信仰するほどの悩みはない、今の生活で満足だ という方へ
「信仰するほどの悩みはない」という言葉は、言い換えると「悩みのない人は、信仰する必要がない」ということになります。しかしこれは、残念ながら、信仰というもの自体を、正しく理解されていないことと言わざるを得ません。
仏がこの世に出現された目的は、「仏知見(ぶっちけん)」すなわち、いかなるものにも壊されることのない清浄で自在の境地と、深く正しい智慧を、人々に開かせ、示し、悟らせ、入らせるためであると法華経には説(と)かれています。
そして法華経宝塔品(ほうとうほん)には
「此(こ)の経を読み持(たも)たんは 是(こ)れ真の仏子(ぶっし) 淳善(じゅんぜん)の地に住するなり」(大石寺版 法華経355㌻)
と説かれ、正しい仏法に帰依(きえ)する人は真実の仏子であり、清浄で安穏(あんのん)な日々を過ごすことができると教えています。
日蓮大聖人も
「法華経は現世安穏・後生善処の御経なり」(御書 723㌻)
と仰せられているように、安穏な日々とは現在ばかりでなく、未来にまでも、ずっと続いていくものでなければ、真の幸福のもととは言えません。
楽しいはずの家族旅行が事故に遭って一瞬にして悲惨な状態になったり、順調に出世コースを歩んでいた人が、一時(いっとき)の迷いから人生の破滅を招いたりすることは、しばしば耳にすることです。今が満足できる幸せな状態だから、それで良いという人は、よほど自分だけの世界に閉じこもってしまっているか、直面している色々な問題や障壁(しょうへき)を、見て見ぬふりをしている人といわざるを得ません。
私たちの周囲を見ても、世界では毎年数多くの戦争被害者が出ており、私たち日本においても、いつ戦乱の渦中に巻き込まれないという保障はどこにもありません。あるいは、数年前の私たちの中で、2020年に大流行した新型コロナウイルス感染症の世界的パンデミックを予想していた人が、一体何人いたことでしょうか。
あるいはもっと身近なところでも、家族や親戚にかかわる悩みはまったくないのでしょうか。子供の教育問題や親または自分の老後の問題などを考えても、「今の生活で満足だ」と、のんびりしているわけにはいかないと思います。
日蓮大聖人は
「賢人(けんじん)は安(やす)きに居(い)て危(あや)ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲ふ」(御書 1168㌻)
と仰せられ、賢人は安穏な時でも、常に先々の聞きを想定して心を砕き、準備に怠りなく振る舞うが、考えが浅く、その場しのぎの快楽にあけくれることばかりを常に願っている人は、自分が大変危険な状態に追い込まれていても、それらを直視せず、安逸(あんいつ)をむさぼろうとするだけである、という意味です。
今が幸せだということは、たとえていえば平坦(へいたん)な舗装道路を、何の苦労もなく歩いているようなものです。しかし、長い人生には、険しい上り坂もあれば、泥沼のような道を歩まねばならない時もあるのです。そうした困難な道を歩む時には、普段よりも強い体力と精神力、そして臨機応変の智慧がなければなりません。難所(なんしょ)に突き当たってから、「自分はきれいな舗装道路しか歩いたことがないから、こんな道は歩けない」と弱気ばかり出して、前に進むことを早々に諦めてしまう人こそ、不幸な人と言うべきではないでしょうか。どんな険難悪路に遭遇(そうぐう)も、それを、自分に課せられた試練として前向きに捉え、堂々と乗り越えていく力を持つ人こそ、本当の意味で、“幸せな、勇気ある人”と言うできでしょう。
強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏の智慧と悟りが示されている正しい仏法に帰依し、信心修行を積まなければ、けっして開発されるものではありません。どうか目先の世界や、自己満足に閉じこもることなく、「面倒だ」と逃げの姿勢に転ずることなく、一日も早く正しい信仰を実践し、真に賢い人間となり、みずから満足し後悔の残らない素晴らしい人生を築いてください。
※当該文章は『正しい宗教と信仰(改訂版)』の文章を、編集者が一部手なおししたものです。