「大白法」 平成28年7月16日(第937号)より
三種九部の法華経
ー 末法流布の妙法蓮華経 ー
三種九部の法華経とは、文義意・種熟脱・広略要の三種類、九つの内容に法華経を判別されたものを言います。日蓮大聖人は、この三種九部の判別の上から、末法流布の法華経は意・種・要の法華経であるとされて、法華経の真意を説き明かされています。
文義意の法華経
文義意の語は、一般に広く用いられていますが、文とは文面、義とはその文の意味、意とは文義によって顕される主旨のことです。文義意の法華経についていえば、文とは一部八卷の法華経の文字、義とは迹門と本門の教理、意とは妙法蓮華経の五字のことです。
通常は文に従って、その意味を理解し、その上で文の主旨(意)を弁えることになりますが、仏法における文義意の法華経に関しては、通常の場合とは全く逆の順序を踏まなければなりません。これは、法華経の心は凡夫のうかがい知ることのできない、唯仏与仏の悟りであり、末法の凡夫には御本仏の所作・体験の上にしかそれを拝する手立てがないからです。そのために意の法華経を根本とするのです。
大聖人は『四信五品抄』に、
「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、唯一部の意ならくのみ」(御書一一一四㌻)
また『曽谷入道殿御返事』に、
「此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候」(御書一一八八㌻)
と仰せです。すなわち、文義よりも意の法華経を根本とする理由は、文義意の法華経の中では意の法華経たる妙法蓮華経の五字こそが、一代仏教の功徳が具わる仏の心(意)そのものだからです。意の法華経を離れては法華経(仏)の心を求めることはできず、末法の衆生の成仏は不可能なのです。
逆に大聖人の意の法華経より立ち返って、釈尊、天台の文・義の法華経を拝するとき、法華経の真意が明らかになるのです。
種熟脱の法華経
種熟脱とは、仏が衆生を成仏へと導く経過を、稲などの穀物が生育していく過程に譬えたものです。大聖人は『曽谷殿御返事』に、
「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり」(御書一〇四〇㌻)
と説かれています。つまり、仏が植え手となって成仏の種子を衆生の心田に植えることを下種と言います。さらに熟とは、下種された成仏の種子が芽生え生育するのを助けて、それを次第に熟させていくことです。最後の脱とは、種子が成長して熟し切ったところで、穀物の実りを収穫させること、すなわち得脱(悟りを得ること)させることです。
そもそも仏法では、因果を踏まえた種熟脱の三益があって初めて真実の利益があるのです。法華経は、この種熟脱の法門を、一切経の中で初めて明確に説いたのです。
ところが法華経以外の諸経には、どの仏によって成仏の種子が植えられ、その種子がどのように調熟され、脱せられるかという、仏の化導の過程が明かされていないのです。
諸経の教えがいかに甚深であると称しても、この種熟脱が説かれていなければ、衆生にとっては無益、無縁の教えであると断ずることができます。大聖人は『秋元御書』に、
「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(御書1447㌻)
と説かれ、あらゆる仏は、妙法蓮華経の五字を種子として仏になることができたと仰せです。衆生はもとより、諸仏も下種の妙法蓮華経を成仏の種子としているのです。
広・略・要の法華経
広・略・要については、法体と修行の面、あるいは法華経の不嘱の面において御書に種々の御教示があります。
法華経について言えば、広は一部八卷の法華経、略は『方便品』・『寿量品』の両品、要は『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経の五字のことです。『法華取要抄』に、
「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(御書 七三六㌻)
と説かれるように、大聖人は要の法華経を所持して末法に御出現なされたのです。
釈尊在世・正法時代の衆生は、広く法華経を受持・読・誦・解説・書写するという、五種の妙行を行じました。また像法時代の天台大師は略して『方便品』・『寿量品』を重んじて、自らは毎日、法華経の題目も唱えましたが、それを人々のためには説きませんでした。それは第一に、釈尊からの不嘱がなかったからです。
釈尊は、法華経の会座に居並ぶ弟子たちの誰にも許されなかった末法の弘教と肝要の法門の建立を、地涌の上首・上行菩薩に託されたのです。釈尊の滅後二千年を経過すると、釈尊有縁の衆生は次第に少なくなり、やがて成仏のための種子が全くない荒凡夫のみの末法の時代となります。
この末法の時代に、衆生を救済することができるのは、本法を所持された上行菩薩の再誕・末法の御本仏日蓮大聖人以外にはおられません。末法の衆生は、大聖人の御化導に随って、広略の法華経を捨てて、正しい肝要の法華経を受持することにより成仏できるのです。
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以上の三種九部の法華経は、それぞれの異なった立場から、御本仏大聖人の末法出現を明かし、さらには三大秘法の建立を指し示しています。
すなわち末法流布の法華経は、大聖人の所持された意・種・要の妙法蓮華経の五字であり、成仏のための修行とその功徳の一切は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に納まるのです。
私たち末法の衆生は、この大御本尊を受持することにより、必ず即身成仏できるのです。