四節三益について
久遠以来、どのようにして衆生が種熟脱の三益を受けてきたか?
仏の化導と衆生の関係について、天台大師は大きく四種類に分けることができると『法華文句』のなかで説いています。それを「四説三益」といいます。今ここでは、天台解釈の範疇よりも一歩深く、法華経文底本門を本義とする日蓮大聖人の仏法の視点に立った「四節三益」ついてお話しします。
インド応誕の釈尊は、法華経本門を説示し、自身の本地である久遠の成道を開顕しました。しかしこれは、日蓮大聖人の仏法からすると「本果第一番成道」といい、本仏が悪縁の衆生を救済するため方便を設け、垂迹身を顕現された第一番目の成仏の姿と、その仏が説く教えの実体を指します。ですから妙法蓮華経という本法を刹那に覚知し、凡夫即極の成道を遂げた根源の本仏の本地は、釈尊説示の本果をさかのぼる「久遠元初」という本因妙の悟りを指向される日蓮大聖人を置いて他に顕わすことはできないのです。
久遠(釈尊の本地)をさかのぼる久遠元初の往昔、ひとりの聖者として出現された日蓮大聖人が宇宙法界の真理を覚知して即座開悟し、ただちに無量の慈悲をもって一切の衆生に南無妙法蓮華経の功徳種を下種されました。その化導を受けた衆生が、それ以後、どのように対応していったかによって、それぞれの姿に別れていく。これが「四節三益」ということです。
第一類
まず第一類の衆生は、南無妙法蓮華経の教えを仏様より下種されました。そして、その功徳を聞いて一度は信じたものの、以後、悪縁に引き落とされ、あるいは己心の魔に負けて退転してしまったのです。これらの衆生は、南無妙法蓮華経の悪口は言いません(誹謗しない)が、不信謗法となってしまいました。ですからその後、数億年、数十億年という永遠の月日を経て、途方も無いほど遠回りをしながら何度も何度も釈尊のよ、うな垂迹(仮の・方便)仏に出会い徐々に、根本の仏種(南無妙法蓮華経の功徳)を調熟させていきました。そして、その最後の締めくくりとして三千年前に、インドに出現した釈尊による法華経の説法を聞き成仏することができた衆生であります。
第二類
次の第二類の衆生は、久遠元初に仏から折伏されて南無妙法蓮華経の下種を受け、そのまま素直に信心して、当座に成仏していった方々であります。これらの尊貴の衆生はその後、常に本仏の化導を助けるため、いつでも、どこででも一心に南無妙法蓮華経の仏法を受持し続けていく衆生であります。代表的な衆生が、法華経に登場する久遠本仏の本弟子である「地涌の菩薩」です。
第三類
次の第三類の衆生は、久遠元初に仏から下種を受けたものの、その時ですら信じることができませんでした。信じないどころか、ただちに本仏や本法を誹謗したのです。そして死後に、それらの人々は、永遠の時間を地獄・餓鬼・畜生・修羅等の四悪趣で苦しみ抜くことになります。
永遠の時を経て謗法罪を少しづつ消滅させ、ようやく三千塵点劫という大昔に、大通智勝仏という仮の仏に出会い、その仏によって再び法華経を聞かされて深い信心の境界に入り成仏した人。あるいは、その三千塵点劫の法華経説法が縁となり、その時には信受することはできなかったけれども、仏になるための種を徐々に養うようになり、今から三千年前、インドの釈尊説示の法華経に出会って、ついに成仏した衆生です。これには、舎利弗とか目連とかの、釈尊の弟子がこの部類に入るとされます。
第四類
そして第四類の人は、これはもう、どうしようもない。久遠元初でも仏の言葉を信じることなく、以後、仮の垂迹仏に出会っても信仰心すら持つこともなく、インドに釈尊が出現して、ようやく法華経に接し、仏法に多少の興味を持つようになった衆生です。しかしそれでも、釈尊の在世では成仏はできなかった。そういった人々は、釈尊滅後、末法に入るまでの二千年の間(正法時代・像法時代)に、方便の諸経を縁として仏種を調熟しながら、徐々に成仏していったとされます。またこれらの衆生の一部は、成仏が間に合わず、末法にまで流入するとされました。
このように、仏により聞法下種を受けた後、成仏していく姿には、それぞれ異なった姿・形があるのです。しかし、様々な姿形の違いがあるとはいっても、最終的には、根源の南無妙法蓮華経を深く信ずることによって、誰もが成仏していくことには違いはないのです。
末法は「本未有善」の衆生 ~誰もが南無妙法蓮華経を信ずべき時
末法に生を受けた我々は、「本未有善の衆生」と言われます。「本未有善」とは、いまだかつて南無妙法蓮華経の下種を受けたことがない、あるいは完全にその本種を失ってしまい成仏の根源である仏種が「無」となった状態を指します。ですから、我々本未有善の衆生は、釈尊のような垂迹仏や、阿弥陀如来のような架空の仏を拝んでも、種のない畑に肥料や水を撒くようなもので、成仏という果を得ることは絶対にできません。
本未有善の末法の衆生は、久遠元初・本因妙の本仏であられる日蓮大聖人の仏法を素直に信じ、成仏の根源種である南無妙法蓮華経の下種を最初から受けていく必要が、誰にでもあるのです。
今、南無妙法蓮華経の大御本尊を目の当たりに拝することのできる我々は、これより先、けっして退転などせず、素直に日蓮大聖人の仏法を信じて、かつて地涌の菩薩方がそのまま信じて即座に成仏し、永遠の時の流れの中、常に大聖人とともに同じ道を歩み、時には大聖人の代理として、人々を救済する大慈悲を起こして折伏に挑戦していく。尊い功徳の人生、功徳の道を歩んでいくことこそ、自身の尊い仏縁と使命を全うする唯一の道と言えるのではないでしょうか。