総本山43世 日相上人ご指南 「数珠について」
日相上人御説法 於東都三精舎
珠数
ー十月二十二日 妙縁寺にてー
珠数は至極大節な者にして、當門流にも珠数抄と云ふ秘抄もある。又爾前経の中にむくろぢ経といふ御経の中に珠数の功徳が説いてある。爾(さ)れども、其の御経や書物の通りに云てゐては根から分らぬ。畢竟今日珠数の事を申入るも、見れば檀中の内にも珠数をば何でもないものに心得、煙管煙草入も同様に心得て、やたら無證に畳の上などへほかり出して置く人がある。畢竟そういふ人のために、能く分る様に、右の六かしい珠数抄に構はず手前一分の了簡で、初心の人によく分る様にいふので御座るから、定めて無理なことも御座らう。又こじつけなことも御座らうなれども、詮ずる所は、今まで珠数をおろそかに心得てゐた人が、これを聞いて得心して、已来珠数は大節なものだ、色房の珠数は持たぬものだと合点のいくやうに、割りくだいて申し聞けるので御座るから其の心得で聴聞を頼みます。
さて昨日も申す如く、南無妙法蓮華経と唱るのは、我一心の性根玉を磨くのだ。其の南無妙法蓮華経と唱ふるには珠数が入用だ。珠数は我一心を磨く道具だ。時にどうした訳で、又この珠数を一心を磨く道具にしたものかと云ふ時に、先づ珠数の二字は、珠を数へると書いて、右云ふ如く南無妙法蓮華経と唱ふるのが、我一心の性根玉を磨くなれば、日に幾度も磨くのだが、其の玉を磨いた数をとる道具なる故に、珠を数へると書いて珠数と名けたもので御座る。
そんならば、一日に一返か二辺磨いたら能さそうな者だが、なぜ又其の様に何返何返も磨くものかといふ時に、凡そ我一心よりして種々様々な妄念を起す。其の根本は煩悩業苦の三道と云て、三通りの悪道がある。其の悪道へ、我一心を己が手に引摺り込めて仕舞。煩悩といへば只一つのやうなれども、凡そ其の数は百八ある。夫はどうして百八あるぞなれば、先づ見惑と云て、目に物を見て惑を起す。見はみるといふ字、惑はまどうといふ字。依て見惑といふ。此の見惑に八十八ある。一々いへば長いこと故、それは略して、次に思惑と云て、思はおもう、惑はまどうといふ字にして、是をこうしたい、あれをあゝしたいと心に思ふ所のまどひが十ある。是で九十八の煩悩となる。此の九十八の煩悩は、根本は十纒と云て、纒はまとうといふ字。この十纒が心にまとひついてゐて、どうしても離れず。右の九十八の煩悩を起す。爾ればそれ見惑の八十八に、思惑の十で九十八。これに十纒を加へて、百八の煩悩となる。
時に此の十纒と云は何々で十纒ぞと云時に、先づは無慚。無慚とは慚(はじ)ることなしと書いた字だ。作る所の罪に於て、自身に慚(は)ぢざるを無慚と名づける。二には無愧、是も愧(はぢ)ることなしと書いた字で、是は作る所の罪を、他に愧ぢざるを無愧といふ。三は嫉。嫉はねたむといふ字にして、是は他の善を見て嫉をなす。是を嫉といふ。四には慳、
慳はおしむと云字、是は金銀財宝等を慳んで人に施さゞるを慳と云。五には悪作。悪作とは悪をなすと書いた字、是は追悔を義とするを云て、追悔とは追って悔ると云事。是の追(おつ)て悔ると云は、昨日作った処の悪事を今日思ひ出して、昨日は浅間しい悪事を作りつるものかな杯(など)と、追て悔るを是を悪作と云。六には睡眠。二字ともにねむるといふ字なれども、少し不同がある。意識昏迷といつて、心に無(なく)はねむくなつたと思ふ所を睡といひ、正しく打臥して寝入たる形是を五精暗冥と云て、眠と名づける。
七には掉挙。心をして静ならざらしめ、色々の事を思て、あくせくと●(いそが)しく、たまたま看経にでもかゝると、種々様々な事を思ひ出して、どうもじつとして居られず、心の静ならざるを掉挙と名づく。八には昏沈。是は心身重くして、性に堪忍なく、性来粗気なるものを昏沈といふ。九は忿、是はいかり腹立つこと。是について順理と非理とある。忿(いか)るべき道理あつて、忿は是れ順理なり、忿らずとも能きことに忿り腹立つ、是を非理の愼(瞋)
といふ。十には覆。覆はおうふといふ字。自身の罪を他人に知らせまじと覆い隠す。是を覆といふ。已上これを十纒と名づく。なんと皆ちとづゝは覚が御座らう。
此の十纒根本にして、都合百八の煩悩面この一心にある事なれば、日々夜々に、一つか二つか三つ四つ是非起る。其の起る所を煩悩を取り挫かんがために、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱へる。依て百八煩悩を表して、大体珠の数百八つ、外に少し小さい玉が四つ、是は四菩薩を表す。四菩薩とは何。上行菩薩等の四菩薩、此四菩薩は則地水火風の四大なり。此の地水火風の四大に依て面々我等が身体(からだ)を持つ。爾れば則四菩薩と号する所の四つの玉は、面々我等が自体なり。合せて百十二の珠の数、さて又親玉と名づけて、大きな玉が両方にある。是は両親を表す。両親は則ち陰陽なり。男は陽、女は陰なり。陰陽は則ち天地なり。日月なり。天地陰陽日月両親を表す。二つの親玉なり。さて房に付て居る玉数両方で三十。是は只数取りなれば、別に評するに及ばず。然しながら且(しばら)く愚推を求めば、一念三千を標(し)るか。
一、ひやうたんの事。数取りの下に此ひやうたんを付る事は何事ぞ。ひやうたん俗にふくべといふ。世話に一升はいるふくべはどうしても一升しかはいらぬといふ。是はどう云事ぞなれば、凡そ一人間一生の禍福と云が有るは、皆過去の業因に依て生るゝ貧福なれば、何事も強欲なことをするな。どうしてもこうしても一升はいるふくべなれば一升しかはいらぬ。無理に入れやうとすれば、ふくべが破れて仕舞ぞといふ喩の意であらう。妙楽大師の御経には、今生の禍福は報(むくい)将来にあり云々。此の釈の意は、右のふくべの喩の意と同じ事にして、今生の禍福は、皆将来より持ち来る貧福なれば、必ず物事強欲にするな、何事も足ることを知て、必ず必ず欲のふかいことをするなといふ御釈の意なるべし。古歌に上見れば思ひ出もなき見なれども我ほどもなき人もこそあれ、万事此歌の如く心得て、世事の営み成せと云ふ意を以て、数取の玉の下へ瓢子(ひさご)を付たものかと存ずる。然れども。仏道の修行には、足ることを知て是でもう能いと思ては済まぬ。なぜなれば、上来云ところの百八煩悩のこと能く能く思ひ合すべし。
一、房の事。当門流には白い房を用ふ。是は白蓮華を標はす。蓮華にも色々あれども、就中白蓮華は至極清浄なり。白蓮華を表して白き房を用ゐる子細は、是も宜く喩なり。如何様に喩るぞなれば、蓮華の泥の中より生して、爾も泥に染まず、清浄に花咲く如く、我等衆生のむさき不浄の身体より、当体蓮華と云仏が出生するに喩た者なり。其の蓮華仏は如何様にすれば出生するぞなれば、随分此の珠数を大切にして、珠数は我一心を磨く道具ぞと意を得て、大切至極に相守り、本門寿量の教主日蓮大聖人の教へに任せ、余事余念なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉る故に、右の仏体を証得する。依つて御書廿三廿四丁当体義抄に日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正法を信ずるが故に、当体の蓮華を証得し、常寂光当体の妙理を顕はすことは、本門寿量の教主の金言を信じて、南無妙法蓮華経と唱ふる故なりと御意遊ばす。其の本門寿量の教主の金言を、教(おしへ)の如く持ち奉る宗門といふは、法華宗多き中に当門流日興上人の門流計りなり。依て御開山の阿闍梨号を白蓮阿闍梨日興と申し奉る。
一、小玉の事。此玉は我一心を標す者なり。前後を結び付て動かぬ様にしてある訳は、先づ世間の事に取て云はゞ士農工商共に皆それぞれの当り前は是ぞと思ふ事に一心を止めて、是もいかぬあれもいかぬと色々に心を転動するなと云事を知らせん為に、一心を表した玉を、あとさき結び付て、動かぬ様にしてある。是は世間の事。扨て又仏道修行に取つては、他宗はさておき、日蓮宗の内で、一致でも八品でも、何んでもかでも有り難い。只題目さへ唱ふれば能い。毘沙門でも、鬼子母神でも、無証に信心さへすれば能い事と心得ると自ら一心が色々動く。其の一心を動かさぬ様に、とても仏道修行するなら。無上道たる大法本門寿量教主の金言たる日興上人の門流を只一途に信じ奉るこそ当体蓮華仏といふ。仏身を成就するでこそあれと云意を以て、此の一心を標したる小玉を動かぬ様に結び付たもので御座る。是を自我偈の仕舞ひに得入無上道速成就仏身と御説成され、御書判には、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体の蓮華を証得すると御意遊ばす。此正直正法の正の字を分字するときは、一に止ると書く。然れば我心を無上道たる大法当門流の一に止て、余事余念なく、修業するものを誠の正直正法の行者と云たもので御座る。
然れば夫れ、珠数は至極大切な者なれば、必ず粗末にせぬ様に、畳の上へ投出して置かぬやうに、染めた珠数を持たぬ様に、朝夕此の珠数をはなさぬ様に、心掛けて怠らず。南無妙法蓮華経と唱へ奉る時には、右の煩悩業苦の三道が法身般若解脱の三徳と転(かわ)る。法身とは我一心の事なり。般若とは智恵の事なり。解脱とは悟りの事なり。
智恵と悟りがなければ、仏身を成就することはならぬ者なれども、面々我等如きの智恵も悟りもない者は、只一向に南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱へ奉るところの功徳に依て、煩悩業苦の三道が転じて、法身、般若、解脱の三徳と顕れ、泥の中より白蓮華の生ずる如く、我等が不浄の身体より、当体蓮華仏といふ仏体を顕す。是れ偏へに珠数を大切に心得、怠らず南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱ふる故なり。依て当体義抄に、日蓮が一門は正直云々此の事を則ち文字読みの御書判にさせる解(さと)りなくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば悪道を免るべしと御意遊されたもので御座る。昨日も申す如く、御経文自我偈の中には墜悪道中云々と説かれて御座る。