2015年
7月
16日
木
妙通寺支部第1地区の矢神徳子です。
私は2歳の誕生日に両親と兄と一家そろって日蓮正宗に入信しました。
父は一生懸命、創価学会員として活動しながら、お寺を大切にしていました。
私が小学生のとき、母に「お寺と創価学会の関係」について聞きました。
すると母は「創価学会は、日蓮正宗の信徒団体のひとつで、昔から日蓮正宗にある信徒団体である法華講とは別の組織である」と教えてもらいました。
また、父には「どうしてお父さんは、そんなによくお寺へ行くの?」と聞いたところ、
父は「創価学会は、日蓮大聖人の教えを弘める団体だが、お寺のご住職や、昔からの法華講の方々がお寺を何百年と護ってきたから、創価学会が誕生できたんだ。だから、お寺も大切にしなければいけないんだ」と教えてくれました。
平成2年の末、創価学会と日蓮正宗との間に信仰的な問題が発生したとき、父は迷わず、日蓮正宗側につきました。
その頃私は、結婚をしていて名古屋市東区に在住しており、学会活動を行なっていました。B担として聖教新聞も配っていました。会合に行くと池田名誉会長の同時中継を見ましたが、名誉会長の話は「あ~あ~、う~う~」としか私には聞こえず、何を言っているのか、さっぱり解りません。さらに学会組織の在り方にも少し疑問を持つようになりました。
それでも、たまに中村区の実家に帰ると、日蓮正宗と創価学会の件で、父と大げんかしました。
しかしその後も、疑問がどんどんと膨らみ、「これって、絶対に間違っている」と思うことが段々と増えていきました。
そんななか、私は離婚をし、実家に戻りました。それと同時に創価学会を脱会しました。しかし脱会しても、すぐに妙通寺へ行くこともなく、フラフラしていました。
離婚して7年目に父が亡くなり、その時初めて細井ご住職にお目にかかり、父の逝去の連絡から、ご住職の迅速かつ丁寧な対応に接しました。
且つ、また父が、本当にお寺を大切にしていたということを実感しました。
その後、父の供養のために妙通寺へ行くようになりましたが、行事に参加するまでには至りませんでした。
1年半後、母も亡くなり、その頃ちょうど職場も異動になったりして、私は精神的に参っていました。そんなとき、お寺で「日蓮大聖人ご報恩お講」があることを知り、ご住職様に「私も参加させていただいて良いでしょうか?」とお尋ねしたところ、「ぜひ来てください」と言っていただき参加させていただきました。また、支部総登山にも参加でき、本当に久しぶりに本門戒壇の大御本尊様にお目通りさせていただくこともできました。
平成25年3月からは、支部登山はもちろんのこと、毎月、添書登山をさせていただいております。当初は、総本山への旅費を工面するのが大変でした。しかし、「絶対に登山する!」と心に決め、御本尊様に「毎月登山します。しかし旅費がありません。何とかお願いいたします」とご祈念し続けたところ、自然と旅費が出せるようになり、毎月登山できるようになりました。今では、毎月の登山、お寺のお講はもちろん、地方部総会など大きな行事があるときは、早めに会社にお願いをして、きちんと休みをいただいて参加するようにしています。
今年の4月、妙通寺での「5時間唱題会」に初めて参加しました。ご住職以下、順番で導師を務めていくなかで、私も30分間の導師を務めさせて頂きました。
6月の5時間唱題会では、45分間も導師を務めさせて頂きました。マイクを使っての導師は緊張し、大変でしたが、貴重な体験となりました。ありがとうございます。
最近、お寺の行事に参加するのが楽しくて仕方がありません。
ご住職のお話を伺い、明日への活力を頂き、法華講同志の皆さまから元気をいただいています。皆さんも、少しでもお時間のある方は、是非、30分でもお寺の唱題会や行事に参加されると良いと思います。
これから私は、
○毎月の登山の継続 ○毎年の夏期講習会への参加 ○父が若い時に折伏した叔母たち(現在、いまだ創価学会員)の折伏
を決意します。とくに折伏については、これまで、折伏らしい折伏をしたことがありません。よって、実際に行動しようとすると、少し怖いです。なので御本尊様に「叔母たちをなんとか折伏できるよう、どうぞ力をお貸しください」とお願いしています。
これからも、ご住職様にご指導をいただきながら、頑張って参ります。
以 上
2015年
1月
23日
金
私が入信するきっかけをいただいたのは、昨年逝去された北川淳二さん御夫妻との出会いです。
私はある時、知人から、当時北川さん御夫妻が経営していた喫茶店へ誘われました。コーヒーの香りとお店の雰囲気がなんとなく気に入り、足繁く通っていると、そのうち北川さんから日蓮正宗のお話を聞くようになりました。
北川さんのお話は、むずかしい仏教用語ばかりで、最初は、なかなか理解できませんでした。また、お店へ行くたびに、仏法の話をされるので、そのうち、行きたくなくなりました。
しかし、そんな中でも、日蓮大聖人様の教えである「四箇の格言~念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の道理を教えていただき、「間違った宗教が人間社会の混乱を招き、人々の心を乱すこと」については、私の心のなかに深く入っていきました。
私は浄土真宗の家に生まれ、それまでの人生で、宗教には何ら疑問を持たず、
「先祖代々からの教えを守っていくのが当たり前」と考えていました。
しかし私には当時、どうしても心に引っかかっていたことがありました。
それは、知り合いの念仏の家などで、悲しいことに、自殺する方が多かったということでした。
あるとき私は、その疑問を北川さんに、ぶつけてみたのです。すると北川さんは、
「我々が仏壇に手を合わせると、祀(まつ)られている仏像や位牌と、我々の命が感応(かんのう)道交(どうこう)(=一体化)するのです。
そもそも念仏の教えは『この世の苦しみはどうすることも出来ないから、死後に極楽(ごくらく)へ行って幸せになることを祈りなさい』という諦(あきら)めの心を教えるものですから、そういう教えに接していると、悩んでいる人のなかには、落ち込んでいる時など、咄嗟(とっさ)に、自殺願望に襲われることがあるからです」
と端的(たんてき)に答えてくれました。
私は更に、もうひとつ、心に大きく引っかかっていた、深い悲しみの思い出を相談しました。それは、西春町に住んでいた私の実母のことでした。母は朝、ゴミ出しに行く途中で、背後から来たトラックにはねられ、内臓破裂で入院。2週間後に六十八歳でこの世を去ってしまっていたのです。
その話をすると北川さんは
「大事な事は、これからのお母さんの供養です。お母さんに、成仏していただくために、安藤さんさえ良ければ、私が、日蓮正宗のお寺へ行って、お母さんの塔婆供養をさせてもらっても、いいですか?」と言ってくださいました。
私は 「それなら、私を連れて行ってください。どうしたら、お願いできますか?」と聞くと、北川さんは 「日蓮正宗の御本尊様に追善供養をお願いするには、願主である安藤さんが、まず、御本尊様に帰依しなければなりません。なぜなら、日蓮大聖人は『法華経を信じまいらせし大善は、我が身、仏になるのみならず、父母、仏になり給ふ。上七代・下七代、上無量生・下無量生の父母等、存外に仏となり給ふ』と仰せになっているからです。お母さんを真に救うには、まず、安藤さん自身が御本尊様を信じて、お題目を唱えなければなりません」と教えられました。
私はしばらく真剣に考え、北川さんにお願いして妙通寺に連れて行っていただきました。御本尊様に初めてお目通りし、その後入信を決意。
家の謗法(ほうぼう)を処分して、ご住職様に御授戒(ごじゅかい)と入仏式を執り行なっていただきました。
これからも私は、父母への孝養のため、我が家の一家(いっか)和楽(わらく)のため、そして、信心を教えてくださった北川さん御夫妻への報恩のためにも、さらに勤行・唱題と折伏に励んでいくことを決意します。
以 上
2015年
1月
13日
火
私は昭和38年に、北陸の富山県にて酒井家の長男として生まれました。
当時両親は、信心をしておりませんでしたが、幼少の頃は裕福な家庭だったように記憶しております。
しかし、それも長くは続かず、その後父親の経営する会社が倒産するに至りました。
ちょうどその頃、母親の姉からの勧めで母親と私たち兄弟が創価学会に入信しました。
そんななか、母親は一人で地元富山市のお寺に通っておりまして、お寺様のお誘いにより法華講に入講することになりました。
その後私は東京の大学に進学しまして、東京・法道院に移籍しました。そして社会人となり家庭を持って法道院の信徒として信心活動をしておりました。仕事もほどほど順調でしたが、平成20年、突然勤め先の会社が清算される事になり、いきなり仕事がなくなりました。
そのままでは生活できませんので家内と相談のうえ、家内の実家があるここ愛知県に引っ越ししまして、法道院支部より妙通寺支部に正式に移籍し、現在に至っております。
名古屋へ越してきた当時は、「なぜ信心しているのに、こんな事になるのか」と悩みました。御本尊様の前で題目を唱え悩みながら考えました。すると、「これは私に何かの使命、役目役割を御本尊様からいただいているのではないか」と思えてきました。私自身、「宿業転換をするためには、より一層の信心修行が必要である」と御本尊様からこの環境を与えられている事に気づきました。
私は今、単身で東京にて仕事をしており、東京と名古屋の往復生活です。ひと月に数日間だけ名古屋で過ごしています。東京在住時代と違うのは、日々の生活上でより一層、御本尊様を身近に感じるようになりました。それは、毎日の俗世間での経済活動は厳しいですし、生活費を稼ぐのは大変です。しかし不思議な事に、御本尊様中心に唱題第一に生活していきますと、必ず守られます。変化(へんげ)の菩薩が現れて私を助けてくれます。本当に不思議です。これが功徳の現実です。
これからも、まだまだ忙しい生活環境が続きますが、大事な目標も感じております。それは、ここ「妙通寺」を中心とした名古屋の広宣流布の御命題であります。さらに本年平成27年1月1日「大白法」の日如上人猊下様の「新年の辞」を拝しますと、「既に50%増の誓願を達成された支部においては、今回達成の歓びを因として更なる決意を固め、確固不抜の信念と盤石なる陣容を整え、新たなる出陣に備えて戴きたいと思います」とのご指南を頂いております。
この新たなる出陣とは本年「平成27年法華講員50%増」をスタートとし、6年後の「平成33年法華講員80万人体勢」を構築するために、本年から各支部は盤石なる陣容を整えていきなさいとのご指南と拝することが大事であると強く感じました。
翻ってみますと、各支部・各末寺とはご住職様はじめ我々信徒の集団です。この信徒一人ひとりが前進することを猊下様は望んでいらっしゃると思います。
私たち法華講員は「持妙法華問答抄」の「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」とのご指南と、「一人が一人乃至、それ以上の折伏」とのご指導をもって、私自身も本年1世帯以上の折伏を実践していきます。
細井ご住職様の元に団結して、今年の誓願目標73名の早期達成を目指して、皆様とともに進んで参りたいと思います。皆様どうぞ、よろしくお願いいたします。
2014年
9月
04日
木
私は、生まれた時から日蓮正宗の信仰をしています。
これまでの人生を振り返ると、この信仰のおかげで、安心して前向きな気持ちで生きてこられたと感謝しています。
例えば、進学・就職・結婚などの人生の転機で、人はいろいろと不安になるものですが、ご住職様に励まされながら御本尊様に祈り続けていくと、不思議なことに心から納得できる結果が現れます。
また、悩みを抱えた時も、日蓮正宗の教えでは、それが偶然ではなく、過去からの自分の行為の結果だと教えられます。そう考えると、現実から逃げることな く、仏様に守っていただきながら、真正面から問題にも取り組んでいこうという強い気持ちになれます。すると、助けてくださる方が現れるなどして、自然に問 題が解決していくのです。
このように人生の転機や悩みを乗り越えるにつれて、いつも安心して、前向きな気持ちでいられるようになりました。それも、この信仰のおかげと、心からありがたく思っています。
これからも、自分や家族だけではなく、縁のある方々にも安心して前向きな人生を送ってもらえるよう、日蓮正宗の信仰を勧めていきたいと思います。
2014年
8月
21日
木
私は、祖父母、両親がとても働き者で裕福な家庭に生まれました。
祖父は村の役職や、地元の念仏の寺の役なども請け負っており、いつも忙しくしていました。
そんな祖父に連れられて、姉はいつも朝から寺参りを日課としていたほどです。
父はとてもやさしい人で、どんな嫌なことも請負い、世間の人々からは神様のような人だと崇められていました。
そんな穏やかな家庭でしたが、私が6歳のとき、母が47歳という若さで急逝しました。そのとき姉は6年生、私は入学前、ふたりの弟はまだ乳飲み子でし た。さらに母を追うように、祖父母も相次いで亡くなり、それまでの幸せな日々が夢であったかのように、生活が一変しました。姉妹で協力して、牛の世話や田 畑の仕事、山の仕事、幼い弟の世話など、一生懸命、父を助けるために働きました。
悪いことは続くもので、幼い弟たちは麻疹(はしか)にかかって、あっけなく死んでしまいました。今、思い起こすだけでも、悲しく思います。
やがて月日が経ち、私たちも大人へと成長しました。姉とともに創価学会をとおして日蓮正宗に入信した私は、我が家の過去世からの罪障をなんとか消滅し、 宿業を転換しようと、以後は真剣に信心活動に没頭しました。そんな学会活動を通し、同じ信心をしていた男性と結婚。一男二女の子宝にもめぐまれ、御本尊様 の功徳をいただきながら、過去の辛さも忘れてしまうほど、家族仲良く、楽しく暮らす日々が続きました。
平成2年末、創価学会が信仰の「親」である「日蓮正宗」と対立する大事件が発生しました。姉はいち早く創価学会を脱会し、日蓮正宗法華講に入講しました。そして、私たち家族にも、
「今まで学会活動を通して、御本尊様の功徳をいただくことができたのは、日蓮正宗に、日蓮大聖人の仏法の正義と大御本尊様が護られてきたから…。学会にはお世話になったけど、日蓮正宗と大御本尊様から離れてしまった以上、学会を脱会しなければ成仏はできなくなる」
と言ってきました。
当時の私は、「学会こそ正義であり、日蓮正宗が間違っている」と思い込まされていましたから、姉の言葉には聞く耳を持ちませんでした。本当に大事な姉でしたが、信心の話になると、いつも嫌な思いをするため、いつしか姉を避けるようになっていきました。
そんな日々が3年ほど経過したころ、姉から、
「妙通寺のご住職と、あなたを総本山へ連れて行く約束をしてしまったから、予定をあけておくように」
との連絡がありました。「絶対行かないから…」と断ったものの、心のどこかでは、「学会指導に対する疑問」と「大御本尊様への渇仰恋慕」の欠片(かけら)が生まれつつあったのだと思います。「お山へ行こうか、どうしようか…」心は、乱れに乱れました。
そして約束の当日、勇気を振り絞ってご住職の車に同乗させていただき、総本山へと向かいました。行きの車のなかで私は、「ああ、やっぱり、来なければよかった。大変なことをした」と後悔の念がわき起こってきました。それだけ、真剣に悩んでいたのだと思います。
しかし、数年ぶりの総本山は、学会組織から聞かされていた「野犬がうろついていて危険だ」「ペンペン草が生えて荒廃している」とは正反対の、すがすがし いままでした。御開扉を受け(※註)、大御本尊様を目の当たりに拝したとき、私の心は決まりました。たとえ今は理解してもらえなくても、家族のため、自分 のため、正しい信心に戻ろうと。
その後、プライベートなことでも種々のことがありましたが、数年後、不思議な縁で、同じ信心をする現在の夫と再婚させていただくことになり、妙通寺の御 宝前にて挙式をとりおこなっていただきました。夫は、私の子供や孫たちに、とても親身に接し、かわいがってくれて、幸せでした。
さあ、これで、何の憂(うれ)いもなく、充実した日々を暮らせるように…と簡単にいかないのは、末法に生まれた私たちの性とでもいいましょうか(笑)。
その後、私は自宅の階段から落ちて怪我をし、大手術を受けては車イスの日々を経験したりと、法華講に入講してからも、諸難が立て続けに起こりました。しかし、大聖人様は
「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば自然に仏界にいたるべし」
と教えられています。次々と迫る障魔を、信心で「魔」と見抜き、一層、唱題の声に力を入れていった結果、今では元気に幸せに暮らしています。子供たち、孫たちも、本当に、私の事を気遣い、大切にしてくれて、これ以上の幸せはありません。
私のこれまでの人生は、まさに波瀾万丈でしたが、今までの経験を通して、私は
「御本尊様のもとで、家族が心をひとつにして、がんばって生きていけば、ぜったい不幸になんてならない」
と確信しています。なにより、私の人生そのものが、功徳の実証を示していると自負しています。
今後、創価学会員さん、また他宗の方々を折伏させていただくなかで、どんな障魔が競おうと、まったく怖くもありませんし、不安もありません。なぜなら、なにがあっても、かならず日蓮大聖人様の信心で、すべてを乗り越えていくことができるのですから…。
※註…平成9年までは、創価学会員のままで御開扉を受けることができました。現在は学会を脱会し、日蓮正宗に再入信すれば、誰でも御開扉を受けることができます。
以 上
2014年
8月
20日
水
私は大正3(1915)年生まれの満年100歳でございます。
長寿社会とは申せ、1世紀と過ぎてなお、健在の今日があることに、御本尊様の功徳の有り難さが身に沁みて、感無量でございます。
日蓮大聖人様は
「いままでいきてありつるは、このことにあはんためなりけり」
と教えられています。御本尊様に巡り会わせていただいたことは、私の人生を大きく変えました。一眼の亀の浮木に逢うよりも幸せなことでございました。
私ども一族は、次々と御本尊様をお受けし、それぞれが皆、幸せな境界を送らせていただいております。
世の中には宗教と名のつくものは五万とあります。「一」に「止」と書かれたこの正宗は、世界にたった一つしかありません。
私たちはこの有りがたい御本尊様を我が家にお迎えすることができました。勿体ない限りでございます。
世の中にはまだ、この信心を知らない人ばかりです。一人でも多くの人に、この信心を教えてさしあげることが私たちの務めです。
相手の方の事を思って根気よく粘り強く、御報恩の気持ちのある限り、折伏に励んで参りたいと決意しております。
唯今、娘と一緒にご近所の籾山さんという奥さんを折伏させていただいております。
お寺へお連れするまであと一歩でございます。成就するまで、がんばって参ります。
以 上
2014年
7月
25日
金
私は三重の片田舎の農家に生まれました。祖父が浄土真宗の寺の総代を務めていた関係もあり、一家総出で神社仏閣の行事に参加しては、罪障を積み重ねる 日々を過ごして来ました。そんなことを繰り返していれば、家が栄えるはずなどありません。なんとなく家族全体が元気を失い、勢いも落ち、家族皆が苦労する ようになっていきました。
成人した私は、名古屋にて勤務中、縁あって出会った主人と結婚し、長男を授かりました。しかし可愛い盛りの長男は、アトピー性皮膚炎が発症するなどして、私は悩むようになりました。
そんな頃、子供仲間の親であった女性から折伏され、「長男が元気に成長できるなら…」と、何のためらいも無く創価学会を通して日蓮正宗に入信しました。
入信後、「祈りとして叶はざるはなし」「冬は必ず春となる」との日蓮大聖人様の御金言を心の支えとして真剣に勤行・唱題に励み、広宣流布のため、創価学会の会合にもたびたび参加するようになりました。
しばらくしたある祭りの日、主人をはじめ親族の人が集まってきました。そして私は、
「市川家の長男の嫁のくせして、変な宗教をされては困る。日蓮正宗の信心を辞めない なら離婚しかない」
「元の信仰に戻らないなら、二度と敷居はまたがせない」
などと一斉に責められました。誰よりも愛し、頼りにしていた主人からも、
「俺も、死んでも日蓮正宗の信心はしない」
と言われ、私は悲しくて仕方がありませんでした。
しかし私は、日蓮大聖人の正法によること以外に、家族の幸せはないと確信していましたので、意を決して、親類の方々に言いました。
「今は信仰の自由が認められています。私は、家族と仲良く幸せに暮らしたい、ただそれだけのために信心しているのです。どうか、1年間、私の姿を見ていてください。お願いします」と。
その後、なんとか信心を認めてもらおうと私は必死に信心し、家族や親類にも、いろいろと気を遣って接するようにしました。そうこうするうちに、一方では 信仰に反対していた人たちの方が、次々とトラブルを抱え込むようになり、ついに、大反対だった主人までもが、九死に一生を得るほどの大事故にあってしまっ たのです。
主人は「お前には仏様が味方してくださっているんだなぁ」と根負けし、ついに主人も日蓮正宗に入信してくれました。
その後、長女、次男にもめぐまれ、私の人生は信心と生活、仕事など、充実すぎるくらい忙しい日々を過ごしました。でも、本当に幸せでした。
しばらくして主人の仕事の都合で、私たち一家は福山市へと転居しました。その頃からです。徐々に創価学会の信仰のあり方が、おかしくなりはじめました。 私は、学会活動を真剣に行なえば行なうほど、学会の指導に疑念を持つようになりました。「本当に、この活動が、日蓮大聖人が理想とされた広宣流布への闘い なのだろうか。」その疑念はついに学会に対する決定的な不信となり、平成3年7月、私は学会を脱会し日蓮正宗の法華講に入講しました。
縁あって岩倉の興道寺様にお世話になり、平成7年からは、現在の所属である妙通寺様の信徒として、本門戒壇の大御本尊様と、血脈付法の御法主上人猊下様の御元に、日蓮大聖人の正しい信心をさせていただいています。
私は今、自身と家族、親族、お世話になった方、知人・友人、みんなの本当の幸せは、南無妙法蓮華経の信心を通してこそ実現できると固く信じています。
何よりも、これまでの長年の信仰の体験を通して、この信心の正しさを確信しています。最高の「信心」という宝を、子供や孫たちにも、しっかりと受け継いでいって欲しいと、心の底から願い、毎日、真剣に、御本尊様に祈っています。
大聖人様は
「とてもかくても法華経を強(し)いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗(ぼう)ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(法華初心成仏抄)と教えられています。
私はこの大聖人様の御金言を胸に、命ある限り、たった一言でもいい、折伏をし続け、一生成仏の大功徳を積み重ねていくことを、大御本尊様・大聖人様に固く、固くお誓いします。