《参考》
「国立戒壇」の生みの親・田中智学と国柱会
「国立戒壇」という言葉は、仏教系新宗教の在家団体である立正安国会(後の国柱会)の創立者・田中智学(邑之助)が、1902年に著作した『本化妙宗式目』で、はじめて造語し使った用語です。
田中智学の思想について 主なもの
『日蓮主義教学大観 田中智学先生講述 山川智應居士整記』(天業民報社発行)
●御書には『勅宣並に御教書を申し下して』とある。勅宣は戒壇建立の大詔である。御教書とは院または関白将軍などからしたさるる文書をいふので、鎌倉時代では幕府の下文である。今日の時代でいはゞ、国会の議決ともいふべきものである。此国会の議決を得るには、一国の大勢を日蓮主義に帰せしめねばできぬことである。(同書2271ページ)
●されば本化の正義一国を動かし、天皇陛下一たび憲法改正の勅を下したまひ、帝国議会之を翼賛し奉り国教奠定(てんてい)せられ大戒壇建立の暁は…(同書2325ページ)
●「総じて一乗南無妙法蓮華経を修行する処は、如何なる所なりとも常寂光の都霊鷲山なるべし。此の耆闍崛山(ぎしゃくっせん)中とは煩悩の山なり。仏菩薩等は菩提の果なり。煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給へり。諸仏は法性の依地、衆生は無明の依地也。此の山を寿量品にしては本有の霊山と説きたり。本有の霊山とは娑婆世界也。中にも日本国也。(これ)法華経の本国土妙娑婆世界(の法門)也。(日本国とは)本門寿量品の未曾有の大曼荼羅(即ち本門本尊)建立の在所(妙法本縁の国土にして、本門戒壇の地)也」(日向記)とある。
総じての意は理の戒壇をあらはし、別して『中にも』の下には、事の戒壇の義を含められてある。理の戒壇の方からいふと、世界いかなる所でも、この法華経を修行するところは、みな寂光土である。本有の霊山である。當処即戒壇である。併し別して事の方からいふと、世界の中においても、特に妙法本縁の地、真の霊山事の寂光とし、実の戒壇の霊土とせねばならぬ地がある。御文に『大曼荼羅建立の在所也』と仰せられてある。建立はその初めの開宣の地に約し、在所とは常住の霊土に約するのである。(同書2632ページ)
●勅宣 (時の天皇陛下は是においてか、朕、祖宗建国の垂教と、本化開教の規模と密契孚應(ふおう)して些の欺罔あることなし。宜しく天祖授国の洪徳、皇孫養正の遺訓に則り、本門戒壇を此国に建奠(けんてん)して、以て萬国の王臣天地の神祇、斉しく帰敬の正的とし、天人を一如し、六合を兼蓋して、天地とともに人をして一道に住せしめん。爾忠愛の臣民、また朕が意を体して之を翼賛せよ、とやうの意味の大詔を下され、憲法の信教自由の条項改正の案が下される)
●並びに御教書を申下して (帝国議会は、為めに特別議会を開きて、満場一致を以てこれを翼賛し奉る) (同書2641ページ)
国柱会とは
国柱会の名称は、日蓮大聖人の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から、田中智学によって命名されたものです。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」といいます。当然のことながら、本化妙宗という宗派は、日蓮正宗とはまったく異なる宗団です。
また「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われたものです。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、田中智学が、日蓮大聖人の教えを近代的に体系化しようとした意図を表しています。
田中智学の思想・信仰
国柱会の根本の理念は、形骸化した伝統宗門(身延日蓮宗等)の改革と、近代化を在家主義の立場から目指そうとしたものといえます。
国柱会には、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などの機関があります。田中智学は、各法華宗や日蓮宗宗派を統一し、それが成功したならば、つづいて他の宗派までも含めて統一しようという宗教革命を志したようです。田中智学はさらに、皇祖皇宗の日本国体をも法華経のもとに体系化することを究極の目標に活動するようになりました。
国柱会の教えや儀式の中には、田中智学の思想である「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張を基として、法要時の礼服、祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を取り入れたものとなっています。つまり、日本古来の神道、そして明治政府によって作られた国家神道、そして奈良朝以降、歴史を経るごとに発生していった既成仏教各派など、キリスト教や新興宗教等を除く古くからの日本の宗教を、日蓮大聖人の教えの基に統一しようと試みたのです。(しかし、田中が日蓮大聖人の教えと信ずるもの自体が、日蓮正宗に伝持される正しい血脈からはずれたものですから、そもそも、間違った宗教をどれだけ統一したとしても、何の意味もないものでした…)
なお、「本化妙宗」という宗派としての信仰の形態は、インド応誕の釈尊を教祖とし、日蓮大聖人を自宗の開祖と仰ぎ、拝む対象の本尊としては、日蓮大聖人筆の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」を根源の本尊と制定しているようです。
歴史 創始期
田中智学は、日蓮宗(身延派)の教えに疑問をいだき、日蓮宗の僧侶であった身から還俗し、最初に設立したのが「蓮華会」という組織です。蓮華会は1880年に横浜で結成され、その後、東京進出にともない1884年に名称を「立正安国会」に改名しました。
1902年、田中は日蓮大聖人の教義を組織体系化したと称する「本化妙宗式目」を発表。「国立戒壇」という言葉を造語し、初めて本書中に使用しました。
1903年頃から田中は、大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集め「本化妙宗研究大会」と称する会合を開催するようになりました。なかでも、神武天皇御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において田中は、日蓮大聖人の仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言しています。
1914年には名称を現在の「国柱会」に改称しました。
1923年には、議会政治に参画する目的で「立憲養正会」を結成し、その理念のなかで田中は、「国立戒壇」の建立を強く主張し、天皇の法華経帰依による日本の宗教革命(南無妙法蓮華経の教えを国教化すること)を究極の目的としました。
※ 田中智学が基とした「日蓮大聖人の教え」と称するものは、日蓮大聖人より日興上人、日興上人より日目上人へと代々、日蓮正宗大石寺に正しく伝持される唯授一人の血脈法体とは無縁のものです。よって、田中によるいかなる活動も、日蓮大聖人のご聖意に叶うものではなく、残念ながら、国柱会に籍を置き、いかに自行化他に亘って題目を唱えたとしても、それらの修行は、成仏ための直道とはなりません。