「南無」の意味について
『妙法七字拝仰上巻』(大日蓮出版発行)より一部抜粋
一、南無の語義
まず、「南無」と「妙法蓮華経」には、翻訳(ほんやく)の上に音訳と意訳の違いがあります。南無というのは、元々は梵語(サンスクリット語)であり、梵語で「ナム」と発音します。そのナムの音を漢字に当てたのが「南無」という字であります。
ところが「妙法蓮華経」の五字は、梵語では「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」(サッダルマ フンダリキャ スートラ)と発音します。それを妙法蓮華経と訳したのは、漢語による意訳であります。つまり「薩」は妙、「達磨」は法、「芬陀梨伽」は白蓮華、「蘇多覧」は経ということで、妙法蓮華経と訳されたのです。
よって、梵音で読むのが南無で、妙法蓮華経は意義の上から訳した漢語を読んでいるわけです。しかし、羅什三蔵が翻訳した妙法蓮華経が、他の訳者の題と異なり、本来の法華経全体の内容を正しく具えておるのであります。
次に何故(なにゆえ)、南無が梵語の発音で、妙法蓮華経が漢語音なのかということについては、それぞれ「有翻」(うほん)と「無翻」(むほん)という大事な意味があります。
有翻というのは、言語の異なる地方へ仏教を弘めるために、その国の言語に翻訳して、語意を明らかにしていくことです。無翻というのは、逆に梵語の音をそのまま漢字に宛てることです。これは、翻訳してしまうと本来の意義が失われてしまうということから、むしろ翻訳せずに、その言葉の響きによって、そこに含まれておる深く尊い意義を、そのまま自らが仏道修行において体現していくということです。このように、翻訳をしたほうが良い場合と、しないほうが良い場合との両方があるのです。
妙法蓮華経は、羅什三蔵が非常に適切な意義で翻訳をした意味において有翻であり、南無は梵音の「ナム」が本当に深い意味を持っておるということから無翻であるということです。
この南無という語を訳した場合に、一番適切な意義としては「帰命」(きみょう)ということがあります。
「妙法七字拝仰 上下二巻」(大日蓮出版発行)
電話 0544-59-0530
①帰命
この「帰命(きみょう)」とは命を帰(き)すということで、これは自分が行っている信仰の対象だるべきところに、自らの命を帰すという意味です。
この基本的な意味は、あらゆる宗教に存するのであります。ただ、宗教の違いによって南無(帰命)する対象が違うことから、その人その人が受ける利益の内容も天地の如く違ってきます。ですから、大聖人様は、
「本尊とは勝(すぐ)れたるを用(もち)ふべし」(御書1275)
と仰せの通り、何に対して南無(帰命)するかということが非常に大事なことなのです。
この南無(帰命)ということには「没我」という意味が含まれています。つまり、命を帰すという意味は、信仰の対象に対し、自分自身の我(が)を没するということであります。したがって、自分自身の我が強く、正直で素直になれない人間は、心からの帰命ということができません。
世の中には、自分が他人よりも多少、勝れている点があることを誇大(こだい)に考えて、自分の考えるところ、行くところ敵なしと、うぬぼれている人間もおります。しかし、よく考えてみますと、いくら勝れているとしても、一人ひとりの能力や寿命には限界があります。自分で自らの能力を見定めてみても、世の中の全体的な法則から見れば微々(びび)たるもので、必ず諸苦が付きまといます。この慢心(まんしん)や我見(がけん)が強いと、帰命の心に至りません。
その諸苦とは、一切衆生につき仏様が仰せられるところの、定まった生、老、病、死という苦しみや、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)という苦しみであり、これに常に苛(さいな)まれておるのです。経文に、
「憂悲苦悩」(法華経150)
という言葉がありますが、この「憂」は心のなかに憂いを持つことであり、「悲」は悲しみを持つことです。そして「苦」は肉体的、精神的、あらゆる種類の苦しみのことであり、「悩」は心における悩みであります。これは人によって様々ですが、世の中には、たいした事柄でないようなことでも、くよくよ悩んでいる人もおります。この「憂悲苦悩」というものは、人間であり、生命のある以上、常に我々に付いて回っておるのです。
では、この憂悲苦悩というものが、何によって起こってくるのかと言いますと、要するに、小さな自己の我(が)に執(とら)われるところから起こってくるのです。自分自身というものをどのように掴(つか)み、どのように考えておるかということによって、我というものについての見方、考え方、捉(とら)え方の高低の差はありますが、我を本当に徹底して対処する方法は何かと言いますと、これは没我であり、帰命なのです。
本当のものに対して、自らの命を帰すというところに真の自己の顕れがあり、真実の見定めがあるのです。そこには毅然とした強さが顕われてきて、恐怖や不安は次第になくなるのであります。
私も修行が不充分ではありますが、真実の仏法の因縁が解らない人々より、うそ八百の誹謗中傷、悪口三昧をどれほど言われようとも、少しも臆することはありません。人によっては「よく堪えられるな」と思う方もおるかも知れませんが、常に南無妙法蓮華経とお題目を唱えて仏様に命を帰しておるのでありますから、何が起ころうとも動揺することはないのです。常日ごろの唱題修行が大事であり、そこに本当の安楽という境界が、おのずと顕われてくるのです。本当に命を帰すところに、常楽我浄(じょうらくがじょう)の四徳中の楽ということが存するのであります。
今の世の中は、本当の南無(帰命)の意義と、その対象の是非を判っていない人が多く、それだけ人々が迷っておるのです。(中略)
大聖人様は『佐渡御書』のなかで、
「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる。諛臣(ゆしん)と申すは是なり」(御書579)
と示されました。畜生は相手が弱いと思うと、本当に徹底していじめるのです。人々が畜生界の心になっているから、いじめておもしろがります。これが、学校や社会のなかでのいじめの姿であります。
例えば、今までいじめられていた者が正しい信仰を持ち、または目覚めて、法華経に命を帰すことによって、「臆するものは何もない」という覚悟を持ち、毅然とした態度で相手に接するならば、畜生は強い者に対しては弱くなりますから、相手はその変化に気づいて、「これは脅(おど)してもだめだ」と判り、いじめが消滅するという意味も存するのであります。
現在、いじめ問題が相変わらず、あとを絶たないのは、今の教育家が、人の性(しょう)に十界があり、特に低級な六道が充満していることを解っていないからなのです。五濁乱漫の世の中においては、お互いがこのような悪思想を見習ってしまって、社会の風潮にまでなっているのです。ですから、一人ひとりがそのところをはっきりと自覚して、正法を受持し、毅然として立ち上がることが大切です。
自分自身の命を、尊い大聖人様の仏法に対して帰すところの修行が出てくれば、自分自身の問題がまず解決します。そして、自分自身が正しい解決をすれば、それが次第に、他にも及んでいくのであります。このような意味で、やはり南無(帰命)ということが非常に大事であります。
大聖人様は『立正安国論』において、
「世皆(みな)正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てヽ相(あい)去り、聖人所を辞して還(かえ)らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」 (御書234)
と仰せになっております。「世皆正に背き人悉く悪に帰す」の「正に背く」ということはどういうことかと言いますと、正法に対して南無(帰命)する心を忘れているということです。これを忘れるが故に、「災起こり難起こる」という結果になるのであります。
また、この御文の「魔来たり鬼来たり」というのは、そのような五濁乱漫の世の中からは、あらゆる姿をもって、おのずと色々な魔や鬼が現われてくるのであります。
お釈迦様が成道した時なども、あらゆる魔が猛烈な勢いで迫害をもって現われてきました。今の世の中においても、人々の肉体と精神が魔の用(はたら)きによって自他を苦しめたり、あらゆる堕落を生じさせて落とす陰魔(おんま)、人の命を滅亡に誘う死魔、心の迷いとして貪(むさぼ)りと䐜(いか)りと愚癡(ぐち)その他の悪心が魔の用きをなす煩悩(ぼんのう)魔、六道のこの世を領し、大勢力をもって衆生を悪道に導き堕落せしめる天子魔が必ず存在します。また、種々の病気の原因をなす、様々な菌が発生しておりますが、あれも鬼の一つであります。
社会が紊乱(びんらん)して謗法(ほうぼう)の姿が現れてきますと、自然にこのような魔や鬼が色々な姿をもって現われてくるのです。これらも、大聖人様の御指南を拝して世の中の実相を見れば、真の正法に対する南無(帰命)ということが忘れられているからであり、正法による強力な折伏教化が必要であります。
②度我
先ほどの問題と同様、自分自身の悩み、苦悩を解決するために、「我れを度し給へ」と願うということが「度我」(どが)であります。
これは、正法正義に対して素直で謙虚な、真実の道を開く心であります。つまり「南無」という言葉のなかに、この度我という意味が存するということであります。我見(がけん)に執(とら)われて宗教を否定する者は、この度我(どが)の心が解りません。しかし、小さな我(が)にのみ頼る人生観は誤りであり、必ず窮乏(きゅうぼう)に至るのです。
③驚怖(きょうふ) 驚覚
「驚怖」というのは、怖れおののくということです。
衆生の生死の姿というものをよく見た上で、真剣にお題目を唱えて、怖れを浄化しておるちおう人は、これはたいへん立派な姿であると思います。ところが、我々が生活をしていくなかには、病気や事故などのあらゆる険難(けんなん)が存するのでありますが、これらを何も考えずに平然としておるという姿は、人生において正しい生き方とは言えません。大聖人様は『富木殿御書』に
「賢人は安きに居て危(あや)ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲ふ」(御書1168)
と仰せの如く、「賢人」は安楽な境界にいたとしても、常にいつ、どのようなことが起こるか判らないということをしっかりと肚(はら)に入れて生活しており、「佞人」はいつ、いかなる状態が起きて不幸のどん底に陥(おちい)るか判らないというような行いをしていながらも、自分自身はいつでも安泰であり、安らかであると思って生活しているのです。
ですから、このような点からも、自分自身がいい加減な気持ちで何も考えずに生活をしていくと、いつか取り返しのつかないことになるという意味で、この危うきを怖れる「南無(驚怖)」ということが大切であります。
④尊敬(そんぎょう)
これは『開目抄』の
「夫(それ)一切衆生の尊敬(そんぎょう)すべき者三つあり。所謂(いわゆる)、主・師・親これなり」(御書523)
という御文がある通り、尊敬の対象は主と師と親であります。この主師親の三徳に対する尊敬が必要であるということは、一般的な意味からも言えるのですが、ここでは特に大事な仏法における、三徳兼備の仏様に対して尊敬するという意味が存するのであります。
⑤信順(しんじゅん)
「信順」とは、信じ順(したが)うことであります。この反対の意味としては「違背(いはい)」ということがあります。この違背ということには、仏の教えの心に違(たが)い背くということ、あるいは両親に対して違い背くということが謗法の姿であります。
最近の世の中は自由主義的な傾向にありますから、親の気持ちを無視して生活する人々も多いようです。また、そのような環境のなかで、親自身の心が非常に狭かったり、曲がっていたりして、子供を正しく教導することのできない状況も多々ありえます。
しかし、ともかく子供としては親を尊び敬いつつ、そして親を信じ、それに従うということが基本であります。したがって、本当の意味で自分自身の道を掴んでいくならば、逆に道に外れた親をも導くことができるのであります。
特に仏法の上の筋道より明らかに示される正法に対し奉り、心から信順することが最も肝要であります。
⑥稽首(けいしゅ) ⑦敬礼(けいらい)
この「稽首」と「敬礼」は共に、身口意三業のなかの身体という意味からの「南無」の表し方です。
稽首の稽は至るの意で、首は頭です。首頭をもって地に至る礼拝(らいはい)の相(そう)を稽首と言います。
よくインドの仏教徒が、両膝(ひざ)、両肘(ひじ)、そして頭を地面に付けて礼などを行っておりますが、この五体投地という事なども、稽首や敬礼に当たるのです。つまり、身体をもって尊敬を表すということであります。
しかし、日本の国土社会では、これを真似(まね)る必要はなく、要は姿勢を正し、手を胸のところで合掌し、礼拝をなすことが身体をもってする南無の義に当たります。
『御義口伝』に云わく
「南無とは梵語なり、此には帰命と云ふ。帰命に人法之有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉るなり(中略)帰命とは南無妙法蓮華経是なり」(御書1719)
右(上)文において、大聖人様は、何に対して南無するのかということを、はっきりとお示しであります。
「帰命に人法之有り」の「人」とは法を悟った人、大人格ということですから、これは仏のことであります。そして「法」とは、仏の悟られた法則、法理、真理という意味ですから、この人と法は、すなわち仏と法であります。
○釈尊の意味
次の「人とは釈尊に帰命し奉るなり」というのは、文義意のうちの文の上からの表現であります。釈尊一代の仏教は、ことごとく釈尊によって説かれておりますので、釈尊に帰命するということになります。
しかし、この釈尊ということを本宗の教義の上から判じますと、六種の釈尊に分けられるのです。すなわち、三蔵教の釈尊、通教の釈尊、別教の釈尊、円教である法華経迹門の釈尊、法華経本門の釈尊、そしてさらにもう一歩立ち入ったところに、真実の寿量品の文の底に秘し沈められた付嘱の法体を受けて末法に出現し給うところの寿量品文底の釈尊が存するのです。
この釈尊が、日蓮大聖人様であります。ですから「人とは釈尊に帰命し奉るなり」の元意は、寿量品文底の釈尊たる日蓮大聖人様に帰命し奉ることです。
○帰依すべき法とは
次の「法とは法華経に帰命し奉るなり」ということも、一代仏教のなかにおいては五千・七千の経巻に色々な筋道、立て分けがありますが、全体の帰結から言いますと、釈尊一代の教えはことごとく法華経に極まるのです。したがって、法華経に南無(帰命)するということであります。これは、あらゆる御書の総括の意でありますが、これをさらに一重た深く拝せば、法華経にも種熟脱、広略要、文義意の別があり、その帰結として『経王殿御返事』に
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じっせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書685)
という御文があります。これは大聖人様が経王殿に対して御本尊を授けられたところの尾文でありますが、このなかに種熟脱の化導の上から、在世脱益(だっちゃく)の法華経と、末法下種(げしゅ)の法華経(南無妙法蓮華経)、そして脱益の化主(けしゅ)たる釈尊と、下種の教主たる日蓮大聖人という立て分けが、はっきりと拝せられるのであります。
したがって、「法とは法華経に帰命し奉るなり」ということは、ここには一往、釈尊に対応した形で示されておりますが、末法においては当然、南無妙法蓮華経に帰命し奉ることでありますから、最後に「帰命とは南無妙法蓮華経是なり」と仰せになっておるのです。
この「帰命とは南無妙法蓮華経是なり」の「帰命」と言うことは、前の行に「帰命に人法之有り」とあることからも、法のみでなく、法と人への帰命なのです。すなわち、大聖人様は『諸法実相抄』に
「されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用(ゆう)の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐(おわ)し候へ」(御書665)
とお示しであります。
この「釈迦・多宝」の多宝(たほう)如来という方は、法華経の見宝塔品第十一の後半から嘱累(ぞくるい)品第二十二までの十一品半(虚空会・こくうえ)のみに出現され、しかも法華経以外の経典には出てこられないのです。大聖人様が『四条金吾殿御返事』のなかで、
「諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智の二法なり」(御書598)
と仰せられた、法義上、非常に大事な仏様であります。
しかし、この大事な仏様である「釈迦・多宝の二仏」さえも、『諸法実相抄』においては「用の仏なり」と断ぜられており、そのあとに「妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ」と仰せられているのです。これは、妙法蓮華経が仏様であるという意味です。つまり、この南無妙法蓮華経には久遠元初(がんじょ)の人法の深い意義が込められております。
南無妙法蓮華経に帰命するということは、単に法のみに帰命するということではなく、久遠元初の人法の深い意義が込められたところに帰命するということなのです。よって、人法(にんぼう)一箇(いっか)の南無妙法蓮華経に帰命することが、真実の帰命であります。
※当該御文について、当ホームページ編集者が、読みやすいように「ふりがな」をふったり、「項目」をつけさせていただいた箇所があります。