PL教団(パーフェクトリバティ) 成立・教義と疑問
PL教団は、御木(みき)徳近が「人生は芸術なり」等の処世訓を教義として創立した神道系の新興宗教です。教団名の「PL」は「完全なる自由」を意味するといいます。
教団では徳近の父・御木徳一(とくはる)を初代教祖とし、徳一が「御嶽(おんたけ)教徳光大教会」の教祖・金田徳光の弟子であったことから、金田を「幽祖」と仰いでいます。
◇沿革・歴史
<初代教祖・御木徳一>
御木徳一は、明治4年に松山に生まれ、本名を長次郎といいます。8歳のとき黄檗宗安城寺で出家して長正(ちょうしょう)と改名し、十数年間、各地の禅寺で修行を行なったすえに明治26年に安楽寺という寺の住職になりました。翌年結婚して明治33年4月に曒正(あきさだ)(のちの徳近)が出生しています。
長正(徳一)は寺の庫裏を改築して織物製造や農機具販売などをはじめましたがうまくいかず、いずれも失敗しました。明治43年に還俗して僧侶を辞めた長正(徳一)は、翌年仕事を求めて大阪に移住。貧困生活の中で妻に先立たれ、自分も脚気(かっけ)と喘息(ぜんそく)に悩まされ、当時、病気治しで評判だった金田徳光の元を訪ねました。
金田徳光は後に「御嶽(みたけ)教徳光大教会」を設立しますが、このときはまだ、神主の資格を利用しながら、みずからが病気や苦しみを本人に代わって引き受ける「お振替」や吉凶の占いなどを行なって生計を立てていました。
この「お振替」に関心をもった長正(徳一)は、金田に「その修法を教えて欲しい」と頼みましたが、金田から「お前は今は純粋に修法を学びたいと思っているようだが、5年後には、この方法をきっと食い物にするだろう」と断られてしまいました。
長正(徳一)は、友人の勧めで今度は禅僧として僧侶に復帰しましたが、大正4年12月、再び還俗して僧侶を辞めてしまいました。翌年4月、ふたたび「御嶽教徳光大教会」を訪れ、長男・曒正(あきさだ)とともに金田に弟子入りし、長正は「徳一」、長男は「徳近」との名前を受けました。徳一は巧みな話術によって一時は教団内で信望を得ましたが、虚言癖が暴露され、次第に疎まれるようになっていきました。
大正8年1月、金田が病死し、まもなく徳一は教団内で風紀問題を起こしたため「御嶽教徳光大教会」から追放されました。
追放された徳一は、金田から授かったとする「お振替」などの霊験を用いて、新たな信徒を獲得していきました。この頃徳一は、金田から自分が「教訓十八箇条に三箇条を加え、教えを完成する人物が現われる」との遺言を受けていたとし、大正13年には残りの三箇条を自身が天から授かったとして付け加え、自分こそが金田の正当な宗教的後継者であり完成者であると位置づけました。
こうして徳一は、大正13年、自分を追放した「御嶽教徳光大教会」に対向して「御嶽教徳光大教会本部」を結成し、従来の金田の教えに新たに創作した二十一箇条の人生訓などをもとに布教を開始しました。昭和3年には教団名を「御嶽教徳光大教会本部」から「扶桑教人道徳光教会」に、さらに昭和6年には「扶桑教ひとのみち教団」に変更しています。
昭和11年9月6日、徳一は教祖の地位を息子・徳近に譲りました。同月28日、徳一は少女に対する強姦わいせつ容疑によって逮捕されました。その半年後「天照太神は太陽であり、天皇といえどもその心根を正すために神から苦痛が与えられる」という教団の教義が不敬罪に当たるという理由で、教祖・徳近以下幹部14名が治安維持法によって検挙され、教団は解散処分となりました。これを「ひとのみち事件」といいます。
◇「ひとのみち」から「PL」へ
こうした混乱のさなか、初代教祖・徳一は昭和13年7月6日に急死しました。さらに「ひとのみち事件」の混乱が長期化し、教団内部にさまざまな意見対立が起こりました。やがて同会を離れ、「新世文化研究所」「神道徳光教会本部」などを新たに設立する幹部も出ました。
第二代教祖・徳近は、昭和21年、仙台の会合で「人生は芸術なり」ではじまる「PL宣言」を発表し「パーマネント・リバティ・クラブ」を発足しました。同年9月に徳近は佐賀県鳥栖市にあった妻の実家でPL(パーフェクト・リバティー)教団を立教しました。
翌年9月、徳近は立教1周年記念祭において、徳一の人生訓に代わる神訓として「人生は芸術である」からはじまる「PL処世訓 21箇条」を制定しました。
昭和27年、教団は宗教都市づくりを目指して、静岡県から大阪府富田林市への本部移転を決定。翌年の初代教祖・徳一の祥月命日に打ち上げ花火を行ないました。この花火大会は「PL花火芸術」として、現在でも行なわれています。
昭和29年に大本庁を設置、翌年には仮本殿を完成させるとともに、PL学園高等学校を開設しました。このほか31年には宝生病院を、翌32年にはゴルフ場を開設しています。
このころから、第三代・教祖の座をめぐり内紛が起こりました。徳近夫婦には実子がなく、後継者に徳近の甥である御木徳日止(とくひと)を指名していましたが、その指名を破棄。新たに、養子にした妻の甥の貴日止(たかひと)を第三代に指名することになりました。この処分に不服だった徳日止は、昭和55年5月、PL教団から分派して、「人道教団」を結成しました。
昭和58年2月、第二代教祖・徳近が死亡し、貴日止が三代目の教祖に就任しています。
<教義の概要>
PL教団では、大元霊(おおやおおかみ)、教神、祖霊(おやみたま)の三つを信仰対象とし、本部・正殿に祀っています。
大元霊とは「一切の根源であり、宇宙を統一した神」と規定し、これを祀るに当たっては徳近が造った菊型の日章紋を象徴として用いています。教神とは、幽祖・金田徳光、初代教祖(おしえおや)・御木徳一、二代教祖御木徳近の三霊をいいます。そして祖霊とは、全信徒各家先祖の霊を合祀したもので「大本庁神霊」ともいうそうです。
信徒の家庭では、神と一体の境地である教祖が魂入れした「神霊(みたま)」を祀らせています。この「神霊」には新入信者に与えられる「新友神霊」と、信仰が進んだ者に与えられる「教徒神霊」があります。
教団では、人間の生命は大元霊の分霊であり、人はすべて神の子であるとの自覚を持ち、各自の個性を自由に表現し、みずからの幸福と世界人類の福祉と平和に貢献していく道を示すことを目的としています。
会員は、日々の勤めとして、神霊に向かって朝詣と夕詣を行ないます。その際、声に出して「お・や・し・き・り」と繰り返し唱えます。
また奇妙な習慣として、教団では信者から金員を5年間無利子で借り受ける「悟加富」という制度を設け、これに参加すると、一切の不幸のもとである物質欲や金銭欲がなくなり、経済観念がよくなると教えています。
<教団への疑問>
▼曖昧な神と礼拝対象物
教団では宇宙の根本神を大元霊としていますが、この神の実体や所在、教祖との優劣関係については、まったく明らかにしていません。
礼拝対象物がきわめて曖昧であるのに対し、「教祖によって世の人々は真の救いを得ることができるようになった」(趣意・PL30年史23ページ)
というように、教祖の絶対性だけが強調されています。しかしその教祖自体、普遍的な指針を打ち出すこともなく、無節操にも、教義や教団名、活動方針などが頻繁に変更されているのが現実です。
徳近は、近年になって日章マークを礼拝対象物にしましたが、その根拠も、はっきりしていません。徳近は「私は自分で造形した神を、自分で決定した礼拝様式で、私自身が拝みます。これは我ながら見事なものだと思っています」(心を燃やす 46)といっているように、何から何まで教祖の思いつきが、そのまま教義になっているということです。
礼拝物について教団のある幹部は
「端的に言っちゃえばですね。礼拝をするには、何か対象がなければ格好がつきませんでしょう。それで、この形を創ったので(中略)だから何であってもよかったわけで、古ゾウリでもよし、ちびたゲタでもよかったんです」(新宗教の世界 96)などと語っています。PL教団では、信仰のうえで最も大切であるはずの礼拝対象物(御神体)ですあら、このようにいい加減なものなのです。
▼「身代り」の邪義
PL教団では、「身代り」の神事によって、信者の病気や惨事をすべて教祖自身に振り替えて解決するとしています。しかしこの「身代り」はPL教団独自のものではなく、すでに「ひとのみやち」や「徳光教」で「お振替」と称して行なっていたものであり、教団では当初「転象(てんしょう)」と呼んでいました。「ひとのみち」教団発行の『信仰の本道』には、「をしえおやは、悩みを一身に引き受けることによって、毎月二十日頃から身体が役に立たないやうになってくる。人の苦しみを現実に、自分の肉体に引き取られるから、細胞組織の完全な身体ではなくなってくるのであります」(255)とまことしやかに述べています。
しかしこれは、現代医学ではまったく通用しない、邪義そのものと言えましょう。
仮に教祖にそのような身代わりができるとするならば、今日、100万人を超えると言われる教団の信者の病気や罪業をすべて背負って、教祖は常に病弱で苦悩にまみれた境遇を日々過ごしていることになるわけです。そんなことは人間が普通に耐えられるようなものではありません。
ところが教団では一方で「もちろん、おしえおや(教祖)はあくまで人間であって神ではありません」(PL30年史23)といっており、矛盾ばかり目立つといえましょう。
また、「御振替」によって昔、金田に喘息を治してもらったという初代教祖・徳一さえも、終生、他人に隠れて喘息の薬を飲み続けて生きながらえていたという証言もあります。
徳近自身「科学的根拠の無いような宗教は、其れ自体虚偽」(日訓241信)といっていますが、まさに科学的根拠もなく、何の裏付けもない自己矛盾の教団こそ、PL教団であると言えるのです。
▼「神示」の矛盾
PL教団では、「神示(みしらせ)」を説いて、人の「我」や個人的癖が原因となり、引き起こされる自己表現のひずみが、病気や不幸、災難などの形になって現れるとし、「心の持ち方次第で、幸不幸が決まる」と教えます。
しかし、そうした理論が、もし通るならば、生まれながらにして障害や病気を持つ人の存在について説明することはできません。また、なかには不遇にも自己や災害で命を落とす人がいるのも現実であり、これも神の「神示」というならば、PLの神は大変無慈悲な存在といえます。
▼低俗な処世訓
教団で協議の中心に置くのは『PL処世訓』であり、その根本は「人生は芸術である」との条目です。教団では「自我を離れ、自己を顕現していくところに人生の真義がある」(宗教総覧184)としていますが、煩悩が多い人間は、生命の浄化こそ大事であって、「自我を離れること」など到底不可能です。この条項はまさに、人間性を無視した教条であり、さらに「自己を顕現する」だけで真実の人生の幸福が得られるわけでもありません。したがって、PL教団でいうこれらの言葉はきわめて抽象的なものであり、その他の条目についても、ありきたりの言葉を羅列しただけのものに過ぎないのです。
教祖の悟りと称するものが、この程度であるところに教団の教義の低俗さといい加減さがあるのです。それは、立教前の徳一が、何度も修行を頓挫しては、あちらこちらを転々とする人生を送り、いきついたさきで聞いた目新しい新興宗教を、自身の生活の糧とした姿から見ても、一目瞭然と言えましょう。
※この文章は、「諸宗破折ガイド」(大石寺発行)の文章を筆者が一部訂正して掲載したものです。