仏教説話
おしゃべりな亀
昔、インド一体がひどい干ばつに見舞われたことがありました。あたりを見回しても、雑草ひとつ生えていません。そんな中、ある池に一匹の亀が住んでいましたが、その池の水も干上がり、亀は今にも死にそうです。
すると、どこからか一羽の鳥がやってきて、池の底をついばみながら餌を探しています。「鳥は羽があって、どこへでも行けていいな」と羨ましく思った亀は、鳥に話しかけみました。
「鳥さん、実はお願いがあります。ご覧のように日照り続きで池の水も干上がり、このまでは私は死んでしまいます。その点、あなたは羽があって、大空をどこへでも行くことができる。どうか私も、どこか水のある素敵な所へ、一緒に連れて行ってくれないでしょうか」
「亀さん、あなたの苦しみはよくわかります。実は、山を一つ越えたところに、どんな干ばつの時も絶対に水が絶えない大きな湖があるのです。あなたを一刻も早く、その湖へと連れて行ってあげたい。しかし、私には、あなたを背負ったり抱いたりして飛ぶ力はありません。あなたを口にくわえることもできない。困ったことです」
「実は、良い考えが私にはあるのです」と亀は言います。
「ここに木の枝が一本あります。私はこの枝の真ん中を咥えますから、どうかあなたはもう一羽の仲間を呼んできていただいて、この枝の両方を咥えて飛んでくれませんか。そうすれば私も空を飛ぶことができるはずです」
「お、それはいい考えですね。それでいきましょう」
早速鳥は、一羽の仲間を呼んできました。
「しかし、いいですか、亀さん。あなたはとてもおしゃべりで、口に慎みがないように見受けられます。もし、空を飛んでいるとき、何かしゃべったり、私に話しかけたりして口を開けたら、あなたは墜ちてしまいます。ぜったいに口を開いてはいけません」
「そんなことは分かっています。私だって命は惜しいですから」
「しかし、身についた癖は、なかなか抜けませんよ。本当に大丈夫ですか」
「絶対に口を開きません。約束します。だからお願いします」
そこまで言うなら、と、鳥は仲間とともに、亀が加える枝をささえて、大空に勢いよく飛び立ちました。
泥沼で生まれ、一度も外の世界を見たことがなかった亀にとって、大空から見る景色は想像を絶するものでした。果てしなく広がる大地、山や川、谷、きらめく草原、亀は思わず叫んでしまいました。
「ああ、なんと美しい…」
「あ、ダメだといったでしょ」
瞬く間に亀は落下し、豆粒のように小さくなって、ついに死んでしまいました。
この説話から、日本の平安時代には、「約束を守れぬ亀は甲羅を破る」という諺ができたということです。 『今昔物語』
《法話》
日蓮大聖人は、「わざわいは、口より出でて身をやぶる」と仰せです。私達凡夫は、つい余計なことを言ってしまう癖がある。あるいは、他人の悪口、悪口までいかなくても、噂話には、ついつい調子に乗ってしまって、大騒ぎするところがあります。他人の失敗を楽しむ意地悪な心は、誰にでもあるものです。しかし大聖人は、そうした軽口は、やがて我が身に災難を降り注ぎ、身を滅ぶすことになると。だから、どうせ口から声を発するならば、「ありがとう」との感謝の言葉、「大丈夫ですか」という、いたわりの言葉を言いなさい、と。
なかでも、余計なおしゃべりをする時間があるならば、いつでも、どこでも南無妙法蓮華経の題目が口から自然に出る。そういう人になっていきなさいと。そうすれば、口から禍がでる悪い癖も消滅し、そうして先程の御書「わざわいは、口より出でて身をやぶる」の続き「さいわいは、心より出でて我をかざる」 他人の幸せを祈って、いつでも題目を唱えられる人には、心の底から、あらゆる幸せが生まれ出てくる。みずから求めなくても、いつも幸せが、その人を包み込んでくれる。そういう、うらやましい人になっていくこと。これが成仏という最高の境界を築いていく、一つの姿ではないかと思います。
そのためには、仏道修行の基本。自分の振るまいは、良いことも悪いことも、なかったことにはできない。もしも、過去に悪口を言ってしまった、それこそ謗法を言ってしまったことがある、そうであるならば、その罪障は、同じその口で折伏の一言、お題目の一遍を唱えていってこそ、消滅することができるわけでありますから、私達はそういう心をもって、これからもしっかりと自行化他に精進して参りたいと思います。