずこの門をくぐることにより、清浄無垢な生命を更に燻発して、戒壇の御本尊を拝すると云う意を忘れぬことが肝要であろう。
大石寺 総門(黒門)
《大石寺の建物 三門》
門と申しますと普通、家・屋敷への出入り口に設けられたものを申しますが、一般仏家に於きましては、『大智度論二十』に「涅槃の城に三門あり、所謂空と無相と無作なり(略)是の法を行ずる時は解脱を得て無余涅槃に到る。是を以っての故に解脱門と名く」 この三つの解脱の門、空・無相・無作(無願)の三昧を修行し煩悩の縛を離れ、三界の苦を脱し最上とする涅槃に入る門、即ち「三解脱門」略して「三門」とするのである。
寺院は通例俗塵をさけ、山中に建立されるところより山号を称し、山門を設け、「山門」を「三門」に譬えたとも云えるのである。(現在では、ほとんどの寺院が「山門」を使用しております)
しかしながら、我総本山の三門は、一般仏家とはそうした解釈が異なり、王城の東・西・南・北の四門より因んだものであり、此のうち北門は不浄門とされておりますので、東西南の三門を言うのである。
もとは総本山に東・西・南の三門があり、日興上人詳伝によるに、日主上人の筆となる天正年間の古図には、塔中の下に「南門」があり、また完岳日良二十二代学頭(四十代日任上人)の写本には南之坊の下に「西大門」、蓮仙坊(今の了性坊)の下には「東大門」が見えるのである。此の東西南の三門を一括したところの門が、今の「三門」と見るべきである。
現在の三門は、二十五世日宥上人の時(享保二年)徳川六代将軍・家宣公が富士山の巨木七十本を、その夫人・天英院殿が黄金千二百粒を御寄進なされ、二十四世日永上人、二十五世日宥上人を初め当時学頭職にあられた二十六世日寛上人の勧募の活躍もあり、全国の僧俗の浄財をもって五年の歳月をもって建立されたものである。
東海道筋では唯一の三門であり、朱塗としては稀であり、その規模に於いても全国的に数指となる大楼門であります。(形式…五間三戸二階 二重門入母屋造り 間口…十二間一尺 奥行き…五間四尺 高さ…十二間三尺)
※大石寺三門は、宗祖日蓮大聖人ご聖誕800年を記念して全面的に改修され、令和3年1月に完成しました。三門は静岡県指定文化財です。(当ホームページ編者註)
大石寺 三門
《大石寺の建物 二天門(にてんもん)》
三門を真っ直ぐに御影堂に向かう途中、二天門をくぐることになる。この二天門は、大石寺明細誌によれば、「中門、又二天門という。本堂五十間余南明二間半横二間二尺」とある。
二天門は同誌によると日興上人代に既に建てられてあったと云われる。寛永十五年日精上人の時、敬台院の寄贈(大石寺基金七四一両の一部)によって再建される。日淳上人代に銅葺きに改修され、昭和三十五年一月四日、第六十六世日達上人の時、大改修された。
蜂須賀公内室の敬台院が何故に精師に帰依したかが正宗教報に「本山十八世日精上人は元と徳島蜂須賀家有縁の人にして至鎮公後室鏡台院殿を深信に導びき其の浅草鳥越の邸内に鏡台山法詔寺を云々」とある様に、蜂須賀家有縁の関係があり、或説に日精師は敬台院の養子ともある。この関係から、敬台院は半生を大石寺興隆の為に尽す。幕府から御朱印を頂戴出来、江戸時代に於ける安泰も敬台院の力によるものである。
一般に二天とは、正法護持の四大天王の内、持国天と多聞天を指すのであるが、正宗に於ては、諸天の代表たる大日天王と大月天王を指す。伝説に云う「鼓楼の屋根の上に太陽を型どった丸い物があるが、これは大日天王を指し、鐘楼の屋根の上には、月を型どったものがあるが、これは大月天王を指す。この鼓楼、鐘楼は御影堂を守護するかの様に、南面、南東に配置されている。即ち諸天の代表たる大日天王と大月天王が、御影堂に御安置されている正御影様を守護するのであり、以前には、御影堂に戒壇の大御本尊様が御安置されていたのであるから、御影堂を守護するという事は、とりもなおさず、総本山大石寺を守護するという意味になる」と聞いている。
鼓楼が出来上がったのは、何時頃の事か詳しくは分からないが、大正四年日正上人代に再建された。又鐘楼は、日精上人の時、寛永九年に敬台院の寄進により建立され、中の梵鐘は寛永十三年に鋳造された。梵鐘は戦時中強制的に没収され、昭和二十七年立宗七百年を記念して再鋳造された物が現在のものである。
二天門を云う時、御影堂、鼓楼、鐘楼を切り離して考える事が出来ないのは、以上のことからである。普段、何気ない気持ちで二天門をくぐり抜けるが、本山を守護する諸天善神の在す門を思い合せて通る様に心がけたいものである。
大石寺二天門 (奥に見えるのが 御影堂)
《大石寺の建物 御影堂(みえいどう)》
この御影堂は御堂(みどう)とも略し申し、第六世日時上人代、嘉慶二年十月(一三八八)に京都の仏師・越前法橋快恵作による宗祖大聖人の等身檜彫刻座像の御影様を御安置申し上げてあります。
一般的に御堂とは絵像・木像の尊称のことであり、尊影を指すのでありますが、当御影堂では宗祖大聖人の御影を御安置致し、御大会式又御講が執り行われる本堂であり、宗祖大聖人の御生前の御姿を再現申し生身の大聖人を祭祀する殿堂であります。
又宗祖大聖人を慕う後代の衆生の為に、その面影を知らせ残す目的をももっているのであります。
古くに見られるのが『日興跡条々之事』に、
「一、大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」
古来より大聖人の正御影が御座す御宮殿をもって御堂と云い、これより見ますと、元徳二年(一三三〇)以前に建立されておったと考えられるのであります。
「之を管領し、修理を加え」とありますように、痛んだ時には必ず修理を致すようにとの事であり、立派な御影堂が本堂等と共に造られたと見れるのであります。
その後、十二世日鎮上人代の大永二年(一五二二)に
「在寺五十六年、其間東西に往返し富士に帰り伽藍を建立す。所謂本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、総門なり」
(欠損)経過しており、相当に老朽致し痛んでいる筈であり、この時に諸堂と共に御影堂が建立なされたものでしょう。
第十三世日院上人の時、永禄十二年二月(一五六九)に諸堂を武田信玄の兵火に罹って焼失したのであるが、第十四世日主上人の天正年間の筆による古図面(日興上人詳伝)によると各坊が揃い、又、本堂を中央にして天経(東)、御影堂(西)と塔中の上方に並んでいるのを見る事が出来ます。
江戸時代前期、即ち寛永九年十一月(一六三二)の第十七世日精上人代に、日精上人の御養母である阿波徳島城主蜂須賀至鎮公夫人敬台院が大施主となって、御影堂と本堂とを一所となした現在の大きな御影堂が建立されたものであり、「本門戒壇本堂」と棟札にある如くに戒壇の御本尊並びに御影様を御安置なされたもの(欠損)
三年の後、寛永十二年七月(一六三五)に御堂の御宮殿を、井出伝右衛門、同子息である与五右衛門尉の両名が御寄進されており、御身や殿裏書き「本門戒壇御宮殿」と又見れる如く、戒壇の御本尊様が御安置申し上げてあった事は間違いなかろうと思えるのである。
其後、日永上人始め何度かの修理を加えられておりますが、昭和四十六年に現法主上人のもと(当時は日達上人)宗祖御誕生七百五十年記念として六ヶ月の日数をかけて大改修が行われ、創建当時の姿を再現致すよう、絵画・彫刻・丸柱金箔等々細心の注意をされ、当時の色彩の絵の具が無い為、手を入れない程の復元に配慮されたのであります。十月には樹齢数百年の杉木立の間に赤銅色の大屋根と朱色燦然たるその姿が、三百数十年前を今に見る如く再現されたのであります。
「秋晴れの 日影をうけ建つ 御影堂 昔の姿で 今ぞ新たに 妙観 昭和四十六年十月御詠」
※この後、御影堂は六十八世日如上人の代に、全面解体の大修繕工事がなされ、見事に往時の姿に復活しています。御影堂は静岡県指定文化財です。(当ホームページ編者註)
《大石寺の建物 五重塔》
「御塔橋」を渡ると、老杉林に吸い込まれる苔むした石段に突き当たる。あたかも押し寄せる大石寺近代化の波を防波するように東へ高く伸びるこの石段を登りつめた小台地に、鮮やかな朱色の五重塔が林立する老杉に囲まれて佇立する姿は、正に奥ゆかしき東海道一の威容である。
寛延の昔、日寛上人起塔の御志をその稀有の篤信によって外護した天英院によって建立されたこの五重塔が、今なおこの小高い平地から西の方を見据えて周囲の老杉と共に大石寺の歴史の一翼を担ってきたのである。
抑も塔は、三重・五重・七重・十三重と、その差異こそあれ、寺院完備の一端を担う重要な堂宇である。そしてこれは天子南面の原則によって南向きに建てられるを通例とするのであるが、大石寺の五重塔は何故か西向きに建立されている。これは果たして、いかなる相伝・意図に基づくものであろうか。
『諫暁八幡抄』に
「天竺国をば月氏国と申す。仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり」(平成御書1543)
発祥を月氏印度に求めた釈迦仏法が多くの付法蔵、祖師達によって印度・中国・日本と東漸伝播して、よく正像二時の闇を照らした歴史は、西より東へ向かう月に譬えられる。だが既にその時を失い、東の方へ没した月にかわって、末法の大闇を照らさんと、適時の大法たる久遠名字の妙法が東の方に燦然と輝き出したのは、今を去ること七百余年、釈迦仏法東漸の東限・扶桑国日本であった。その光明は月光にもまして末法万年の大闇を照らす大光明であったが、末法の濁悪はその大光明さえもさえぎるものであった。しかし今、正に日本に発祥した日蓮大聖人が末法の大法は太陽の光の如く曙以来の暗雲を吹き払って西還しまじめたのである。
この現在仏法西還を象徴して西向きに建立された五重塔も漸くその意図が叶えられつつあるのである。
※この五重塔は、宗祖日蓮大聖人ご聖誕八百年を記念して、六十八世日如上人の代に、大改修工事が施されました。(当ホームページ編者註)
《大石寺の建物 奉安堂(ほうあんどう)》(大石寺写真集 解説より)
奉安堂は、六十七世日顕上人の発願により、宗旨建立七百五十年を慶祝する記念事業として建立された、本門戒壇の大御本尊御安置の根本道場である。
平成十二年四月二十八日に着工法要を奉修し、以来二年半の工期を経て、平成十四年十月に落成した。
建物外観は、伝統的な日本の寺院建築様式で寄棟造り二層屋根になっている。地上一階、地下一階の鉄骨造り、間口七十五メートル、奥行き百十六メートル、高さ五十五メートルの規模を誇り、これは、日本の伝統的寺院としては類を見ない最大級の規模である。
また堂内は、間口五十五メートル、奥行き八十四メートルあり、信徒席には五千名分の椅子席を設けており、また、大御本尊御安置の須弥壇は、全体が特殊合金でできた金庫室になっており、耐震、耐火、防犯の面でも、極めて高い安全性が確保されている。
またに奉安堂こそ、ここに集う日蓮正宗僧俗が、常に広宣流布と自らの罪障消滅、さらには日々の精進を誓う、崇高なる場所なのである。
《大石寺の建物 不開門(あかずのもん)》(大石寺写真集 解説より)
客殿の正面にある小さな門が不開門である。また「勅使(ちょくし)門」とも称され、広宣流布の暁に開かれる門として、堅く閉ざされている。創建は明かでないが、十四世日永上人の時に再建、三十二世日教上人の時に屋根替えの記録がある。現在の門は平成十九年、六十七世日顕上人の代に再建新築された。
《大石寺の建物 客殿(きゃくでん)》(大石寺写真集 解説より)
客殿は、総本山内で最も多くの法要が執り行われる中枢の建物であり、ことに日蓮大聖人の法威受け継がれた歴代法主上人が毎朝、広宣流布祈念の丑寅勤行を修される重要な堂宇である。
寛正六年(一四六五)九世日有上人が創建され、享保八年(一七二三)二十七世日養上人の時の再建、また明治四年五十二世日霑上人の代、および昭和二十三年六十四世日昇上人の代、さらに昭和三十九年六十六世日達上人の代に、それぞれ再建された。
現在の建物は、平成七年一月の阪神・淡路大震災の被害に鑑み、六十七世日顕上人発願のもと、耐震性にすぐれた建物として、平成十年三月に新築落成したものである。
内部の基本構造は堅牢な鉄骨造りであるが、外装や堂内の仕上げは全て木材を使用し、温もりのある伝統的和風建築となっており、間口・奥行とも約五〇メートル、高さ三六メートルの二階建てで、建物内部には一一一二畳敷きの本堂がある。
《大石寺の建物 六壺(むつぼ)》(大石寺写真集 解説より)
客殿の西側に建つ六壺は、二祖日興上人の開創で、総本山発祥の霊域である。はじめ六室に分かれていたところから、この名があると伝えられ、その一壺を持仏堂とした。歴代の上人が広宣流布を祈願し、また、在勤の学衆の朝夕の勤行の道場でもある。
明治二十二年独立の堂宇として建立され、近年に至ったが、昭和四十年、改築され、さらに昭和六十三年十月、大石寺開創七百年の記念事業として、六十七世日顕上人の発願により新たに建立された。構造は木造、平屋建て、総けやき造りで、屋根は寄棟造り、本瓦葺き、外壁は土壁塗り、漆漆喰仕上げとなっており、日興上人草創時を偲ばせる日本古来の伝統的木造建築である。
又、一七〇畳数をもつ内部の大仏間は、四本の柱しかない大空間となっている。これは、ここに集う僧俗すべてが共に御本尊を拝する事ができるよう、配慮されているためである。
安置の御本尊は、御開山日興上人の書写されたもので、脇書きには「乾元二年(嘉元元年)八月十三日書写之。富士大石寺持仏堂安置本尊也」と記されている。
《大石寺の建物 お華水と閼伽(あか)堂》(大石寺写真集 解説より)
奉安堂の東、杉の巨木の下に湧き出る清泉が「お華水」である。
古来、番僧が早朝にこの霊水を汲んで御宝前に供えている。現在の閼伽堂は、昭和四十八年十月、再建されたものである。ちなみに「閼伽」とは仏前に供える浄水の事である。
《大石寺の建物 多宝蔵(たほうぞう)》(大石寺写真集 解説より)
大石寺開創七百年記念事業の一環として、平成二年、法祥園西側に新築されたものである。大石寺の大切な古文書を収蔵する建物で、校倉造りの耐火構造になっている。
《大石寺の建物 御経蔵(おきょうぞう)》(大石寺写真集 解説より)
奉安堂の東方にある。元禄十年(一六九七)、二十四世日永上人の代に建立された。
三〇〇年の星霜を経て、漸く朽廃したため、昭和四十八年十月、現在の場所へ移転新築したものである。唐様も取り入れた入母屋二層、屋根は銅板葺で、内部には御書庫(輪蔵=回転式書架)がしつらえてあり、明本一切経が格納されている。建坪一二四平方メートル、高さ一三,三メートルである。
※令和三年、日蓮大聖人ご聖誕八百年を記念して、内外の修繕が加えられた。(当ホームページ編者註)