「子供の謗法の姿、不信の姿を何とも思わない親、親の謗法を見過ごして気の毒にも思えない子供、兄弟・親類・友人等の謗法を心の底から気の毒であると思えないことがたとえ自分が信心をしているといっても、謗法与同(よどう)の姿になります。
いわゆる無関心・無気力は、やがて地獄・餓鬼(がき)・畜生の三悪道行きの原因であります」
幽霊・障魔の克服は、妙法信心による守護の働きによってこそ叶う
末法の人々の周囲には、その人を不幸に落とそうとする、あらゆる障魔(しょうま)が存在する。得体の知れない地獄、餓鬼、畜生のようなものの幽霊が取りついて障礙(しょうげ)をなしたり、また過去の障りが病魔として表われたり、現在の心のなかの迷いが障魔として出て、あらゆる苦痛と不幸が生ずる。また、人間関係の上からの怨憎会苦(おんぞうえく)に悩まされることもある。
しかし、大聖人は南無妙法蓮華経を「獅子吼」と仰せである。師子があらゆる獣(けもの)を怖れないように、信力を強く持ち唱題すれば、あらゆる苦難と障りを消滅し脱却する。これは、妙法受持の人に対し法華経を護る法界の生命、鬼子母神、十羅刹女等が守護するのである。(「すべては唱題から」42ページ)
末法本未有善の私たちが、なにゆえに久遠の弟子「地涌の菩薩」たりえるのか?
大聖人は、末法において妙法蓮華経を弘め唱える者は、男女共に地涌の菩薩の出現であると仰せられている。しかしまた、末法は釈迦仏の化導の仏縁による本已(ほんい)有善の衆生は消滅し、仏法に縁のない本未(ほんみ)有善の衆生のみが生ずる時であるとも仰せである。この違いを、どのように拝すべきであろうか。
これは、久遠元初よりの下種仏法の因縁と、久遠本果よりの脱益仏法の因縁が異なることによる。初めは本未有善として全く仏法に縁のない末法の衆生が、妙法を受持し、題目を唱え、折伏を行ずるとき、地涌の菩薩の命に生まれ変わる。したがって、久遠以来、妙法を行ずる清浄な地涌の徳がそのまま、その者の命となり、久遠以来の妙徳が生ずる。これが妙法不思議な功徳なのである。
(「すべは唱題から」41ページ)
唱題は、曲がった心を正す
法華経は一代仏教の中心で、題目は法華経の肝心である。故に題目は一代仏教全体の肝心でもある。題目は、自らも唱え他の人々にも勧めることが大きな功徳を積むのである。人々の心は、様々な過去からの罪業と、現在持つ多大な煩悩で歪曲している。それはあたかも曲がった木のようなものである。その曲がった木も、まっすぐな墨縄を打てば建築の材料として使えるように、曲がった心は題目の功徳によって自然にまっすぐになる。それには、法華経に説かれてある不思議な功徳を信ずることであり、経の説くままに素直に信じて唱えることにより、曲がった心もまっすぐになっていくのである。
題目は仏の心がそのまま顕われているから、無心に唱えるとき、その心がおのずから衆生の心に入るのである。題目の尊さを心奥に銘記することが肝要である。
(「すべは唱題から」58ページ)
心やすらかな日々をすごすために~現世安穏・後生善処の功徳
題目を唱えていくことによって、おのずから現在世が安穏になり、未来世が善い境遇になるという御指南がある。現世が安穏になることは、一にかかって心の安らかな状態が続くことである。
一切の人々は、心が色々なことに迷う故に、心に安らぎがない。妙法受持により、現世が安穏になると断定すれば、そんなことがあろうかと反論する人も多いだろう。しかし、人の心には、まず求不得苦の悩みがある。欲が深ければ深いほど、求めてしかも得られない苦しみは大きい。あらゆる人が、なんらかの欲求による現状不満足の悩みを抱えているのは事実である。また愛別離苦という、愛する親、兄弟、妻子、眷属に別れる苦しみや、怨憎会苦という、我に怨(あだ)する憎むべき者と会う苦しみも多く、時と境遇の移り変わりによって色々に現われる悩みがあることは、万人に共通している。そして、生命は心と身体とによって出来ているが、この結合によって「おれが」「私が」という我意識が存する。この我が基となって、あらゆる欲望が焰(ほのお)のように燃え上がる。これが身心の欲望の熾盛(しじょう)な用きによって生ずる五陰盛苦(ごおんじょうく)で、すべての苦悩を惹起(じゃっき)するのである。
このように、我々の身心、特に心は悩みの元である。この不満足を解決しようとして、人々はあらゆる工夫や策略を練って種々のことを実行するが、それが次から次へと新しい苦悩を生むに至る。これは全体の融通性に暗いためで、小我の無智な凡夫の身心に執われているから、結局、正しい解決がつかないのである。
この苦悩の解決には、広大にして根本的な法理を具える題目を信じ、また行ずることが肝要である。その法理の相を詳しく言えば、我々の身心は本来が尊く、不思議なのである。その不思議とは、無智な凡夫の到底、考えられないことであるが、しかしまた、これには三つの真理の大存在がある。
その一つは、我々自身が絶対空という真理である。その二は、内的原因と外的な縁、つまり無量の因縁によって仮に我という身心が現れているところの仮(け)の真理である。その三は、右二つの真理の一方にも片寄らず、その両方を含み具える中(ちゅう)という真理であるが、この三は総体的な各別の存在ではなく、その一々に他の二が宛然として具わる、絶対の三即一、一即三の円(まどか)な法理である。これは、あらゆる者に無限の意義と値打ち、すなわち自由・平等・尊厳が具わることを示す故に、限りなく尊いのである。この法理は、一切衆生の身心と、それによる存在と生活におのずから具わっているから、我々の身心は本来、絶対に円満そのものであり、すべてを正しく照らす智慧と不動の徳と、様々な部分的に派生する善悪を包含する大善の体なのである。
この大法理が、各におのずから具わるにもかかわらず、人々はこのことを全く知らず、ただ小さな自我による目前の欲求のみに執われている。この大法理を、一言にして顕した教法が南無妙法蓮華経の五字・七字なのである。妙法の深さ、大きさ、深さは凡智で到底、計り知ることはできない。しかし、妙法を信じて題目を唱えるところに、この法理の体はすなわち我が身であるから、妙法の尊い真理・価値の内容のすべてがその身心によみがえるのであり、求めずして安楽な境界が自然に現われるのである。人生百般のあらゆる種類の苦悩も、この妙法全体の真理のなかに存在しているから、色々な理論や理屈野説明による納得で知り得るものでなく、繕うことのない、ありのままの身心において、無作という融妙不思議な安らぎと善悪を正しく思いきる尊い自覚が現前する。
しかし、ただ心に妙法を観念するだけでは、具体的、実質的な妙果は得られない。すなわち、妙法の実体を的として、声を出して題目を唱えることが肝要である。この妙法の体とは、久遠より妙法を所有あそばす下種本仏・日蓮大聖人の大慈悲により顕わされた大曼荼羅御本尊である。この御本尊を的として信じ行ずることで、妙法の功徳が確立する。故に一切衆生は南無妙法蓮華経と唱えることにより、真の安楽がある。この安楽の心地をもって、各の与えられた境遇で生活するとき、悠々として行住座臥(ぎょうじゅうざが)を楽しむのは、この世界が妙法の世界と達して、そのなかで遊び暮らすこと、すなわち遊楽の生活である。大聖人の御金言に
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり」(四条金吾殿御返事 平成新編御書991ページ)
と、法界の一切を貫く絶対の御指南を拝する。これは、我らの心は知らなくとも、その一念は法界全体に通じているので、あらゆる功徳を享受する一念三千の仏因仏果が生まれる。凡夫そのままで、なんら作ることなく、その身心を仏の体と用きとして、受け用いるのである。そこにまた、おのずから後生善処の福徳も具わる。すなわち、どのような苦しみも楽しみも、それを素直に受けつつ、また執われずに南無妙法蓮華経と唱えるところ、すべてを超越しつつ、現在をそのまま大楽として受け用いる境界である。これが自受法楽の凡夫即仏の自行であり、また、これが必ず化他折伏の行に至るのである。(「すべては唱題から」57ページ)
◇一切を御本尊にお任せし、唱題に励めば必ず問題は解決する
今自分は悩み苦しんでいる。人から悪口を言われている。人と対立している。それらのことをどのように解決したらよいか、など、ありとあらゆる善いこと、悪いことのすべてを、大聖人様のお心を拝しつつ、大聖人様の御教えに順ずる心をもってお題目を唱えてごらんなさい。必ず解決するはずです、その解決が、また、尊いのです。その体験、その心を持っておるならば、「私はお題目によって、これだけのことを、このようにして得ることができた」と自信をもって話ができるのです(中略)次から次へと本当の題目の功徳をつかんでいったならば、つまり、五十展転随喜の功徳が広がっていくならば、広宣流布は、まさしく人から人へと確実に正しく伝わっていくのであります。
◇「日蓮大聖人の仏法は、受持即観心といって、御本尊を受持信仰し、折伏することが唯一の大戒になると聞いた。しかし本来は、仏道修行者としては、戒律を守る人こそ尊いのではないか」と疑問を持つ方へ
そもそも仏法では、私たち凡夫が人生において苦しむ根源的な原因は「煩悩」にあると教えます。よって、煩悩を取り除き、汚れた心を浄化していくことが成仏のために欠かせない修行とされてきたのです。
その煩悩には種々のものがありますが、その一つの分類に「三惑(さんなく)」があります。その三惑も細かく分類すると、その中の一つに「見思(けんじ)惑」があります。「見思惑」は「見惑」と「思惑」から成り、「見惑」は「事物の道理に迷う煩悩」のことを指します。
この「見惑」はさらに細かく五つに分類され、その中に「戒禁取見」があります。これは、仏法の深い意義を大局的に見渡すことができず、小さな戒律などに、いちいちこだわる心を捨てきれない迷い、のことです。
皆さんのなかには、「やはり、戒律を守る人こそ、真の仏道修行者と言えるのではないか」と、内心、思っている方もいるのではないでしょうか。
もちろん、現代社会において、人として行なってはならないこと、守るべきルールを大切にすることは常識人として当然のことです。しかし、そうしたことと、真実の成仏を目指す仏道修行を、単に混同して考え、「肉を食べないような立派な人こそ、真の仏法者である」などと考えることは、少し違う、ということなのです。
そうした疑問について、ここに総本山第67世日顕上人のご指南を紹介します。
日顕上人が、戒律を捨てきれない偏頗な信仰や思想や、または、そもそも間違っている戒律にこだわり続けることは、正しい仏道修行の妨げとなることを教示されるご指南です。
【日顕上人ご指南】~
この戒禁取見(かいごんしゅけん)は、戒取見(かいしゅけん)と禁取見(ごんしゅけん)に分けられます。
戒取見とは外道(仏法以外の教え…編者註)の戒や仏教中の小戒に偏(かたよ)ることです。五戒中の不飲酒戒(ふおんじゅかい 酒を飲まない戒律…編者註)というのがありますが、これは酒を飲むことによって、様々な悪いことが起こってくる場合があります。身体の調子を悪くしていますと、酒を飲むことによって、ますます調子が悪くなりますし、酒乱の人が酒を飲むと手に負えないことがあります。ですから、そのような場合は「酒を飲まないほうがよいぞ」ということを仏様が戒めていらっしゃるのです。
したがって、五戒は、人間の道徳として当然のことであって、これだけをしていれば幸せになれるというものではないのです。やはり、世の中のあらゆる因縁・因果の姿というものは十界に及んでおり、様々な幸不幸の姿には大きな波がありますから、ちっぽけな船(小さな戒律を守るだけ…編者註)ではそれを乗り越えることは到底できないのです。
ですから、仏教の大乗(だいじょう)経典には、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)という六つの大船によって、初めて到彼岸(とうひがん 悟りに至る…編者註)の道がそこに開けるということが説かれておりますし、極大乗の法華経においては、南無妙法蓮華経の三大秘法の教えをもって、この根本の大船となす意義が存するわけであります。
したがって、そこのところから離れて、ただ五戒だけを修しても幸せになれるということはないのですが、そこにのみ執われることが戒禁取見のうちの戒取見に当たります。その他、外道の戒律には誤りが多いので、やはり取るべきではありません。それらに執われるのが戒取見であります。
次に、禁取見というほうは、外道の苦行などに執(とら)われることであります。つまり先程の「ア法(一生、言葉を発しないという戒律…編者註)を受たる婆羅門」であるとか、また、これは外道の苦行のなかで一番ひどい苦行かも知れませんが、犬(けん)苦戒あるいは牛苦戒といわれるものがこれに当たります。これは、我々の前世は牛や馬だったとする考え方から、徹底(てってい)して牛や馬の所作を行うのです。牛のように四つんばいになって草を食べたりするのですが、それによって牛となるつたない果報(かほう)が切れて、天に行くことができるとするのであります。また、犬の場合は、犬のように吠えて、小さな小屋につながれて不浄なものを食べるというように犬の真似(まね)をするのです。
このようなひどい教えが正しい道ではないことは、やはり、常識を持った人であれば判(わか)るはずです。しかし、今の日本人のなかにも、これら非因計因・非道計道の戒禁取等の考え方が、色々な意味で実に多く、精神的にも物質的にも、また色々な道徳の上において不幸になっている姿が存します。これはすべて、外道の見解が根本になっておるところから生じておるものであります。また、仏道修行をしている者のなかにも、ただいま申し上げたような意味で外道の考え方に陥(おちい)っている人がいるのです。
したがって我々は、大聖人様の仏子であるということを考えるときに、本当に正しく大聖人の正法を受持し、その教えに基づいて、この外道の諸々の考えに侵(おか)されている人達を教導すべきであります。そして、正しい道理による法を受持せしめる、そのための働きが折伏ということであります。
大聖人の正しい仏法を信じ、正しい僧侶の教えによって、また正しい信徒の集まりによって、お題目を唱えるという行業(ぎょうごう)のなかに顕れてくるところの道は正因縁の道でありますから、正しい因縁・因果の理法を掴(つか)むことができ、その人の生活に正しい功徳が充満してくる次第であります。
そのような点からも、これからの正宗の僧侶、また信徒の方々は、常に自行化他ということを忘れないようにしていただきたい。自分自身が修行すると同時に、非常に誤った人生観、世界観、あるいは戒禁等に執(とら)われておる世間の人達に、大慈悲をもって「あなたの考えは不幸になりますよ」と指摘し、正しい道に導いていただきたいのであります。
宗門も、その大慈悲の上から、種々の心得違いをしておる団体(創価学会…編者註)の長に対して、今までも、また、これからも、誤りを誤りとして正しく示しておるのです。ですから、これは大慈悲の気持ちから行っていることであって、けっしていたずらに争ったり、喧嘩(けんか)をしておるのではないのです。
そのところを、よく考えていただきたい。皆さん方もそれぞれの立場において、(信仰的に…編者註)狂っておる人、間違っておる人を見たならば、随うと背くとを問わず、慈悲の気持ちをもって少しずつでも正法正義を説き、その誤りを指摘し、正法に帰一せしめるように努力することが自行化他にわたっての正しい信行になるのでありまして、それこそが我々の真の成仏の道なのであります。
(平成3年6月10日 埼玉県・正興寺での『開目抄』ご説法より)
◇唱題をすれば自在の境界を築く
「題目には仏の広大な悟り、すなわち人生万般の道理、法界の真理が具わるので、妙法を唱えればその体に達し、自在の徳を得ていくことができる」
◇慈悲の折伏で功徳を
法華経には「我が滅度の後、能(よ)く竊(ひそ)かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当(まさ)に知るべし、是の人は則(すなわ)ち如来の使(つかい)なり。如来の所遣(しょけん)として、如来の事(じ)を行ずるなり。何(いか)に況(いわ)んや、大衆の中に於て、広く人の為に説かんをや」(大石寺版法華経 321)
と説かれてあります。(略)
その「一句」とは、まさに三世の諸仏の帰趨(きすう)たる本門の本尊の妙法であり、無量無辺の功徳を具(そな)える故に、よく竊(ひそ)かに一人のためにもこの大法を示し説くことが仏の振るまいであり、仏の徳と智慧を顕すものであります。しかも、このことは、少しも難しいことではなく、相手に対して「この人を救おう」という思いがあれば、だれにでもできることであります。
すなわち、この妙法を示すことは、相手の低く狭い人生観を破って、最高・最善の仏徳・仏智に導くことであり、これすなわち折伏であります。この折伏は多くの苦悩の人々を救うとともに、これを信じ説く我等自身が無量の徳を積むことになります。
いわゆる「一人が一人の折伏を」という意義がそこに存するのであります。そして妙法を受持する信仰生活に入ったとき、群がり来る様々な試練や悩みこそ、まさに佳(よ)き妙法の功徳実証の材料と見るべきであります。宗祖大聖人は
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益有るべき時なり。されば此の題目に余事(よじ)を交(まじ)へば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大漫荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御書1818)
と仰せであります。
御本尊の功徳を信じて十分、三十分、五十分と心ゆくまで唱題行に打ち込むところ、必ず確然(かくぜん)とした解決のひらめきや、大心、安住心、勇健な心、不可思議な心と身体の用き等、その状況・状態にしたがって言い知れぬ貴い体験実証を得るのであり、すなわち、あらゆる人の生活の根本指針がこのところに存するのであります。そして、この体験を元に、さらに一人が一人に語り、展転(てんでん)の功徳を連ねていくことが「行如来事」であり、広宣流布の原点であります。
(平成10年8月23日 第二回海外信徒総会の砌)
◇一切を開く鍵は唱題行にある
宗祖大聖人は、「仏法は時によるべし」(御書578)と仰せられた。顧みるに平成二年以来、四年を期とする躍動の節目よりして、本年こそ広布への本格的進展を開始する時が来たとしるべきである。また、宗祖大聖人の御金言に、「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(御書1544)と。
この志とは三世常住にして吾らの大願たる妙法値遇を悦び、道念を奮い起こして修行に向かう心地である。また、さらに『聖愚問答抄』に
「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし」(御書408)
と仰せであり、吾らはこの御本仏の金言を信得し奉り、讃仰実践すべきである。
一切を開く鍵は唱題行にある。そこに僧俗一人一人の現在の位置と人格をめぐって、不思議な折伏教化の因縁がおのずと顕れる。また、それが世界広布の要諦でもある。
(大日蓮 平成11年1月号 新年の辞)
◇謗法こそ心の病の根源
本仏大聖人様は
「閻浮(えんぶ)の内の人は病の身なり、法華経の薬あり、三事すでに相応しぬ、一身いかでかたす(助)からざるべき」(御書891)
と仰せであります。この病とは身体の病だけではありません。仏法においては「身は心の従」と教えており、身体は心の善悪に従ってあらゆる変化が生じ、そこに種々の病気や不幸が現れるのであって、その病気の元は過去・現在・未来の三世にわたる心の因縁果報に存するのであります。
したがって、その元の心の病を治すことが肝要であり、仏法ではこの心の病について重々の内容を示しております。いわゆる見惑・思惑・塵沙惑・無明惑と重層する煩悩八万四千の労(わずらい)は皆、心の病でありますが、その上に最も重い心の病は法華正法に背く謗法の病であります。
現代の世界の一切民衆は、皆、このあらゆる病のなかに沈んでいると達するところに「慧光照無量」の仏知見が存するのであります。故に、今日、世界中で種々の思想・宗教が根深い怨みと怒りのなかで対立し、殺害し合い、民衆もまた、出口のない混迷のなかで右往左往するのみであるのも、この心身の大良薬が何であるかを知らず、迷うところにあります。
(大日蓮682号 H14.10.26海外信徒総会初会の砌)
◇「一年に一人がひとりの折伏」に、気迫を持って挑戦しよう
なんとか一人が一人の折伏を行っていこうというところの信念、気迫をもって進むことが肝要と存ずるのであります。できないと思っておると、いつになってもできません。しかし、仏様の御命(ぎょめい)であるということを深く体していくときに、そのことは遠いところにあるのではなく、皆様方の足元に存すると思うのであります。宝塔品に
「諸人云何(いかん)ぞ勤めて 法の為にせざらん」(大石寺版法華経347)
という御文がありますが、これは仏様が末法に妙法蓮華経を弘通せんがために、多くの菩薩方を策励されたお言葉であります。すなわち、この法のために、なんらかをなさんとするところの心こそ、お題目を実践する心であります。お題目を御本尊にしっかり唱え、その心掛けをもって進むときには、仏様の智慧が皆様方の信念のなかに必ず顕れてくると存じます(略)たとえ一時間でなくとも、三十分でも十分でも結構ですから、真剣に唱題をされ、仏子として課せられた大聖人様からの御命である、本年度における仏法の護持興隆、広布への前進を、皆様一人ひとりの信心をもってしっかり行ぜられることを心からお祈りいたしまして… (大日蓮588号 H7.1.3 唱題行の砌)
◇「よし、やってみよう!」の信心を
皆様方一人ひとりが毎日の生活のなかにおいて、信心の問題、家庭の問題、教育の問題に直面し、しかも悩み、あるいは苦しんでおるところのすべてを根本的に解決してくれるのが仏法なのです。けれども、それにはまず試(こころ)みなければならないのです。「よし、まずこれを試みよう」と思って唱題を根本に試みてごらんなさい。そして試みて、「道理証文よりも現証にはすぎず」の御文のとおり、実際に一つひとつを現証として身に宛ててはっきりと掴(つか)んだときに、言われなくても、人に向かってこの仏法の話をしたくなってしょうがなくなるのです。
講頭さんであるならば副講頭に話し、講頭・副講頭であるならば幹事に話し、さらに多くの人々に「大聖人様の仏法を信じ、お題目を唱えることによって、このようなことがあるのだ」ということを、自らの実証・体験をもって、心の底から人に向かって話をされていくところに、試みという意味からの実証の姿があると思うのであります。
上の人から「これはよい」と言われて、何がよいのか本当のところは解らないということでは困(こま)るのです。自分が本当に「これだ」ということをしっかりと掴んで、その試みに応じて、人に向かってたとえ一言でも二言でも乃至、百言でも千言でも「必ず幸せになるのだ。一つひとつの仕事や問題が正しく解決するのだ」という仏法の信心修行の大きな功徳を、実際に自分自身が掴みながら人に向かって話していくことこそ、大切だと思うのであります。(中略)上の人から言われたことを、ただ鵜呑みにするのではなく、大聖人様が「日蓮、仏法をこころみる」とおっしゃっておられるのですから、皆様方一人ひとりが「よし、試みてみよう」と、まず試みてください。
仮りに不良の子供がいるとします。この問題はすぐには解決しませんが、この不良の子供に対して何をすべきかは、仏法を試みていく上において、その解決法が次第にはっきりと顕れてくるのであります。
(大日蓮687号 平成15年3月29日 第7回講頭・副講頭指導会の砌)
◇ 折伏の一行
大聖人は、末法に流通する仏法の相(すがた)を、“折伏の一行”と示され、また、末法の衆生は非常に愚昧(ぐまい)であるが故に、真に勝れた正法をただ深く信じて、この“信”の一念をもって自行化他に邁進するところに成仏があることをお示しあそばされておる次第であります。
この折伏ということは即、大聖人の教えを直ちに信じ、人に向かって説き示すことでありまして、自己の才覚を容(い)れることは絶対に折伏ではありません。仏の御教(みおし)えをそのまま信じて素直に多くの人に語り、その法の功徳を示し、邪義を邪義として顕わしていくこと、これがいわゆる本宗の、信の一字を根本として行うところの折伏の行であります。 (昭和57年1月6日 法華講連合会初登山の砌)