仏教説話「四人の友人」

 

 昔、インドのある都に、一人の金持ちの男がいました。男には、かけがえのない四人の友人がいました。
 一番目の友人は、男が一番大切に想っている友人で、いつも一緒で、離れることがありませんでした。起きていても寝ていても、立っていても座っていても、いつも一緒に行動する、かけがえのない友人です。
 二番目の友人は、男の方から「なんとか友人になろう」と一生懸命に努力して、ようやく友人になってもらった人で、とてもお気に入りの存在でした。
 三番目の友人は、とても気が合い、お互いに慰め合ったり励まし合ったりできる、精神的に強く支え合える、頼もしい存在の友人でした。
 そして四番目の友人は、男の言うことはよく聞いてくれるのですが、男はあまり大事にするわけでもなく、つい存在さえ忘れてしまうような地味な友人でした。
 あるとき男は、自分の住んでいる屋敷を出て、遠い外国に行く用事ができました。たったひとりで外国に行くのはとても寂しいので、仲がよく大好きだった一番目の友人に、当然一緒に行ってくれるものと思って外国旅行を誘いました。ところが友人は
 「あなたが私のことを大切に思ってくれるのは嬉しく思います。私もあなたと少しでも長く居たいのはやまやまです。しかし、残念ですが私は、あなたと一緒に外国に行くことはできません。ごめんなさい」
と言い放ったのです。男はがっかりしましたが、気を取り直して二番目の友人を誘いました。いくらなんでも、あれだけ一生懸命に努力した結果、友人になってくれたのですから、二番目の友人こそ一緒に行ってくれると思い、「一緒に行こう」と言いました。でもやっぱり
 「一番目の友人があなたと同行しないというのに、どうして私がお供できましょうか。もともと、あなたが一方的に私のことを好きに思っていただけで、私は、あなたのことは、なんとも思っていませんでした。あなたが、このお屋敷にいる間だけは、良い友達でいてあげますが、あなたが屋敷から一歩でも外へ出たら、そこでお別れしたいと思います」
と言い出しました。
 男はがっかりして、三番目の友人を誘いました。その友人は
 「私はあなたに、いろいろお世話になってきたし、あなたの事は大好きで、ずっと離れたくないけれども、私には私の生活や人生があります。ですから、やはりあなたと一緒に外国に行くことはできません。しかし、これまでお世話になった御礼に、屋敷を出てから、せめて国境まではお見送りするとしましょう」
と言いました。
 男は、大切にしてきた三人の友人にあっけなく同行を断られ、大変ショックを受けました。
 男は仕方なく、日頃はあまり気にもとめず、冷たく接していた四番目の友人に、一応、聞くだけ聞いてみました。
 「よかったら、一緒に外国に行って欲しいんだけど…。イヤならいいんだが…」
 男は端(はな)から断られるとばかり思っていましたが、四番目の友人からは、意外な返事が返ってきました。
 「私はあなたにずっとついていきます。苦しいときも、楽しいときも、死のうが生きようが、あなたと、どんなことがあっても、ぜったいに離れません」
と言ってくれたのです。
 こうして男は、いつも仲良しだった友人たちとはあっけなく別れ、どうでもよかった四番目の友人と遠い外国に行くことになりました。

 

 この話について、お釈迦様は、次のように説明されています。
 「屋敷」とは、私たちが生きている「この世」です。遠い外国とは「死後の世界・あの世」を指しています。男とは、私たちの魂(たましい・生命の実体)をいいます。したがって、男が屋敷を出て遠い外国に行くことになったというのは、人が死ぬことを表わしているのです。
 さてそこで、一番の友人とは、その人の「肉体」を顕わしています。生きているときは、魂と体は常に一体であり、手も足も魂(生命)の思うがままになりますし、悲しいことがあると自然に涙が流れ、嬉しいことがあると自然と笑顔になります。寝ても起きても魂(生命活動)と体は、いつも一緒なのです。ですから人は、自分の肉体を一番大事にします。でもいざ死ぬ時になれば、その瞬間から魂と体は別々になり、体は地上で亡び、すぐに無くなってしまいます。ですから、一番大切な友人である肉体からは、「あの世へご一緒することはできません」と断られてしまったのです。
 二番目の友人とは、財産や名誉、地位などを指します。お金があれば好きなことは何でもできますし、欲しいものも手に入れることができます。スターや有名人になれば、みんなから羨望(せんぼう)のまなざしで見られます。みんな、お金や地位によって、何でも手に入る、最高の幸せが得られると思い込んで、せっせと頑張るものです。
 しかし、地位や財産ばかりを大事にする人は、最初のうちは「百万円あれば最高に幸せだ」と思うのですが、いざその百万円を手に入れた途端に、「一千万円なければ、本当の幸せではない」と思うようになり、いつまでも心が満たされず、何かに急(せ)かされるように生きていかなければならなくなります。そんな姿は「自己の境界に満足できる安らぎのある幸せ」とはほど遠いと言えましょう。しかも、いろいろなことを犠牲にして手にした地位や財産も、死を迎えると瞬時に奪い取られ、なに一つ死後の世界には持って行くことはできません。「肉体さえ持って行けないのに、どうして地位や財産をあの世に持って行くことができましょうか」と二番目の友人に断られた通りです。

 

 三番目の大事な友人とは、ご主人、奥さん、子供などの家族、親友や恋人など、その人にとって大切な人たちです。生前、どんなに好きだった人でも、生きがいだった子供であっても、いつかは死別せねばなりません。三番目の友人は、「せめて国境あでお見送りします」と言ったのは、「火葬場まで、あるいは墓場までは、涙を流しながらついていく」けれども、一緒に棺(ひつぎ)に入ったり、土の中にまで同行してくれるわけではありません。
 結局、肉体や財産、地位や家族、恋人、親友は、人生には不可欠の大切なものではありますが、一生を終えて、死出の旅立ちの際には、誰一人、何ひとつとして、同行してくれるものではないのです。
 ところで、最後の四番目の友人。それまであまり好きでもなく、どうでもいいと思っていた友人だけは、「どこまででも、ついていきます」と言ってくれました。それは何かといえば、自分の心にある「仏性」こそ、最後の友人であるというのです。
 人は普段、自分の善悪の心という存在はあまり意識せず、つい他人の言葉や、物、お金などに惑わされてしまいます。そして貪(むさぼ)る心、怒りの心、そして愚痴(ぐち)の心、おごり高ぶる心に魂が覆われて汚(けが)され、争いを起こし、地獄・餓鬼・畜生・修羅といった苦しみの環境をみずから作り出し、我が身を不幸へと導いていく人がとても多いのです。
 その原因はひとえに、自分の心をみつめることをしないからです。
 自分の心の奥底に本来持っている仏性(仏様のような慈悲深く、他人を大事にし、他人のに尽くそうという尊い心)を芽生えさせていきさえすれば、生きている時も、また死んでしまった後でも、その人はいつでも幸せな環境で、過ごしていくことができるのです。
 その仏性を芽生えさせていく力、心の奥底で眠ってしまっている仏性を呼び起こしていくのが、南無妙法蓮華経の御本尊様に向かって、「南無妙法蓮華経」とのお題目を唱えていく意味になります。日蓮大聖人様は
「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(平成新編御書1173ページ)
と教えられています。そしてその心の財を、一生にわたって磨いていく修行こそ
 「衆生の心けがるれば土もけばれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり(中略)深く信心を発こしt、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(平成新編御書46ページ)
と仰せのように、日蓮大聖人が顕わされた根源の正しい御本尊(総本山大石寺に伝えられる本門戒壇の大御本尊)に向かって行なう唱題行であるといえます。

 

 物の豊かさよりも心の豊かさが人生を豊かな物とし、体の健康よりも心の健康こそが幸せを感じていく絶対条件です。
 今日からは、いままでどうでも良いと思っていた四番目の友人(自身の心に具わる仏性)を大切にし、常に仏性を顕わしつつ健康で元気な、慈悲あふれる毎日を過ごしていくため、唱題によって絶え間なく心を磨いていきましょう。

 

※『妙教誌四三号(平成八年四月七日発行)二二ページ』掲載 同題の原稿に、筆者が一部手を加え、また、読みやすいように仮名を漢字になおした箇所があります。

 

     信じるものが変わると 価値観が変わる

 

     価値観が変わると 人生が変わる

 

     さあ、私たちと最高の信仰をしてみませんか!

 

 

大石寺 奉安堂

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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