テレビCM「無宗教なんだから…」
“お坊さんのいないお葬式”
私はこのCMの趣旨に大賛成です! ただし一言…ちょっと聞いてください。
まずは具体例をひとつ…。
(名古屋市に住むWさんの場合)
Wさんの生まれ故郷(こきょう)は岐阜県の山間(やまあい)集落です。Wさんは学校を卒業すると名古屋の会社に就職しました。以来、名古屋で結婚し、子供も育て、もうWさんにとっては名古屋の街が、故郷(ふるさと)と言っても過言ではありません。
Wさんには幼少期、お盆になるとお坊さんが自宅にやってきてお参りしてもらった記憶はあります。しかし、名古屋ではこれといった信仰をする訳でもなく、お盆の時期は毎年、家族で海外旅行にでかけました。お盆の供養は一度もしたことはなく、先祖の墓が今、どのようになっているのかさえ知りません。
子育てもひと段落した昨年、両親を岐阜から名古屋に引き取ることになりました。引っ越しも終え、両親も名古屋の生活にようやく慣れてきた矢先、Wさん宅に突然の不幸が襲いました。つい昨日まで元気だった父親が自宅で倒れ、病院に救急搬送されたものの、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
「なぜ、こんなに早く…」
あっけない別れに、Wさん一家は呆然(ぼうぜん)としました。Wさんのお母さんは、突然の夫の死にショックで寝込み、病院に駆けつけることさえできません。
病院の霊安室でお父さんの遺体と対面し、悲しみに暮れていると、病院の担当者からは事務的な説明がなされます。
「手を尽くしましたが、搬送された時にはすでに手遅れでした。残念です。ところで、当院の霊安室は狭いので、申し訳ありませんが、なるべく早くご遺体をお引き取りください。ご遺体を、病院の建物から玄関先まで運び出す業者が決まっていますので、そちらへは当方で手配します。そこから先は、W様が依頼した葬儀社の方に搬送していただきますので、業者に連絡をしてください」
たとえ真夜中であろうと、病院では遺体を長時間、預かってはくれません。とにかく、早く引き取るよう催促されます。病院の中には、様々な利権がからみ、出入り業者を通さないとご遺体を動かすことすらできない施設もあるほどです。
Wさんは、どうして良いか分からず困惑(こんわく)していると、
「よければ、当病院に出入りしている葬儀社を紹介しますが、どうしますか?」
との病院の担当者の言葉に、
「はい、お願いします」
と返事をしてしまいました。
30分ほどで葬儀社の担当者がきました。さっそくお父さんの遺体を白布で包み、寝台車へと運び出します。Wさんの自宅はマンションで、お父さんを自宅に連れ帰っても寝かせておく場所がありません。仕方なく、病院から葬儀社が運営する葬儀場(葬儀会館)へ直接運んでもらうことにしました。
葬儀場(葬儀会館)に到着すると、さっそく担当者と打ち合わせがはじまります。
「W家様は、仏式ですか? それとも何か違う宗教ですか?」
「私は無宗教ですが、田舎の墓は確か、どこかのお寺にあったはずです」
「宗派によって、葬儀の形は違いますので、何宗か判りますか?」
「えっと、うちの宗旨はなんだっけ?」
寝込んでしまった母親に聞く訳にもいかず、訃報の連絡を兼ねて親類に聞いてみます。田舎のおじさんは
「W家は浄土真宗だから、ナンマイダだよ」と言われました。「いいかい、真宗は真宗でも西ではなく東の方、大谷派だからね。ただの浄土宗でもない。間違えないように」と言われ、なんだかチンプンカンプンです。そのままをメモして、葬儀社の人に伝えます。
「どこか、お世話になりたいお寺さんは、ありますか?」
と聞かれても、Wさんはこれまでお寺と付き合ったことがありません。
「この近辺にお寺があるかどうかさえ判らない…」。
すると葬儀社の担当者は言います。
「よろしければ、弊社と業務提携(ていけい)しているお寺があります。そこは、お願いすれば、浄土真宗に限らず、日蓮宗でも、真言宗でも、禅宗でも、どんな宗派にも通用する戒名(かいみょう)をつけてくれますし、俗名(ぞくみょう)のまま葬儀を行なってもくれます。ご予算によっては、直葬(直接、火葬場でお経を唱えるだけ)コースもお願いできますよ」
「えっ? なんでも屋? 変な寺だな…」
Wさんは、そう思いましたが、他にあてもありません。
「お願いします」
こうしてWさん本人も、お父さんも、ほとんど無宗教なのに、実家が「浄土真宗」だという親戚のおじさんのひとことで、浄土真宗の葬儀をお願いすることになりました。そして、葬儀社から紹介されたお坊さんに、「浄土真宗」に通用する、なるべく安価な戒名をつけてもらい、浄土真宗のお経とやらを唱えてもらって、お父さんの通夜・葬儀・初七日の法要を済ませました…。
最近、テレビで「無宗教なのに、どうしてお坊さんを呼ばなければならないの?」「無宗教ならいっそ、お坊さんのいないお葬式もアリでは?」とCMが流されるようになったのは、こうした変な葬儀が、まかり通っているからです。これは葬家本人に限らず、葬儀に携(たずさ)わる業者の人たちも、大きな疑問をずっと抱えてきたからと言えます。
このテレビCMは、いわば「日本宗教界のタブー」に手を付けたのであり、日本宗教界、とくに既成仏教各派(葬式や法事収入だけで成り立っている寺)は大ショックを受けているようです。
問題なのは、
◇「自分の家が何宗かも分からない」施主(せしゅ)も施主。
◇業者から呼ばれて、指示されるままにお経を唱える僧侶も僧侶(ホンモノの僧侶であるかどうかも不明ですが…)。
まさに、日本の葬儀事情は“何か変だ!”と言われても仕方ないのです。
※葬儀に限らず、キリスト教会での結婚式の神父(牧師)は、白人で金髪男性のアルバイトが多いといいますし、神社の巫女さんも、ほとんどはアルバイトの若い女性といいますから、日本人の信仰観自体、おかしいとも言えますが…。
しかし、だからといって、本当に葬儀には「お坊さんは、まったく要らない」のかといえば、そうではありません。
なぜなら、葬儀と告別式とは違うからです。単に遺族や友人らが、故人にお別れを言うのは「告別式」です。一方「葬儀」には、故人の生命の奥底に刻まれた苦しみを抜き去り、強力に成仏へと導くために、仏の救済を一心に願うための儀式という、大切な意義がそなわっているのです。
ですから、故人を送るご遺族としては、正しい理解と正しい認識のうえに、正しい信仰姿勢を持ち、正しい僧侶を招いて、正しい葬儀を行なうこと ~ それこそ、故人の成仏には必要不可欠であると理解しなければなりません。
要するに、
「信じてもいないのに、形式にとらわれて、坊さんを呼んでくる葬式」
が間違っているのであって、
「正しい信仰に基づき、正法の僧による正しい葬儀を行なうことが大切である」
と私は言いたいのです。
(無宗教であることが、正しい?)
さてそこで、まず「信仰を持つこと」の意義を考えてみましょう。
世間一般に“信仰”とは、お年寄りなどが、先祖を敬いつつ、なごやかな楽しみの場を持つために、お寺や神社などに集まったり、ときには団体で神社仏閣への参拝(さんぱい)旅行をしたり、ご朱印(しゅいん)などを集めて歩くようなもの、との認識しか持ち合わせていないようです。
あるいは、困った時に神仏の加護(かご)を期待して神社仏閣で願(がん)をかけ、お守りなどを購入することが、信仰だと思っている人もいます。
しかし、これらはむしろ、“地方の風習”や“縁担ぎ”程度のもので、信仰本来の姿とはほど遠いものと言えます。
そこで本来あるべき“信仰の姿”について考えてみましょう。
正しい信仰の姿とは、一人ひとりの人間の生命の救済、つまり、この世の中に蔓延(まんえん)する「生・老・病・死」の四苦や、経済的な苦しみ、人間関係に絡む悩みなどを含む、人間のいかなる苦悩にも打ち勝っていく活力(かつりょく)を得ていくため、自身の心身を鍛(きた)えること、これこそ信仰の姿と言えます。
また、すべての人々に、人間として生まれてきた真実の幸福を築かせ、貴い人生を全うするために生きる智慧(ちえ)を教えていくのが真実の宗教、教えであると言えます。
したがって「信仰」には、人間の全生命の問題と生き方、人間の幸不幸にかかわる重大な意義や働き、人生の価値を左右する絶大な力が具わっていることを、まず知ってください。
また、「信仰」には数え切れないほどのものがあります。そうした数ある宗教のなかには、「気休め」や「不思議な威力(いりょく)や、ご祈祷(きとう)などを売り物にするもの」「信者に幻想を懐かせるなどして、現実生活から逃避(とうひ)させる麻薬(まやく)のようなもの」など、いい加減な宗教があります。一方で、人間の苦しみや悩みを、喜びや生きがいに変え、大難を乗り越えて人々に生きる力を与える貴い教えもあるのです。
ですから、信仰について考えるとき、大事なことは、単に「昔から我が家では○○宗だから」とか「近くにある神社でお祓いをしてもらえば、それでいいから」などという中途半端な認識で捉えるのではなく、自分の一生、人生を託せる確かなものを選んでいくことが大事だ、ということです。
そうした厳しい観点から選ぶとき、日蓮大聖人が説かれた南無妙法蓮華経の信仰こそ真実最高のものであることを、誰でもが明確に知ることができます。
では、本来あるべき、正しい信仰の功徳(ご利益)について考えてみましょう。
真実の信仰は
一、世界中のすべての人々を、真に幸せな即身成仏という境界に導くことができる
二、強盛な信仰心を通して、南無妙法蓮華経の御本尊に託する願いや希望を成し遂げ、悩みや苦しみに打ち勝っていく強い心を育てることができる
三、御本尊に具わる仏の功徳、南無妙法蓮華経の利益により、現世に限らず、父母や先祖代々の人々をも成仏させ、また未来の子孫に福徳を得させることができる
などがあり、そのほかにも正しい信仰・南無妙法蓮華経の功徳は計り知れません。
日蓮大聖人は、妙法を信受する功徳について、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(聖愚問答抄 平成新編御書406頁)
と教えられています。
葬儀や法事を執行することで、両親をはじめ先祖の菩提を弔い、成仏へ導いていくことは大切です。しかし、「供養する」「恩返しをしたい」という心さえあれば、信仰(宗教)は何でも良いというものではなく、あくまでも、我が家の信仰が、成仏を確かに託せる正しいものかどうかを見極めていくことが大事なのです。
(正しい信仰を選んだうえで、正しい葬儀を行なっていくことが大事)
“お坊さんのいないお葬式”をアピールするCMでは、「形骸化した宗教にとらわれることなく、故人を悼む真心が、葬儀では一番大切なもの」という考え方が基本となっています。しかしこれは、先程申しましたように「告別式」の“あり方”であって、故人を正しく送るための葬儀に関して、誤った認識を世間の人々に与えることになります。また、深い仏法の法理が分からない人が、「葬儀とは、こんなものだ」との浅い認識を宣伝などで広めることは「浅識謗法」といって、大変な罪をつくることにもなるのです。
ここでまた、ひとつの譬えをお話しましょう。
ここに、病人がいるとします。家族は大変心配し、枕元で見守っていますが、
「近くに知っている医師もいないし、何科へ連れて行けばよいのかも分からない」
から、病院へ連れて行こうとはしません。そのうち、
「病院へ運ばれても、ひとりじゃ寂しいだろうし、家族が側についていてあげた方が、本人は安心するのではないか」
と考えるようになり、適切な治療を受けさせることもなく、苦しむ病人の傍(かたわ)らで、「がんばれ、がんばれ」と応援し続けました。その結果、適切な治療を受ければ助かったかもしれないのに、病人は死んでしまったのです。家族は、
「最期まで、家族とともに過ごせたから、本人もきっと喜んでいるに違いないね」
と満足でしたが、大変な苦しみに、のたうちまわされた病人にとっては、たまったものではありません。
皆さんなら、こんな時どうしますか?
やはり、専門の知識や良識をもち、経験豊富な医師のもとへ、一刻も早く病人を連れて行き、適した治療を受けさせようとするのではないでしょうか。
これと同じことが葬儀においても言えるのです。
葬儀では、“遺族が故人を悼(いた)むこと”もさることながら、それ以上に大切なことは、正しい信仰のもと、故人を「苦悩の境界から成仏へと導く」ことなのです。
何度も繰り返しますが、「遺族が、時間をかけて、ゆっくりとお別れを言い、満足して火葬場へと連れて行く」ことは「告別」であって、「葬儀」は、故人を成仏させることを第一に考えなければなりません。ここのところが、現代の人々には判らないのです。
《日蓮正宗の葬儀》
これらに対し、日蓮正宗の僧侶によって執行される葬儀こそ、真実の仏の教えである法華経・南無妙法蓮華経を基として、あくまでも故人の生命を確実に成仏へと導くことを最優先させる、また確かにその力を具える唯一のものと、確信をもって言えます。
(葬儀の歴史)
そもそも、人類の起源以来、生ある者は必ず滅びるの言葉通り、生死を繰り返してきました。この厳粛な事実は、いまだ発展途中だった人類にあっても、経験的に理解していたことでしょう。しかし、人が死ぬという現象に対して、遺族が弔いの儀式を行なうようになったのは、かなり時代がくだってからのことです。
インドでは、お釈迦様在世中、お釈迦様の父・浄飯(じょうぼん)大王の葬儀の模様が、浄飯王般涅槃経というお経に詳しく書かれています。その様子は現代とさほど変らず、火葬も行なわれたと記されています。
日本では、上古、土葬が行なわれていましたが、仏教伝来とともに火葬が伝えられました。初めは貴族などの特権階級の間で火葬は行なわれ、10世紀以降には広く民間の風習として広まったようです。
(法華経が説く三世の生命 輪廻・流転の生命)
仏の真の教えである法華経では「三世の生命」が説かれます。
よって人は皆、いつかは亡くなりますが、故人の生命は今世での寿命を終えても、次の生へと生まれ変っていくのです。そのとき、自身の生前の振る舞いの良し悪しが、生まれ変る先の苦楽の果報(かほう)を決定づけることになります。
私たちは、ごく普通の人間です。なかには「命がけで他人を救った」という立派な人もいますが、たとえ善良な人であっても、たとえば、自分では気づかぬうちに誰かの心を傷つけてしまっていたり、種々の煩悩(ぼんのう)によって罪障を積んでいることもあるのです。むしろ、数え切れないほどの小さな罪障を、一生の間に作っている人が普通といえるでしょう。
そうした、誰もが積んでしまった罪障(ざいしょう)を消滅するために、私たち日蓮正宗の僧俗は、南無妙法蓮華経の御本尊のもとに、日々に仏道修行を行なっています。
こうした日頃からの罪障消滅の修行の延長線上にあるのが「葬儀」です。葬儀は、その人の一生を締めくくる「総決算」を行なう儀式であると同時に、新しく生まれ変わる先を定める重大な「結縁(けちえん)」の儀式でもあるのです。ですから葬儀は、「お別れを言う」「感謝の心を伝える」だけのセレモニーではなく、故人が今生を終え、苦楽さまざまの未来を開く境目でもあり、遺族が一心にその即身成仏を御本尊の功徳に託(たく)する大事な大事な儀式なのです。
もちろん、成仏とは本来、自身が仏道修行を行なう結果、得られる幸福な生命状態です。しかし、なかには、御授戒を受けていても信仰活動が充分にできなかったり、御本尊に縁のある家庭に生まれても、勤行・唱題や寺院参詣ができていなかったりと、信仰姿勢は、人によってはまちまちです。
よって、生前、南無妙法蓮華経の信仰を固く持(たも)てた人も、そうでなかった人も、ともに日蓮正宗の「正しい葬儀」を執り行なうことによって、御本尊の功徳に浴し、生前に積み重ねた罪障(ざいしょう)を消滅させて、成仏(じょうぶつ)の境界(きょうがい)へと、御本尊の強大な仏力・法力によって到らせることができるのです。
日蓮正宗の葬儀では、故人が御本尊のご威光(いこう)によって一切の罪障を消滅し即身成仏の利益(りやく)を受けるため、正法の師(僧侶)により故人の生命に引導(いんどう)が渡されます。その引導は、日蓮大聖人が仏法の根源として建立された本門戒壇(かいだん)の大御本尊と、その大御本尊を基とする唯授(ゆいじゅ)一人の血脈への尊崇(そんすう)という正しい信仰を基とします。
ですから、こうした成仏のための引導は、正法を伝持する正師(正法の僧)から渡されてこそ、故人は御本尊の功徳によって即身成仏することができるのであり、私たちはこのことを忘れてはなりません。
こうした厳然とした道理からいえば、「本尊(しかもコピー)と、法華経が唱えられる人がいれば、日蓮正宗の僧侶をわざわざ呼ばなくても構わない」と考える「創価学会」や「顕正会」、「正信会」等の葬儀では、成仏はぜったいに叶(かな)わないこと~これは一目瞭然(りょうぜん)です。
以上のようなことから、日蓮正宗では
①「宗派を問わない」葬儀や法事は受け付ません。必ず施主が日蓮正宗に入信し、日蓮正宗用の仏壇を自宅に設置していただくことを条件とし、葬儀をお受けすることになっています。
②たとえ、故人が日蓮正宗の信仰をされていたとしても、残された遺族の方が日蓮正宗の信仰を受け継いでいく意志がなければ、葬儀より後の法事は受け付けしません。
日蓮正宗では、あくまでも葬儀の本義は、故人ならびに遺族の信仰を最も重んじます。よって、「信じていない」「無宗教である」と明らかにする方からの願い出による葬儀は、ぜったいに受け付けることはありません。その点は、葬儀を迎えるご家庭においては、事前に充分に菩提寺のご住職と話し合っておくことが大切です。
《最後に…》
「無宗教が普通」と考える現代日本の悪しき風潮を助長する「お坊さんのいないお葬式」について、私はこれを、日蓮大聖人の仏法に敵対する挑戦と受け止めています。積極的でなくとも、日蓮大聖人の仏法を信じない“不信謗法”を、これ以上看過(かんか)することはできません。
同時に、信仰の正邪をただすことなく、葬式や法事だけに専念し、人々の真の救済をなおざりにする他宗の僧侶・寺院のあり方を破折することこそ肝要と考えます。
私は、一刻も早くすべての寺院を、日蓮大聖人の正法を伝持する「日蓮正宗の寺院」へと改宗するため、広宣流布に向かって折伏を推進していくこと、これを固く御本尊様にお誓いするものです。