信仰は、弱い人間がするもの?
多くの場合、「強い人」とは、ひとつの目的に向かって種々の障害があろうとも、それを乗り越えていく努力ができる人のことを言うようです。一方、目的に立ち向かっていくことは同じでも、途中で挫折してしまったり、ひとつの事が長続きしない、移り気な人のことを意志の「弱い人」と言うようです。
しかし、目的の違いや環境、国の制度、社会の有様などの違いによって難易の度合いも異なりますから、いちがいに、「あの人は意志の強い人」「あの人は、どんなことも中途半端な弱い人」と決めつけることはできません。
また、自分では「意志が強い」と思っている人であっても、人の心は常に変化していくものです。周囲の環境の変化によって変わっていくのが人間の心です。したがって、その変わりやすい自分の考えや心を中心として、その心が変化するままに思い思いに行動していくならば、それは、ちょうど羅針盤のない船のように、どこへ行き着くのか見当もつきません。常に右往左往しながら、進んでいかなければならないのであり、「自分の信条を頼りに、強い意志を持った人こそが、強くたくましく生きていく人」ともまた、一概にはいえません。むしろ日蓮大聖人は
「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」 (曽谷入道殿御返事・新編御書794)
と、自分の心をすべてのより所とするのではなく、正しい人生の道を説く仏の教えを心の師として、弱い自分に打ち勝っていくべきであると教えられています。
なかには、何事に対しても消極的で、常に何かに頼っていこうとする人が、たまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「宗教は弱い人間がすがりつくものだ」と考える人もいるようです。
しかし、たとえ意志が弱いと言われるような人であっても、真実の宗教である日蓮大聖人の教えによって種々の困難を克服していくならば、これほどすばらしい人間改革の道はありません。
事実、意志の弱さや病魔、種々の宿業による困難を、南無妙法蓮華経の題目を唱えていくことにより、すべて乗り越えることができた体験を持った人たちが、現在、社会の各分野で活躍し、大聖人の仏法によって、大きくその境界を開いています。
このような現実社会のなかで、人材として蘇生していく姿こと偉大な仏法の力を証明するものであり、信仰は弱い人間がすることだと決めつけるのは、早計すぎる認識といえるのではないでしょうか。
(当該文章は、「正しい宗教と信仰」に掲載されている内容に、一部筆者が手を加えたものです)
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