私たちは、「先祖の位牌(いはい)を祀(まつ)って供養する」と言えば、仏壇に先祖の位牌を安置し、本尊に向かうように手を合わせ、拝む姿を思い浮かべます。
もともと位牌は、中国において「魂の座」と称して儀式等に使われたものが、後に仏教に転入して用いられるようになったと言われます。特に、一般仏教の各宗派では、亡くなった人を仏と呼んだり、位牌そのものを「霊とか霊魂)」などと解釈させ、仏壇に先祖の位牌を本尊のごとくに安置させて、それを朝夕に礼拝する習慣を生みました。
しかし本来、位牌は御本尊のように信仰の対象として拝むものではありません。また、位牌を拝んだからといって、先祖の霊が慰められるものでもありませんから、正しく先祖供養することにはなりません。
そもそも、拝むとか祈るといった行為は、「感応(かんのう)同交(どうこう)」と言って、祈りの対象(対境)となるものと、それを祈る私たち人間の生命とが互いに通じ合い、そこに深い作用が働いて祈りが叶います。
例えば、稲荷信仰のようにキツネを神の使いとか神として祀る神社等に手を合わせて祈ったりすると、キツネ(畜生)の命がそのまま祈る私たちの生命に感応し、人によってはキツネに取り憑かれて「キツネ憑(つ)き」となったりして、大きな悪影響を及ぼします。
同じように、私たちが位牌等を拝む対象とすれば、位牌を故人そのものと見立てて祈りを捧げるわけですから、故人の業や罪障までもが私たちの命に感応してしまいます。言い換えれば、位牌を拝み、先祖を崇拝することは、亡くなった故人の罪障や罪業をも背負うことになりますから、故人が成仏できないばかりでなく、祈る私たちも共に苦しむ原因となる、悪業の因を積むことになってしまうのです。
人が死ぬと地に返す(土葬)か、火に返す(火葬)か、水に返す(水葬)、さらには自然に返す(風葬)等をもって葬るように、人間は死ぬと元の元素(地・水・火・風・空の五大=五つの要素)に戻ります。すなわち、人間を形作った肉体は死によって分離され、見た目には無に帰したかに思われますが、心に刻まれた業(ごう=善業・悪業等)は滅することなく法界に遍満(へんまん)します。
日蓮大聖人が『持妙法華問答抄』に
「只先世の業因(ごういん)に任せて営むべし」(御書299頁)
と仰せられているように、私たちの今世は、先世(前世)の業を原因として生きるのです。すなわち、生まれてから死に至るまでの一生における善悪の果報(かほう・業)は、そのまま死後も持ち続け、私たちは未来世をこの業によって生きるのです。
ゆえに、間違った宗教や教えに惑わされると、それはそのまま悪業となって、今生で苦しむだけでなく、死後もその苦しみが続くのです。
日蓮大聖人は『阿仏房尼御前御返事』に
「夫(それ)、法華経の意(こころ)は、一切衆生皆成仏道の御経なり」
(御書905頁)
と示され、末法の一切衆生が成仏するためには、法華経による以外にないことを御教示されています。さらに『上野殿御返事』に
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」
(御書1219頁)
と示され、法華経以前のお経には、末法の衆生を救う力はなく、大聖人様が御示された三大秘法の御本尊様、すなわち文底下種の題目こそが、すべての人が救われる「皆成仏道」の教えなのです。
私たちの先祖も、大聖人が顕わされた御本尊によって救われていくのですから、三大秘法の御本尊様に向かって御題目を唱え、回向することによって、初めて先祖も喜ぶ真の供養となり、先祖が正しく救われるのです。
(大白法 883号6面を参照)
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