仏教説話
牛飼いの“後悔” 百喩経 巻の第一より
ある牛飼(うしか)いの男のもとに、ひと月後、たくさんの来客がある旨(むね)の連絡が入りました。男は、自慢の牛乳をつかった料理を振る舞おうと考えます。しかし牛は一頭しかおらず、多くの客人を一度にもてなすことができません。どうしたものかと悩んだ挙げ句、「そうだ、牛乳を搾(しぼ)らず貯(た)めておけばいいんだ。そうすれば、おいしい牛乳を大量に搾ることができるに違いない」と考えました。
さっそく子牛を遠ざけ、牛乳を搾るのをやめました。ひと月後、客がやってくると、男は満を持して牛乳を搾りますが、さっぱり出ません。ある客は怒り出し、ある客はあきれて笑いました。(大正蔵四ー五四三A)
法話 日頃から乳を搾らなければ、母牛から牛乳が出なくなるのは自然の道理というものです。この話は、大切なことは先延ばしせず、出来るときに即実行すべき大事を教えたものです。
乳搾りと信心修行や折伏実践を同列に捉えることはできませんが、「いつか、そのうち…」と先(さき)延(の)ばししたため、いざという時、折伏の一言が言えず、後悔が残った、そんな経験をお持ちの方も、おられるのではないでしょうか。
御法主日如上人猊下は
「普段の信心のなかで、もっともっと大聖人様への確信、御本尊様への絶対の信を持ち、自行化他にわたる信心をしていけば、必ず御本尊様の大きな功徳を頂(ちよう)戴(だい)できるのであります」(御指南集22 42ページ)
と御指南です。
私達は「折伏させていただきたい」との強い一念のもと唱題を重ねると、必ず誰かの顔が浮かんできます。ぜひその方に「私と一緒に信心しよう」と、気負うことなく声をかけてみましょう。これが、何よりも大事な修行である折伏実践の大きな一歩となるのです。