是れ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣(きすう)せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆、咸(ことごと)く此の文底下種の本尊に帰せざる莫(な)し。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり。
(大石寺に厳護されている大御本尊こそ、日蓮大聖人が一生の間に顕わされた数々の御本尊の中でも、一番、根本となる御本尊であるということ)
弘安元年已後、究竟(くきょう)の極説(ごくせつ)なり。就中(なかんずく=とくに)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐(ほんがい)の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況(いわ)んや一閻浮提総体の本尊なる故なり。
本門の戒壇の御本尊在(ましま)す上は、其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ、戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(とき)んば、本門の題目なり。志有らん人は登山して拝し給へ。
◇大御本尊ご在所が「事の戒」
富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒なり
(日寛上人のご説法を43世日相上人が筆録された古文書 引用は暁鐘別冊号 『摧破異流義考』 27ページに写真あり)↓
◇真の報恩謝徳とは、謗法破折による折伏
邪法を退治するは即ち是れ報恩(略)正法を弘通するは即ち是れ謝徳(略)謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり
(御書文段384ページ)
心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり。
故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向かい、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意(しんくい)の三業(さんごう)に折伏を行ずる者なり。是れ則ち身口意三業に法華を信ずる人なり。
◇子供は親を選んで産まれてくる
衆生、前生に善悪の業を作り已って、死して中有にある時、其の業力に由り、能く生処の父母の交会を見て愛心を起こし胎内いやどる。これを識と云ふなり。識と云ふは心法なり。
◇菩提寺に参詣することは大切な修行 <寿量品談義より>
何様(いかよう)の事ありとも万端をなげすて参詣して聴聞(ちょうもん)し、本門寿量の南無妙法蓮華経を唱へ奉り、報恩謝徳に擬(ぎ)し玉はん事専(もっぱ)ら大切なり。(中略)今幸いに本門寿量品を弘宣するに何ぞ参詣せざらんや。何ぞ夢中の世事にかかわって信心を励まざるや <富士宗学要集10ー143 取意>
◇自行化他の信心
自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり(御書文段 219ページ)
◇世の中への真の報恩は折伏
「身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(報恩抄文段・御書文段三八四)
◇総本山への登山参詣
何様(いかよう)の事ありとも万端を抛(な)げ捨て参詣して、聴聞し本門寿量の南無妙法蓮華経を唱え奉り、報恩謝徳に擬し給はん事もっぱらなり。(歴代法主全書④164ページ)
◇仏法聴聞の大事
信心進むことは法を聞くによるなり。聞かざれば信心生ぜず、信心生ぜずんば修行に怠る。修行に怠れば未来、何なる処に生るべしや。仍って歩みを運びて聴聞肝要なり
(歴代法主全書④164ページ)
◇「智目行足 到清涼池」
是れより何国へなりとも行かんとするには、必ず先づ目を開けて行く処の道筋を見て、さて正しく発足してあゆまねば、我が思ふ所へは行きつかれぬ。いかに目を開て見ても足を踏み出さねば思ふ所へは至られぬ。全く其の如く信心の目をあいて一切の万法我が色心の全体妙法蓮華経でこそあれと合点し解了して、さて修行の足をふみ出さねば寂光の都に至る事はならぬ。然れば尤も修行が肝心でこそあれ (序品談義 歴代法主全書④76~)
◇心を磨く信心修行
此の如く三惑の塵に覆われて中々真っ黒に曇って居る処の鏡なれども、信心の砥の粉をかけて修行を力を出し、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と磨く時は、只今まで真っ黒の鏡なれども、急に曇りの塵を払い明らかになって、十界妙法蓮華経の像を浮かぶる事は偏に人の磨く修行に依る (歴代法主全書④76)
◇如来の事(じ)を行ずる信心
自ら本因下種の妙法を唱へ、人をも勧めて唱へしむるは、則ち如来の事を行ずるなり
(新説結座説法 歴代法主全書⑥516)
◇唱題によって、曇ったわが心を磨く
「三惑(さんなく)の塵(ちり)に覆(おお)われて、中々真っ黒に曇って居る処の鏡なれども、信心の砥(と)の粉(こ)をかけて修行の力を出だし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と磨く時は、只今まで真っ黒の鏡なれども急に曇りの塵を払い明らかになって十界妙法蓮華経の像を浮かぶる事は、偏(ひとえ)に人の磨く修行に依る」
(歴代法主全書④76ページ)
◇真の報恩謝徳とは?
「邪法を退治するは即ち是れ報恩(略)正法を弘通するは即ち是れ謝徳(略)謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(御書文段 384ページ)
◇御供養には、御本尊様への信心がなによりも大事
「たとえ山の如く財(たから)をつみ候いて御供養とも、若し信心なくば、せんなき事なるべし。一滴一塵なりとも、信心の誠あらば、大果報を得べし」
◇一生に一度だけの唱題で、成仏が可能なのか?
問うて云わく、若し爾(しか)らば我等衆生、一期(いちご)に一遍なりと雖も不退の位に到るべきや。答えて云わく、若し過去の謗法無き人は実に所問の如し。遂に不退に到るべし。然るに我等衆生は過去の謗法無量なり。此の謗法の罪滅し難し。天台の云わく「泰山の壊(やぶ)るに非(あら)ずんば焉(いずく)んぞ江海を塡(うず)めんや」云々。況んや文に「終に到るべし」と云う、之を思い見るべし。
◇末法の僧宝とは?
南無僧とは、若し当流の意は(略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。(当家三衣抄 六巻抄225㌻)
◇末法の僧宝とは? ②
所謂僧宝とは日興上人を首と為す。是則ち秘法伝授の御弟子なる故なり(三宝抄 歴代法主全書④385㌻)
然れば則ち吾が日興上人嫡々写瓶の尾弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり。(同前 390㌻)
◇日蓮大聖人は、まさしく「人本尊」
問う、蓮祖大聖人、我が身は法華経の題目なりと知ろしめし、久遠元初の自受用身と顕われたもう文理如何。答う、吾が祖は諸宗遊学の間に普く一代聖教の淵底を究めて滅後弘経の次第を検え、都て八宗の奥義を尽くして末法流布の深秘を暁む。御年三十二歳、建長五年癸丑の春の比、再び故郷に帰り末法の本尊を祈りたもうに、四月二十八日の暁天に、古僧示して云わく「汝が身を以て本尊と為すべし」〔新定二七二二〕と。即ち明星池を見たまえば、不思議なり、蓮祖の影即ち今の大漫荼羅なり。此の時、正しく我が身は法華経の題目なりと知り、朝日に向かって始めて南無妙法蓮華経と唱う。而る後、無量の巨難を忍び三大秘法を弘む。文永八年九月十二日子丑の刻、竜口御難の時、名字凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕われたまえり。具には開目抄愚記の如し。故に蓮祖大聖人は末法下種の本仏、主師親の三徳なり。故に本尊と仰ぐべきなり。 (法華取要抄文段 御書文段542ページ)
◇大聖人は、末法の衆生に三徳有縁の仏
凡そ当抄(開目抄)の大意は、末法下種の人の本尊を顕わすなり。謂わく、蓮祖出世の本懐は但三箇の秘法に在り。然(しか)りと雖(いえど)も、佐渡已前に於ては未だ其の義を顕わさず。佐渡已後に此の義を顕わすと雖も、仍(なお)当抄等に於ては未だその名目を出ださず。然りと雖も、其の意は恒に三箇の秘法に在り。中に於て当抄は先ず末法下種の「人(にん)の本尊」を顕わすなり。故に当抄の始めに三徳の尊敬(そんぎょう)等を標し、次い儒外に続いて内典を釈する中に、先ず一代の浅深を判じ、熟脱の三徳を顕わし、次に蓮祖は是れ法華経の行者なることを明かす。巻の終わりに至って正しく下種の三徳を顕わし、「日蓮は日本国の諸人の主師父母なり」(平成新編御書 577)と云うなり。又佐渡抄に「日本国の魂なり、日本国の柱なり」(平成新編御書 1065)とは、荘ち蓮祖は日本国の主師親なるが故なり。(日寛上人 御書文段 53)
◇宿業が発動して病気が現われる
宿業冥伏して身中に之有り。散善の分にては動ぜざりし処に、今円頓止観を修するが故に宿業発動するぞとなり。(摩訶止観の文言を解釈したご指南)
(開目抄文段 御書文段179ページ)
◇大聖人御書中の「教・行・証」について
総じて大意を論ずるとは、相伝に云はく、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり。所謂開目抄には、一代諸経の浅深勝劣を判ずる故なり。此に五段の教相有り。
一には内外相対。(略)二には権実相対。(略)三には権迹相対。(略)四には本迹相対。(略)五には種脱相対。(略)当に知るべし、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘し沈め給へり云々。此の一文の中に権実相対、本迹相対、種脱相対は分明なり。「日蓮が法門は第三の法門なり」(御書1284)云々。(略)
次に、観心本尊抄は行の重とは、是れ則ち彼の抄に受持即観心の義を明かす故なり。彼の文に云はく「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(御書652)云々。「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ乃至妙法五字の袋の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(御書653+662)等云々。是れ則ち事の一念三千の本尊を受持すれば、即ち事の一念三千の観行を成ずるなり。
三に当抄は証の重とは、下の文に云わく「然るに日蓮が一門は、当体蓮華を証得して寂光当体の妙理を顕はすことは、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり」(御書701)等云々。 (当体義抄文段 御書文段 611)
◇文上(体内・体外)顕本と文底顕本
文上の顕本とは、久遠本果の成道を以て本地の自行と名づけ、此の本果の本を顕わすを文上の顕本名づくるなり。文底の顕本とは、久遠元初の成道を以て本地の自行と名づけ、此の久遠元初を顕わすを文底の顕本と名づくるなり。(略)文底未だ顕われざるを名づけて体外と為す。猶天月を識らずして但池月を観ずるが如し。文底已に顕わるれば即ち体内と名づく、池月は即ち是れ天月の影なりと識るが如し。(略)若し本地第一・本果自行の成道を「我実成仏」と説くと言わば、即ち是れ体外の寿量品なり。若し迹中最初の本果化他の成道を「我実成仏」と説くと言わば、即ち是れ体内の寿量品なり。内外殊なりと雖も倶に脱迹と名づく。是れ文底の種本に対するが故なり。(当流行事抄 六巻抄 171)
○文底体内と体外の得脱の相
本尊抄に云わく「久遠を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」云々。解して云わく「等覚に登らしむ」とは即ち体外の意なり、「妙覚に至らしむ」とは即ち体内の意なり。若し体外の意は常の所談の如し。在世の衆生寿量品を聞き、但二住乃至等覚に至る、而も妙覚に至るの人は都て経文に之れ無きなり。然るに体内の意は、霊山一会の無量の菩薩、体内の寿量を聴聞して但文上脱迹を信ずるのみに非ず、復文底秘沈の種本を了して久遠元初の下種の位に立ち還って本地難思の境智の妙法を信ずるが故に、皆悉く名字妙覚の極位に至るなり。是れ即ち体内得脱の相なり。
(当流行事抄 六巻抄172)
◇折伏実践こそ、世の中への真の報恩
問う、報恩の要術、其の意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり。(報恩抄文段 御書文段384㌻)
◇他宗の人が「お経の内容はそれぞれ違うけれども、目指すものは同じではないか」と主張する際に利用される「分け登る麓の道は多いけれど 同じ雲井の月をこそ見れ」という歌の真意について
日寛上人ご指南
「今謂わく、此の歌は教々の四門に約す。何ぞ一代に約すべけんや。天台の云わく『四門の観は別なれども、真諦を見るは同じ』云々」(報恩抄文段 御書文段384㌻)
(註)四門 … 天台宗で説く、実相の理に悟入する四つの門。有門(うもん)・空門・亦有亦空(やくうやっくう)門・非有非空門の総称をいう。蔵教・通教・別教・円教の四教のそれぞれに四門を説いている。
(参照 大聖人ご金言より)
「嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは、門は浅深はあれども心は一とこそかゝれて候へ。此が謗法の根本にて候か」
(報恩抄 御書1022㌻)
◇謗法破折の大事 仏法中怨
涅槃経の第三に云わく「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駆遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子、真の声聞(しょうもん)なり」文。「法を壊る者」とは、禅・念仏・真言等なり。然るに彼等が謗法を見て置いて呵責せざるは仏法の中の怨なり。譬えば朝敵をみて徒(いたずら)に之を責めざるが如し。豈(あに)朝敵に異ならんや。但、吾が蓮師は専ら如来の勅命(ちょくめい)を仰ぎ、敢えて身命を惜しまず、日々夜々に之を呵責し、月々年々に之を駆遣したもう。豈「是れ我が弟子、真の声聞」に非ずや。故に真実の釈子なり。若し門流の行者と雖(いえど)も、謗法を呵責せずんば仏法中怨の責、恐らくは免れ難きか。何ぞ身命を惜しんで無上道を惜しまざるや。(撰時抄愚記 御書文段292㌻)
◇邪法邪師の邪義を捨てて正法正師の正義を信ずる
邪法邪師の邪義を捨てて正法正師の正義に帰伏し、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、ち始めの謗法の重病を治して、不老不死の果報を得るなり(法華取要抄文段 御書文段 528㌻)
◇「不老不死」とは三世常住の利益
「三世常住の利益なれば不老不死なり」(如説修行抄筆記 御書文段599㌻)