大本(おおもと)教団       沿革・歴史と疑問

 

 大本(おおもと)は、開祖「出口なお」とその娘婿である「出口王仁三郎(おにさぶろう)」の二人を教祖とします。神が、こわれた世の中を立て直し、地上天国「みろくの世」を建設することを信ずる新興宗教団体です。


<開祖 出口なお> 
 出口なおは、天保7(1836)年旧12月、丹波国に出生しました。19歳のとき結婚して11人もの子供をもうけましたが、そのうちの3人が早世し、さらに、なおが51歳のとき夫に先立たれ、幼子を抱えながら困窮生活が続きました。
 明治25年旧正月5日、なおが57歳のとき「艮(うしとら)の金神(こんじん)」という神が、なおに依憑(えひょう)したといいます。この金神は「冰に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ」と言ったそうです。教団では、なおが神がかったこの日を、大本開教の日としています。
 翌26年、神がかった「なお」は異常な行動を繰り返すようになりました。心配した親族は「なお」を座敷牢に閉じ込めましたが、「なお」は牢の中の柱に釘で神の言葉を書き続けたといいます。これが「なお」の「お筆先(ふでさき)」のはじまりとされているようです。この「お筆先」は、「なお」が死亡するまでの27年間に、半紙10万枚に達したと教団では説明しています。
 牢屋から出た「なお」はその後、「病気なおしの祈祷」を行なうようになり、「綾部の金神さん」と呼ばれました。「なお」の評判を聞きつけた金光教では、「なお」と協力して布教するため「綾部」に布教師を派遣し、明治27年11月に「なお」の個人的な信者を中心とした教会を設立しました。この教会には、金光教の神である「金光大神」と、「なお」に乗り移ったとされる神様・「艮(うしとら)の金神」を並べて祀り、六畳一間の座敷を借りた粗末なものでした。「なお」はそこに住み込み、病気治しを中心に布教し、特に農家の間に信者が増えていきました。
 しばらくして、金光教の布教師は、「出口なお」の「お筆先」と「艮の金神」を軽視するようになったため、「なお」は金光教との協力関係を中止し、明治30年4月に「艮の金神」だけを祀る教会を開設しました。
 「なお」はその後、自分が説く教えと、艮(うしとら)の金神(こんじん)の神格化、神がかりの意味などについて体系的に説明し、お筆先の内容を解説できるような協力者を捜しました。なぜなら、自分の力だけでは、教義を理論的にまとめ上げ、体系化して整えることができなかったからです。
 そんな時、「なお」の元を訪れてきた人物が上田喜三郎(のちの出口王仁三郎)でした。

 

<出口王仁三郎> 
 上田喜三郎は明治4年旧7月、丹波の農家に生まれました。27歳のとき、郷里の高熊山の洞窟で1週間の修行をし、その結果、喜三郎自身が神界に赴いて天眼通・天耳通・自他心通等の不思議な力や鎮魂帰神の大要を体得し、救世の使命を悟ったということです。
 喜三郎はその後、神の道を説法し布教しようとしましたが、誰も彼の言葉に耳を傾けようとはしません。そこで、「病気治し」を売りにして布教を開始すると、たちまち評判となり、その評判を基に、さrない「幽斎(ゆうさい)」の指導をはじめました。これは、喜三郎が審神者(さにわ)となり、人々に取り憑く神(霊)の正邪を見分けるというものです。
 翌月、喜三郎は駿河にあった稲荷講社総本部に三日間入門し、霊学を学びました。帰郷した喜三郎は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の分霊から「園部の方へ行け」との神命を受けたとして亀岡を出発。途中、綾部の病気治し・「出口なお」と出会いました。当時の喜三郎は「出口なお」が説く「艮(うしとら)の金神」ではなく「我が信仰する神は稲荷のみである」と語ったため、わずか二日たらずで「出口なお」とは袂を分かち、綾部から園部に向かいました。園部に到着すると喜三郎は、霊学会を設立して布教し、病気治しと審神者として、ますます有名になっていきました。

 明治32年7月、出口なおは、艮の金神信仰の布教を手伝ってもらうため、喜三郎を再び綾部に呼び寄せました。そこで、「出口なお」が教主、喜三郎が会長として「金明(こんめい)会」を発足させ、翌月には喜三郎が設立した霊学会と合同し、新たに「金明霊学会」を創設しました。
 翌明治33年1月、「なお」は五女・すみを後継者と定め、喜三郎とすみを結婚させました。ここに、開祖「なお」が「経(たて)糸」、会長・喜三郎が「緯(よこ)糸」、そして後継者すみが信仰の「要の役」とする「大本(おおもと)教団」の基礎が成立しました。
 明治35年3月、喜三郎夫婦に長女・直日(なおひ・のちの三代教主)が誕生、喜三郎もこのとき「王仁三郎」と改名しました。「なお」は孫の誕生を機に、これから先も代々、女系による教団の継承を定めました。
 その後、なおと王仁三郎が再び仲違いをして王仁三郎は「なお」の元を去りましたが、数年後、衰退した教団を立て直すため、ふたたび「なお」の元へ戻りました。以後、教団運営の中心者は王仁三郎となり、「なお」は「お筆先」を書いたり、病人や妊婦に授ける護符「おひねり」の作成に専念しました。
 大正3年、教団は「皇道(こうどう)大本(おおもと)」と改称し、さらに大正7年に「なお」が死亡すると「すみ」が第二代教主に就任。王仁三郎は、開祖「なお」と対等の「聖師」としての教義上の地位を確立しています。大正9年8月には大阪の「大正日日新聞社」を買収し、マスコミの力も利用しながら、布教の拡大を目指しました。
 大正10年秋ころより、王仁三郎は自身がかつて高熊山での修行の際に体験したという神界の内容を口述しはじめ『霊界物語』として刊行しました。この書は全81巻83冊に及んでいます。
 太平洋戦争の混乱期を経て、昭和23年1月19日、王仁三郎が死亡。同27年、二代目教主・すみも死亡し、出口直日(なおひ)が第三代教主に就任して、教団名も「大本(おおもと)」に改称しました。
 平成2年には第三代教主直日の死亡により、その三女・出口聖子(きよこ)が四代教主となり、平成13年には聖子の死亡にともない、その養女・紅(くれない)が五代教主となりました。
 大本から分派した主な教団には、「生長の家」「白光真宏会」「世界救世教」などがあります。

 

 

◇教義の概要
 大本では、祭神を「大本皇大神」とします。この神は宇宙の根元であり、万物生育の源である大元霊・主神(すしん)と、その分霊であるすべての神々を総称したものです。
 信者は、教主が書写した「神体」と、教団で浄め直した先祖の霊を祀ります。神体を祀ることができない場合は、「神号幅」と呼ばれる掛け軸が配布されます。
 大本では、主神は人間が堕落して滅亡寸前の状態となっている末法の世を立て替え、立て直して、恒久平和の世界(地上天国 みろくの世という)を築く計画を実行すると教えています。そのために、神の言葉を伝達して救世の基を開き、霊界と現界を守護する存在として「出口なお」を、神の愛と智慧を示して万民の罪を贖(あがな)い霊界と現界を救う存在・救世主神「みろく様」として出口王仁三郎を、それぞれ遣わしたと教えるのです。

 教義の概要としては、霊と体は大元霊である主神から分かれ出た相対的な二大元素であり、すべての存在は霊を主、体を従とする「霊主体従」の原則によって構成されているとします。したがって人間は霊を中心とし、体を二次的に考えて行動することが原則に叶った生き方であり、これに反して「われより」(利己主義)、「つよいものがち」(弱肉強食)など、体を中心として霊を従とする「体主霊従」の生き方は、人間の苦や社会悪が生ずる原因であると説くのです。

 

 このことから大本では、人類生活の根本原理として
 一、祭(まつり)…惟神(かんながら)の大道(祭りを実践すること)
 二、教(おしえ)…天授の真理(大本の教典によって主神の意志を学ぶ)
 三、貫(ならわし)…天人道の常(人間は神の子とし、主神から授かった良能良質を開発し、活用していくこと)
 四、造(なりわい)…適宜の事務(それぞれにふさわしい職業に従事すること)
の四大綱領を説き、人間本来あるべき霊主体従の営みを教えています。

 

 さらに人類が四大綱領の本義に基づいて
 一、清潔主義…心身修祓(しゅばつ)の大道(不浄を浄化する)
 二、楽天主義…天地惟神の大道(天命を楽しむ)
 三、進展主義…社会改善の大道(悪を改善する意欲を燃やし、前進する)
 四、統一主義…上下一致の大道(神を中心とし、万教同根の真理に立って統一をはかる)
との「四大主義」を実践することで、天国的生活を営むことができるとしています。

 大本では、人間の死は“肉体から霊魂が離脱することで、それはまた霊界への復活である”とし、たとえ肉体が滅しても霊魂は不滅であり、霊魂は死後も意思、感情、知性をそなえて霊的働きをする存在であるとします。したがって教団では、祖霊祭祀を重んじ、「みたま祭り」と総称する死者の復活、鎮祭、合祀祭など十種類の祭祀を行なうよう信者に指導しています。

 

 毎日の勤めとしては、信者は、神体に「洗い米」と水を供え、朝夕の礼拝をします。朝夕の礼拝は、本部発行の『おほもとのりと』に則って行ない、「天津(あまつ)祝詞(のりと)」等を唱えます。毎月一回、日を決めて月次祭も行ないます。


◇大本の教義への疑問点
 ▼大本は、開祖・出口なおに「艮(うしとら)の金神」が神がかったとして立教した教団です。しかし、“神がかり”は、現代の精神医学では「憑依(ひょうえ)妄想(もうそう)」といい、人間の主体性が失われて起こる精神分裂症の一種とされています。
 11人もの子供を産み、そのうち3人に先立たれ、また夫も失った最困窮生活。「なお」は悲しさ、さみしさ、将来への不安にうちひしがれ、頼る者も無く、心細い生活を送っていくなかで、気の毒にも妄想の世界に逃避するようになったのではないでしょうか。
 彼女の悲惨な境遇には同情しますが、それと新宗教設立とは別問題です。まさに、一人の人間の妄想を基とする宗教に、人々を普遍的・根源的に救済する力が具わっているとは到底考えられません。

 

 ▼大本教団は、「霊主体従」といって、霊界こそが実体界であり、目に見える現界は霊界の移写であると主張します。しかし仏教では、死後の生命は法界に冥伏し、前世の因果を感じながら縁によってまた生ずると説き、因果を無視した霊界や霊魂の存在を徹底的に否定しています。「原因があって結果が生ずる」という道理に基づいた仏教の教えと、思いつきの霊界の話と、どちらに人生を委ねるのか。答えは明らかといえましょう。

 

 ▼大本教団では、神意を伝えるものが“お筆先”とし、その開祖なおの最初の筆先を明治25年のものとしています。しかし大正8年5月、「京都日出新聞」に掲載された京都府警の調査報告書によると、警察が捜索した際、不思議にも、「明治25年のお筆先」そのものの現物は発見されなかったといいます。
 その点を出口王仁三郎に尋問すると、彼は、次のように答えたといいます。
 「筆先の原稿を作るときに、年月日と組み立て等を、開祖なおに訪ねながら、書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は、実際にはありません」
と。このように教団の根本経典となっている「大本神諭」は、神の言葉を出口なお、無意識の中で伝えたというものではなく、出口なおと王仁三郎が相談しながら、話し合って原稿を書き上げたものだった、ということです。まったく、霊界だの、筆先だの、インチキであることを、警察署で自白してしまった、ということです。


 ▼胎教の必要性を問われた王仁三郎は、
「必要やとも。妊娠したら、すぐ妊婦の部屋はきれいにして、きれいな絵を掛けておくと、きれいな子が出来る(中略)妊娠中に妊婦が火事を見ると本当にアザが出来る。だから妊娠中には火事を見るなと言うのや」(大本本部祭務部編)
と答えています。
 「火事を見たら、子供にアザができる」などと、あまりにも因果を無視した発言をする人が作り上げた新興宗教に、一人の人間を苦悩の根源から救っていく力があるとは到底思えない、そんな考えは私ひとりではないと思います。


上記文章は、『諸宗破折ガイド』(大石寺発行)の文章の一部を筆者が訂正したものです。

 

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

http://www.myotsuuji.info