三諦(空・仮・中)について        -真実の姿を明らかにする方法-

 

三諦(さんたい)とは何か

 物事の真実の姿は、一方の面だけで見極めることはできません。また、対立する二つの面だけで、全体的な把握をすることも完全ではありません。そこで、対立する二面いずれにも偏(かたよ)ることなく、両方を融合(ゆうごう)して真実の姿を明らかにする第三の面が必要となります。

 天台大師は、諸法(しょほう)の実相(この世事象事象)を明らかにする方法として、この三方面を「空仮中の三諦(さんたい)」として説き、さらにこの三諦を修行することによって苦の根源である見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑(さんわく)を断(だん)ずることができると説きました。

 「諦」(たい)とは審諦(しんたい)とも言い、「つまびらか」「あきらか」ということであり、真実不虚(ふこ)の義で、仏の悟りによる真理を意味します。

 この三諦の名は、『仁王経』の「二諦品」に出ていますし、空仮中の名は、『菩薩瓔珞本業経』の「賢聖学観品」と、『中観論』の「四諦品」に出ています。ちなみに、中国の慧文禅師は『中観論』の、

 「因縁所生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義」

という四句によって三諦の妙旨を悟ったと言われ、それを弟子の南岳(なんがく)大師に授け、さらに南岳から天台大師に伝えられたと言われています。

 

三諦の特徴

◇〈空諦〉(くうたい)

「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、「空とは無(非存在)」と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自体に実体はないとし、これを空(くう)と説いています。つまり、「一切の事物には実体がない」という真理を空諦と言うのです。

 天台大師は、小乗仏教の説く空は、存在を分析して空であることを観ずる 析空観(しゃっくうかん)であり、大乗仏教の説く空は、存在そのものを直ちに空と観ずる体空観(たいくうかん)であると説いています。また小乗は、空のみを見て不空を見ないから但空(たんくう)と言い、大乗は一切の存在を空であると見ながら、同時に空でない仮諦・ 中諦の面も見るので不但空(ふたんくう)と言います。

 

◇〈仮 諦〉(けたい)

仮諦とは、いかなるものも、実在はしないけれども、現実には、その姿がはっきりと現われていることを言います。

 仮(け)とは「仮(かり)に想定されたもの」のことであり、実在しないけれども比喩的な意味で「存在する」と説くことです。故に、実体性はないものの、現象として仮に存在する意味として用いられています。現象としての諸法(しょほう)が仮(け)であることは、『大品般若経』に、

 ①物体は多くのものが集まって作り上げられている。(受仮・じゅけ)

 ②法そのものは、因と縁とによって生じたものである。(法仮・ほうけ)

 ③すべては名のみあって、実体のないものである。(名仮・みょうけ)

の三仮(さんけ)が説かれ、あらゆるものに自性(もの自体の本性)のないことを示して、凡夫のとらわれ(註・モノに対する執着)を破しています。

 

◇〈中諦〉(ちゅうたい)

 中諦とは、仮諦と空諦の二辺に執着しない 中正の真理を言います。

 つまり、すべてのものは、因縁によって仮に存在しているに過ぎない故に空であり、空という固定的な体もない故に、空もまた空と言えます。したがって、仮と空を共に否定し空と仮を共に立てて偏執(へんしゅう・かたよった見方) のないところに真実がある、というのを中諦(ちゅうたい)とも中道(ちゅうどう)とも言います。

 この中道は、二者の中間というような折衷的(せっちゅうてき)な考えでなく、空諦と仮諦の両面を包摂(ほうせつ)したところの真理ということができます。

 この中道を四教(釈尊の教えを蔵教・通教・別教・円教の四つに分類したもの)の上に見るとき、蔵教には中道が存在しないので「無中」(むちゅう)と言い、通教は中道を含む「含中」(がんちゅう)、別教は単独の中道しか説かないので「但中」(たんちゅう)、円教は三諦円融の中道を説くので「不但中」(ふたんちゅう)と言います。

 

◇〈隔歴三諦と円融〉

 この三諦の見方には二つあります。

 一には、三諦各々(おのおの)を個々に独立した真理として考える別教の「隔歴(きゃくりゃく)の三諦」です。

 二には、三諦の孤立性(こりつせい)を廃して、一諦のうちに互いに三諦を具(そな)えて、各々が即空(そっくう)・即仮〈そっけ〉・即中(そくちゅう であると立てる円教の「円融(えんゆう)の三諦」です。

 「隔歴(きゃくりゃく)の三諦」とは、次第(しだい)三諦とも言います。空仮中の三諦が各々別であって、空諦は空であって仮・中ではなく、仮諦は仮にして空・中ではない、中諦は中であって空・仮でない、という意味であり、別教で説く教えです。

 これに対し「円融の三諦」は、空仮中の三諦が互いに融(と)け合い、三諦の各々が他の二諦を互いに具することで、空諦そのままが仮諦・中諦であり、仮諦そのままが空諦・中諦であり、中諦そのままが空諦・仮諦であると説きます。この「円融三諦」の法理を円教と言いますが、天台大師は、この円融三諦を領解(りょうげ)し感得するために、一心三観(いっしんんさんがん)の修行を立てました。

 三観とは、三諦(さんたい)を観(かん)ずることを言い、衆生の一念がそのまま円融の三諦であると、明らかに観ていくことです。この一心三観によって覚知する法理が一念三千です。

 『御義口伝』には、

 「円融三諦は何物ぞ。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり。此の五字は日蓮出世の本懐(ほんがい)なり」(御書 1729㌻)

と示されています。

 

◇〈末法の真に三諦を観する修行は、事の一念三千の御本尊に南無すること〉

 日蓮大聖人は、天台の立てる一念三千を理観(りかん・理論として理解すること)であるとし、末法の衆生を直ちに悟りの境界(きょうがい)へと達せしめる事行(じぎょう・事実のうえに教えの功徳を顕わしていく修行の対象)として、三大秘法の大御本尊を確立されたのです。

          大白法・平成27年12月16日刊(第923号)より転載

 

  ※ 読みやすいように、編者が一部分に、ふりがなの追加や註を加えてあります。

 

 

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