日開上人ご指南
真の寿命 (日開上人全集133㌻)
吾人の此の世の中に於きまして、人の寿命程貴いものはないのであります。巨万の財産も、希有(けう)の珍宝も、寿命が有ってこそ価値があるのであります。それ故、人の寿命を延ばし、または助けるということは、大なる功徳善根と云うべきである。されば孔子の五常の教えにも、仁義礼智信とて、仁を以て始めとする。仏の教えの中の五戒にも、初めに、不殺生戒と云うて、凡(すべ)て、生きものゝ命を助けよ、無益の殺生をしてはならぬ、と戒められております。
宗祖大聖人には、所有(あらゆる)三千大千世界の財宝を集めても、人間一人の寿命には替えられぬぞ(取意)と御仰せ遊ばされております。故に、吾人は、最も意義ある、生活光明ある一生を送るには、先ず御互いに、人の寿命を救済する慈悲・善根を第一義とせねばなりませぬ。
然(しか)るに、吾人生命の大事という事は、当然の事でありまして、只に吾々人間のみならず、一切生きとし生けるもの凡て、生命の惜しくないものはありませぬ。然らば、生命というものは、唯この本能的に生活するためのみに大事であるかというに、決して左様ではない。生きるということは、禽獣(きんじゅう)草木も生きている。唯、衣・食・住のためのみ、働き生きるということは、人生の真実義をなさないのみならず、吾人の知識理想の光明というものは、更に認められざるのであります。
勿論、この生きるという事は、大事である。その生命が大事なるだけ、それだけそこには大なる意義を存する事を知らねばならぬ。然るに、その意義を間違い、または勘違いをして、道を忘れ、臆病の振舞または卑怯(ひきょう)の行為等、徒(いたずら)に命を惜しみ、死を恐るゝ事と思うてはなりませぬ。
乃ち、吾人は、何故にその生命が尊貴にして、また尊重せねばならぬかというに、これには、種々の道理がありますが、要するにその根本というものは、吾人の心に、各皆仏性というものを所有しているからであります。
その各自に具有している仏性の玉を破らぬよう、犯さぬようにして、益々、その仏性の光明を発揮せねばならぬという事が、即ち、生命の貴い大事なる所以であります。でありますから、仮令(たとい)吾人に、この仏性というところの如意宝珠を具有してあっても、その光明霊徳を顕さなければ、宝の持腐(もちぐさ)れで、何の益にも立たない。
爾前(にぜん)諸経の権説では、吾人衆生に仏性ありと説かれてない。これ仏の方便・未顕真実の教えなるが故であります。
法華経に於て始めて、諸法実相・中道一実・十界互具・一念三千の法門を説き、仏出世の本懐(ほんがい)真実を顕されたる故に、仏の御心にも、十界を具し、吾人凡夫の心にも、十界を具し、乃至十界各十界を具するというのが、諸法実相一念三千、仏の悟りの本懐・法華経と申すものであります。
されば、貴いところの仏の心、卑しい吾人凡夫の心と、別々にあるものではない。心の本体というものは、差別がない。但、仏は覚者と申して、法華経一念三千の法を御悟りなされており、吾人凡夫は、之に迷っている丈(だけ)である。
例せば、世の中に尊重せらるゝ黄金の金も、金山の岩の中の儘(まま)の金も、金に二つはなけれども、金山の儘の金では、一向通用せず、宝ともならぬと同じく、吾人の仏性は、金山の岩の中の金の如きものであって、一向にその光明徳用を発せざるのであります。
而(しか)も、前にも述べし如く、仏性に二つはないのでありますから、之を顕し出せば、金山の金を採掘して精製すると金貨等種々世の宝となるが如く、法身・報身・応身の光明自在の徳が顕るゝのであります。
此の妙徳は、法華経の肝心・妙法の信心に限るのであります。之を法華経の不思議の妙理と云う。この法華経の真の妙理に因(よ)って、吾人の心中の仏性を顕し、光明を発せしむるところに於て、始めて吾人の生活の真の意義をなすものであります。
然らば、吾人はいかにして、この光明ある法性・仏性を顕し得らるゝかと申しますると、それは唯、この法華経の肝心・妙法蓮華経を、一心無二に信心修行するによる事であります。
経に説かれて曰く
「ただ大乗経典を受持することを楽(ねが)って、乃至余経の一偈をも受けず」云々。(法華経譬喩品)
とありまして、この経文に、ただ大乗経典というは、法華経本門寿量文底下種の大本尊の御事でありまして、唯只一心に、この御本尊を信じ奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、即身成仏は疑いないぞ、決して余経の仏・菩薩・本尊等に心をかけるな、謗法の余念が少しでもあってはならぬぞ、と御誡めなされたる教えであります。
又、宗祖大聖人の玉わく
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(観心本尊抄)
と御金言あらせらる釈尊因行果徳の二法と云うは、教主釈尊という仏とならるゝ過去の因行というものは、六波羅蜜の菩薩の修行の為、何億何万年という数限りもない程長い間に亘(わた)りて、或いは尸毘(しび)王となりては、鳩に代りて鷹のために自身の肉を切りさき与え、或いは須陀摩(しゅだま)王となりては、約束を守って命を捨てんとして、鹿足(ろくそく)王の邪見をひるがえし、或いは忍辱(にんにく)仙人としては、訶利(かり)大王のため、両手を切り落とされし等、此の如く、無量の苦行を積み重ねて、遂に妙覚(みょうがく)果満の仏となられ、而して智恵・慈悲・神通無量の徳を顕して、法華経を説かれ、一切衆生を救済し給う。これを釈尊因行果徳の二法と申すのであります。
この因行果徳の二法の功徳は、凡て、この法華経の肝心・妙法の本尊に具足し給うのであらせらるゝに因って、一心に法華経を持って、妙法を信心修行し奉れば、釈尊因果の功徳をば吾人に譲り与え給うぞ、との御慈悲であります。
されば経には、「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(無量義経 十功徳品)
と説かれてありまして、この六波羅蜜と申すことは、菩薩の六度万行の事でありまして、前に述べました釈尊の因位の修行のことであります。
それで、吾人凡夫には、迚(とて)も六度万行などという難しい修行をすることはできない。けれども、謗法余念なく、一心に法華経の肝心妙法を信持し奉れば、その一心の信心の功徳の中に、六波羅蜜の功徳は凡(すべ)て具備してあるぞ、との経文の意であります。
此の如く、仏の経文と申し、宗祖大聖人の御金言と申し、法華経肝心の妙法を、一心に信持し奉れば、吾人の仏性を顕し、即身成仏の妙果を得る事は、毛頭疑いない事であります。
然るに、この信心というは、要するに仏心を顕すという事、仏心を顕すとは、至誠至心に勇猛(ゆうみょう)精進に妙法の信心修行を励むの謂(いい)であります。
いかに勇猛精進であっても、一心忠誠でなければならぬ。いかに一心忠誠でありましても、臆病であり、または心にゆるみ怠りがあってはなりませぬ。
昔の雪山童子が、半偈の文を習うために鬼に一身をすて与えしが如く、薬王菩薩が臂(ひじ)を焼いて仏に供養せしが如く、少しも恐るゝことなく怠ることなく、一心強盛に信心修行し、大聖人の御金言のとおり、仮令(たとえ)身命に及ぶとも喜び勇んで妙法を唱え唱え、死に死するこそ、真の信心忠誠というものにして、即身成仏の妙果も、常住不変の大生命・大光明も、亦この一心強盛の信念の発動により現れるのであります。
この境に入り、この念に入りてこそ、始めて意義あるところの生活を現し、光明あるところの活動を顕すことができるものであります。
臣としては、君の大事に一命をすてゝこそ忠に生き、子としては、親の為に死してこそ孝に生き、始めて真の生命、意義ある生活というものであります。彼の大石良雄(通称・内蔵助・くらのすけ)は、罪も咎(とが)も無き最愛の妻子を離縁し、心にもなき酒を吞み、遊興に耽(ふけ)りし如く装い、同志のものまでも疑わしめた事であるが、愈々(いよいよ)時節が到来、元禄十五年極月十四日夜、仇敵吉良上野介の首級を討ち取りて、亡君の恨みを晴らされたのであります。
曩(さき)の妻子離縁・飲酒・遊興の如きは、大石良雄自身には、元より苦しい、忍びない事でありましたろうと思わるゝが、敵に油断せしめ、仇討ちの本望を遂ぐる為には、万已(や)むを得ざるのであって、即ちこれが手段方便というもので、而もその仇敵・上野介を討ち取るというが、真実誠意であります。それを、彼・大石良雄は、実行して忠誠・赤心を顕しましたから、後世に忠臣義士の芳名を垂れたのであります。ここに臣子の分が顕れ、この意味に於て、吾人の生命の尊貴なることを知らねばならぬと思考するのであります。
仏法の道理も亦それと同じく、仏世尊は五十年の間、種々の教えを説かれましたが、その中に於ても、未だ法華経本門寿量品という教えを説かれざるまでは、仏の真の本心を顕されていない。凡て虚妄(こもう)方便に過ぎぬ。
仏自身も、始成(しじょう)正覚と云うて、天竺(てんじく)・浄飯(じょうぼん)大王の太子・悉達(しった)、御年十九にして出家し、三十にして菩提樹下に於て、始めて正覚を成ぜられり已来の仏であって、仏の本地久遠というものを顕されてないと同時に、その始成正覚の仏の説かれたる、爾前(にぜん)迹門等の種々の教法というものは、凡て、虚妄(こもう)方便の説法にして、決して、真の本懐・誠諦(じょうたい)の語ではない。
本地本法を明かさゞれば、本体がない。所謂(いわゆる)有名無実の仏である。能説の仏が、已に有名無実の権迹の仏でありますから、所説の種々の教えも亦、非真実・虚妄の説なることは、自明の理であります。宗祖大聖人の玉わく、
「仏権なるが故に所説亦権なり」云々。(守護国家論)
金言明らかにして、少しも疑う所がありませぬ。然るに、仏世尊は、この本門寿量品というを説かれて始めて発迹顕本なされ、仏自身の実成証得されたる久遠五百塵点劫の本地本法を顕されましたるが故に、今まで説かれたる十方の浄土は、悉く垂迹(すいじゃく)の穢土(えど)となり、この娑婆世界は、真の本有寂光の本土と現れ、爾前迹門等十方の一切諸仏は、皆この寿量品の久遠本仏の垂迹分身にして、恰(あたか)も天の一月が百千無量の池水に影を映せるが如く、爾前迹門の十方無量の諸仏は、有名無実の垂迹仏であります。
故に、仏の真実の中の真実・本懐の中の教えというは、この寿量品に於て、始めて顕されているのである。これは、経文の上に明らかにして、毫末(ごうまつ)も疑う所はありませぬ。されば、爾前迹門等の種々無量の教法並びに諸仏等は、畢竟(ひっきょう)するに、この寿量品を説き、真実至極の久遠本地本法を顕し、本有の三身と現れ、一切衆生を凡て成仏せしめ給うの方便手段たるに過ぎなかったのであります。御妙判に曰く
「一切経の中に此の寿量品在さずんば、天に日月の無く、国に大王無く、山海に玉なく、人に魂の無からんが如くなるべし」云々。(寿量品得意抄)
如此(かくのごとく)御金言遊ばされまして、実にこの寿量品と申すは、一切経の最大王、大光明、大生命にて在すぞとの御教えであります。
それと申すは、この寿量品の肝心妙法蓮華経は、十方三世諸仏の主師親にして、一切万善万行・諸波羅蜜の功徳を一も漏らさず円備し給うところの、尊無過上・大事至極の御本尊にて在(ましま)すが故であります。
之を経に、如来秘密神通之力と説かれてあるのであります。秘密とは釈(『法華文句』巻九)に「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密となす。仏三世に於て等しく三身あり、諸教の中に於て之を秘して伝えず」云々。
又云わく「昔説かざる所を名づけて秘となす。唯仏と仏のみ知ろしめすを密となす」云々とありまして、寿量品の肝心・妙法蓮華経は、爾前迹門等の一切の諸教には、凡て秘して説かず、但唯この寿量品に之を御説きなされてあるものなりとの意であります。
然るに、仏はこの寿量品を説かるゝに先立ち、涌出品に於て、上行菩薩等の高貴の御方を召し出されて、寿量品を説き顕され、その肝心の妙法をば、神力・嘱累に於て、四句の要法に結んで之を付属し給われ、滅後末法一切衆生の為に御遺しなされましたのである。
故に、仏滅後末法に於て、必ず寿量品の肝心妙法を弘通し給うところの法華経の行者が現れ給わねば、仏世尊の経文が妄語(もうご)となるのである。『神力品』の文に
「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇 乃至 於我滅度後 応受持斯経」云々。
と説かれてありますとおり、上行菩薩が出現なされて、この末法濁悪の闇黒の世間に、本門寿量肝心・妙法の大光明を顕し給わねばならぬ。
然るに、吾が宗祖大聖人は、法華経を身口意の三業に御身読なされ、且つ、御所弘の法体は、本門寿量の肝心・妙法蓮華経にて在(ましま)すが故に、前後に冠絶せる、実に一閻浮提第一の法華経の行者にて在すのであります。外用(げいゆう)の辺は、上行菩薩の再誕なりと雖も、実には御内証(ないしょう)は久遠元初(がんじょ)自受用報身如来にて在すのであります。
その故は、宗祖親しく御深意を示されて、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」とも、または「第一の聖人なり」とも、または「日本国の主師親なり」等と、諸御書中に数多く御仰せ遊ばれ、而も常に、御所弘の法体たる妙法は、宗祖御自身の御魂なることを実現表示し給うている。
のみならず、法華経の文々句々を三業にあてゝ御修行なされ、事実に示し給うのみならず、三類の強敵並びに四度の大法難等の現証を以て、経文に契当(けいとう)し、真実の道理を示し給われている。経文の「我れ身命を愛せず但無上道を惜しむ」(法華経『勧持品』)、「一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず」(同『寿量品』)の御修行なるが故に、大聖人に於かれては、法華経の御為には種々の大難は波の如くよせ、山の如く重ね来り、御身命をも奪わる無量無辺の御艱難(かんなん)に遇い給うという事は、素よりの御覚悟にて在す。この大御決定心は、実にこれ、日本国乃至一閻浮提一切衆生を救済し給うところの、主親師の大慈大悲の至極と申すものであります。
宗祖大聖人、法華経の行者として、如斯(かくのごとき)大難を忍ばれ、大慈大悲の御振舞を実現し給う御意義は、如何なる事ぞというに、とりも直さず、寿量品の肝心たる、妙法蓮華経即三大秘法を御弘通に在すことは、言うまでもなく明らかな御事である。これ実に、大聖人御出世の一大事にして、宗祖が種々無量の大難に遇い給い、殊に寿量品御身読等の大慈大悲の御修行というものは、実に、寿量品肝心の妙法の光明を人格的に顕現実証せられたる、即ち出尊形仏にて在すのである。
故に、寿量品肝心の妙法は、大聖人所弘の法体、法体即大聖人の御魂にて在す。なれば大聖人は、その妙法の本尊に即するところの実に能弘の人にて在す。故に能弘の人たる大聖人を離れて、所弘の法体たる妙法の本尊はなく、所弘の妙法の本尊の外に、能弘の宗祖大聖人は在さぬ。能所不離不二・人法名は異なると雖も、その体恒(つね)に一である。之を人法一体の御本尊と称し奉るのである。
『撰時抄』に、三度の御諫言の事を示し給う文の下にの玉わく、
「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず、只偏に釈迦如来の御神(たましい)、我が身に入りかわせ給いけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」云々。又『血脈抄』に云わく
「釈尊久遠名字の御身の修行を末法今時の日蓮が名字即の身に移す」(『本因妙抄』)
また云わく
「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に介爾(けに)許(ばか)りも違わざるなり」云々(『百六箇抄』)
此等の御文証と云い、宗祖大聖人一閻浮提第一の法華経の行者としての御振舞の現証、並び経論の明文道理と申し、宗祖は実に、御内証・久遠元初無作三身の御本仏にて在すことは、文明らかに理審(つまび)らかにして、現証赫々(かっかく)、毫末(ごうまつ)疑う可からざるのであります。
然るに、他宗他門の謗法(ほうぼう)の輩(やから)は、経文の所謂顚倒(てんどう)の衆生にして、近しと雖も見えざらしむの類(たぐい)にして、宗祖大聖人御内証の深意を見知ること能わずして、脱益の釈尊を以て本仏と立て、宗祖を単に上行菩薩と下すは、大謗法の根源と申すものである。
それはさて措(お)き、宗祖大聖が末法に出現し給いてこそ、始めて釈尊の経文も実語となり、又、仏が寿量品を説かれしは、実に、末法に法華経の行者が寿量品肝心の妙法を弘め給うが為なりしこと、明らかなる事実であります。
下種本仏が末法に現れて、寿量品の肝心妙法を弘通し給うという事は、実に、釈尊出世の本懐にして、又、仏親しく望ませ給うものなることは、法華経の五箇の鳳詔(ほうしょう)の文に依っても明らかであると云うべきである。故に、もし仏が寿量品を説かれしとも、宗祖大聖人が、末法に本門三大秘法を弘め給わずんば、釈尊出世の本懐は破れて了(しま)い、一切三世諸仏の舌相(ぜっそう)証明等も妄語となり、仏法は根本より滅亡し終らねばならぬ。日は西より出で、天は地となるとも、争(いかで)かかゝる事の有るべき。若し然らば、真実中の真実たる、法華本門寿量肝心の妙法は、宗祖大聖が下種本仏として現されたると同時に、仏法の大寿命・大光明は、実に此に存すいるものであります。
宗祖の玉わく「日本の仏法」と云々(『諫暁八幡抄』)
そこで、寿量品が、一切経の大王、大光明、魂等なりとは何故なるぞと云うに、前にも述べましたる如く、文底肝心の御本尊が在すが故であります。故に、この御本尊を仏祖大聖人の御金言の通り、謗法余念なく、一心強盛に信心修行し奉れば、一切所有の功徳善根を成就し、十方三世諸仏も「我即歓喜諸仏亦然」(法華経『見宝塔品』)の経文の如く、普(あまね)く利益し給うのみならず、本仏大聖の大慈大悲の大光明に照らされ、金剛不可壊の仏身を成就せんこと毛頭疑いなきことである。而もこれ勇猛精進・不惜身命の信行ならねばなりませぬ。又、如何に信心ありとも、爾前迹門等の謗法が少しでも有りては、成仏思いもよらぬ事である。
故に、吾人は、宗祖大聖人の御金言を堅く遵守し、仏法の為、国の為には、身命をも惜しまざる決定心を常に養い、常に持って、一心に本門三大秘法を持ち奉り、奮励(ふんれい)努力止(や)まざるこそ、真の意義あり、光明あるところの生活というものにして、茲(ここ)に始めて真の寿命を成就し、即身成仏を得るのであります。
(大日蓮 大正六年十~十一月号掲載)
※難読と思われる漢字には、当ホームページ編者の独断で、ふりがなをふった箇所があります。