「塵つもりて山となる ~積功累徳 仏道修行かくあるべし~」
日寛上人ご指南 『寿量品談義』より抜粋
仏道を行ずるは、必ず信心の上に修行の功が無くては叶(かな)はざるなり。譬(たと)へば古今の序に遠き処(ところ)も、いで立つ足もと(足元)よりはじまりて年月をわたり、高き山もふもと(麓)の、ちり(塵)ひちよりなりて、あま雲たなびくまでおひのぼれる如くに已上。又真名序に譬へば、猶(なお)雲払ふの樹も寸苗の煙より生れ、天を浸波(ひたす)も一滴の露より起るがごとし已上。白氏文集二十二に、千里足下より始めて、高山も微塵より起る已上。
又古今の合抱の木毫末(ごうまつ)より生なり、千里の行も足下より始む。此れ等の意は一抱二抱の大木、雲を払ふ程の大樹も、其の根本を尋ねて見れば僅(わず)かに毛のさき程のふたば(双葉)より生ずるなり。此のふたばが段々功を績んで後に大木となるなり。亦百里二百里の道も、只是れ一足一足の功を績むより到るなり。又高山もふもとの塵(ちり)つもりて雲かゝる山となり、天をひたす大海も一滴二滴の露の小河などの水が落ち入りて大海となるなり。
僅(わずか)に一滴の露つもるとも大海になるべしとも覚えず、少しの塵積りて山となるべしとも見へず、ふたば(双葉)は大木となるまじきやうなり。一足二足と歩む中には中々千里の道は遠きやうなれども、目前の道理古人の語なれば疑ふべきに非ず。仏道を修する亦復是(か)くの如し。
是の僅かに一句二句の法門を聞いて、一辺二辺南無妙法蓮華経と唱ふる計りでは、万徳を円満せる仏身三十二相の仏とはなるべきやうにはあらねども、彼の塵つもり山となり、露(つゆ)積もって海となり、ふたば(双葉)が大木となり、一足一足を積んで千里を行くが如く、日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足の裏に寂光(じゃっこう)の都は近づくなり。一辺一辺に大山大海の如くなる仏身を、我が己心にこしらへしむる程、随分(ずいぶん)参詣(さんけい)唱題肝要(かんよう)なり。
(富士宗学要集 10巻 191ページ)
※表題は編者がつけさせていただきました。
※読みやすいように、一部によみがな、漢字をふるなどして、内容に変更が生じない範囲で、なおさせていただきました。