たしかに信仰は、他人に強要(きょうよう)すべきものではありませんし、他人から強要(きょうよう)されて、できるものでもありません。
日蓮正宗で説く「折伏(しゃくぶく)」とは、他人に信仰を強要(きょうよう)することではなく、日蓮大聖人の教えの尊(とうと)さと、みずから体得(たいとく)した信仰の感動(かんどう)を、ひとりでも多くの方に語り伝え、人生の喜びを分かち与えたいと思う慈悲心(じひしん)の発露(はつろ)なのです。
たとえば、病気の子供が、「薬は苦いから、飲まない」と我が儘(まま)を言うとき、親はそのままにしておくでしょうか。多少の無理を押してでも、子供に薬を飲ませるのではないでしょうか。
折伏(しゃくぶく)とは、まさにこれと同じなのです。なぜなら、日蓮大聖人の仏法は大良薬(ろうやく)にたとえられ、人間が生きていくための真理の道が説かれているからです。
真実の仏法を知らない人は、長い人生の間に、次第に次第に、人生の真の目的を見失(みうしな)い、正法の功徳を受けることもできず、無味乾燥(むみかんそう)の一生を送らなければならなくなります。そうしたことがないよう、真実の仏法をひとりでも多くの人に伝えたいと思う慈悲(じひ)の心が、「折伏(しゃくぶく)」という行動にあらわれてくるのです。
また、親なればこそ、我が子に、「やっていいこと」と「やってはいけない」ことを厳(きび)しく躾(しつ)けるように、折伏(しゃくぶく)は仏の教えの中に正邪(せいじゃ)のけじめをつけて、正しい仏の教導(きょうどう)に従(したが)って諭(さと)し示すことでもあります。
あなたも、たとえば、すばらしい経験(けいけん)をしたときや、隠(かく)れたグルメの名店をやっと見つけた時など、大切な人に「同じ感動(かんどう)を味わってもらいたい」、「美味しいものを、食べて欲しい」と願い、素直な気持ちで、その良さを説明し、行動を促(うなが)した等の経験はありませんか。
日蓮正宗で行なう「折伏(しゃくぶく)」は、他人に信仰を強要(きょうよう)することではなく、実際に、私たちが南無妙法蓮華経の信仰を通して知り得(え)た、人生で一番大切なこと、人として生まれてきた尊い意義を伝え、「精一杯(せいいっぱい)に、今を生きる喜び」を共に分かち合いたいと願い、それを説(と)いていく大きな慈悲(じひ)行なのです。
※この文章は、「正しい宗教と信仰」掲載の文章を、内容の概略に変更が生じない程度に、筆者が一部手直しし、まとめたものです。
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日蓮正宗 妙通寺(妙通寺・日蓮正宗でも検索可)
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