総本山56世 日応上人ご指南

 

 

 

 末代折伏の難行を、大聖人の如く末代の愚輩に行ぜよと仰せられたとて、容易に真似出来得るものでは無い(略)されども大聖人の弟子として此大法を信じ成仏を願ふ者は、常に大聖人の大慈大悲を以ての故に行じさせ玉ふ折伏の御本懐を忘れ奉らず、能く能く身に染めて、及ばぬまでも身命に懸けて折伏を励まねばならぬ    (日応上人全集238)

 

 

 

 ああ、内外男女の人々よ、たまたま生をこの土に受くといえども、人身は受け難し。たとい人身は受くるとも、仏法流布の国に生まるることは、はなはだ難く、たとい仏法流布の国土に生まるるといえども、法華経流布の時機に値うことは難く、たとい希にその時機に生まれ値うといえども、真の正法正師に値って、この経の正意、本門寿量文底下種事の一念三千の法門を聴聞することは、これ実に難中の難事なり  (一念三千法門 5ページ)

 

 

  仏法にも「信は荘厳より起る」と申してありますが、三宝様の安置の具合や、其の三宝様の勧請してある本堂などが微妙(きれい)であると、自ら信心の心が起て来ますのは事実であります。又、三宝様や精舎の尊き事を感じますれば、自然に立派な本堂等も出来る訳であります。即ち自分の信心が本となり、精舎の荘厳が成立ち、精舎の荘厳が体となり、而して他人の信心を喚起する様になるのであります(日応上人全集①290㌻)

 

 

◇信心の厚薄によるべきなり

 「信心とは無疑曰信と申して疑いなく一心強盛に信じ奉るを信心と申したものである。然るに常には随分信心ある様に見へる方でも、何か災難にでも罹ると、是程信心しても何ぞと御本尊様の御利益を疑ふものがあるが、是れは過去より作り重ねたる自己の罪業を知らぬからである。

 荀子と云ふ書の中に「短綆以て深井の泉を汲むべからず」と云ふ語が有る。此の意は至て深き井戸が有て、外より之れを臨(のぞ)き見れば余りに深ひので、我が目の及ばぬと、綆(つるべ)の短くして水迄届かぬことに由て、井戸にっみずなく沽渇(かわい)たりと思ふたのは、畢竟(ひっきょう)我力の及ばぬからの事であると云ことを述べた語である。

 さて此の大法の信心も亦斯の如く、自己の信心の目の及ばぬと修行の綆の短ひので、境妙たる御本尊の清井の智水を汲む事が出来ぬことを知らずして、此の井戸に御利益の清水が無ひと思ふたのである。聖祖開目抄の下に「我並に我弟子諸難ありとも、疑心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我弟子に朝夕教へしかども疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするゝなるべし」等と云々。

 若し爾らば此の祖判の宣ぶが如く、如何なる諸難目前に来るとも疑心なく、一心欲見仏の信行を励むに至らば諸天善神の加護をも受け、現世安穏にして自然に仏果に至ること疑ひなかるべし。(日応上人全集 1-265㌻)

 

◇謗人・謗家・謗国

 謗法に与同する失(とが)に付て、謗人、謗家、謗国と申して三の与同罪がある。凡(およ)そ吾が日蓮大聖の門葉として此大法を信行するに付ては、此三つの謗法罪を能く弁(わきま)へて其(その)謗法に与同するの失を脱(まぬか)れねばならぬ。

(日応上人全集 1-233㌻)

 

毎月の行事

 

  ● 先祖供養 お経日  

      14:00/19:00

※日程変更あり・要確認

 

第 1    日曜日 

  ● 広布唱題会      

      9:00

 

第 2    日曜日 

    ● 御報恩 お講  

            14:00

 

お講前日の土曜日  

     ●お逮夜 お講   

            19:00

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