仏教説話 古井戸の蔓草と白黒のねずみ
ひとりの男が罪を犯して逃げた。追手が迫ってきたので、彼は絶体絶命になった。ふと足元を見ると、古井戸があり、藤蔓が下がっている。彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りて隠れようとした。すると井戸の底では毒蛇が口を開けて男が落ちてくるのを待ち構えているのが見えた。
しかたなく、その藤蔓に掴まり、しばらくじっとしていた。やがて手が抜けそうに痛くなってきた。そのうえ、命綱にしていた藤蔓を、白黒二匹のネズミがかじりはじめた。
掴んでいた手の力が抜けたとしても、また、ネズミにかみ切られたとしても、どちらにしても男は、毒蛇の餌食にならなければならない。
そのとき、ふと頭をあげてみると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と、口元へとしたたり落ちてくる。すると男は、自身の危うい立場をすっかり忘れ、うっとりし、もう一口、もう一口欲しいと欲を張るようになったのである。
この譬喩で「ひとり」とは、人は、生まれてくる時も死ぬ時も孤独な存在であるということ、追手や毒蛇は、欲望の元となる色心であり、古井戸の藤蔓は人の命、白黒ネズミは歳月を示し、蜂蜜のしずくは、眼前の欲望のことである。 『譬喩経』より